4. 冬

 私はおまじないがほしかったんだ。

 心が砕け散ってしまいそうなときに呼び掛けるひとつの名前、思い浮かべてすべてを預けるひとりの男の子の名前が。


 家を出た記憶がないから、これはきっと夢なのだと思う。

 そういえば、春にも不思議な夢を見た。忘れていた、この場所に来るまで。

 桜の葉はすっかり枯れ落ちて、細い枝がたくさん、寂しそうに夜空に手を伸ばしている。風が吹く。粉々になってしまいそうな、冷たい風。落ち葉はかさかさと音を立てて風に身を任せている。

 桜の木々に囲まれた原っぱは、あんなに青々と生きていたのが信じられないくらい、弱々しく折れ曲がっている。

 月の光が降ってくる。世界を銀色に照らす。

 真ん中に、誰かがいた。それが誰なのか、私はずっと前から分かっていたような気がした。

 それは私の神様だった。

「待ってたよ」

 彼に近づいていくのを、月は見て見ぬ振りをするように変わらず照らした。

 少し見上げるようになる、その目は深い闇。

「行ってしまうの?」

 自分の言葉に驚いた。何かの予感に駆られて、言葉が飛び出したようだった。口から出たことで、それは確信となった。

 そうだ。この人は行ってしまう。私を置いて行ってしまう。

 それ以上何も言えずにいた。それは彼も同じだった。深い瞳はこんなにも何かを訴えているのに、それが何なのか私にはわからない。

 一歩も動けずにいる私たちの代わりに、カサカサと落ち葉が動き回る。

「いかないで」

 喉はからからになっていた。

 この人の前ではいつもそう。子供のようだった。

 溢れてくる涙が止められそうもなくて、うつむいた。

「置いていかれるのなら私、…死んでしまいたい」

 ふいに冷たい風から守られた。頬が彼の両手で挟まれていた。温かくて大きな手。

「本当に?君は本当にそう思っているの?もっと他の望みがあるんじゃないの?」

 はっとした。

 雲がかかったのだろうか、あたりは暗くなっていた。彼の表情はもう見えない。

「死にたいって言うだけで、もう君の感情は死んでしまうんだ。でも、君の心はそんなに単純なものじゃない。考えるんだ。その言葉の向こうにある、本当の望みを」

 本当の望み。本当に私が、望んでいるもの。

「離れたくない。でもだって、どうしようもないなら、他に手段がないなら」

「なら君は死にたいんじゃない、知りたいんだ。自分の生きている意味を。離れねばならなくて、それでも生きていく、その意味を」

 額に冷たいものが落ちてきて、溶けて流れた。ひとつ、またひとつ。

 雪が降っていた。結晶のひとてひとつが、世界の音を吸い込んで地面に優しく降り立った。

「君に会いたかったんだ、俺の神様。

 今の君は想像もつかないだろうね。

 このさき君は小説を書く。たくさんたくさん書く。最初は自分が苦しくて吐き出しただけかもしれない。それを多くの人が読むようになる。

 君の物語が世界を変える」

 冷たい風が吹く。月が姿を現し、あたりはまた銀色に照らされた。

 風はその瞬間、桜色になった。

 月の光を浴びて雪は花びらとなり、原っぱの上を踊った。

「君は起こることすべてを濾過して、物語を作る。君の中を通って、綺麗なことも残酷なことも物語になるんだ。

 君の心が世界の方向を変える。その先で待ってる。

 おいで」

 差し出された手を取り、引かれるままに原っぱを横切る。

 いつか無我夢中で駆けた竹やぶの中は真っ暗に見えた。こんなところ、とても通れない。

 躊躇する私に引っ張られて、彼も立ち止まる。

「大丈夫、怖がらないで」

 優しく引く手にうながされて、暗闇の中へ入った。乾ききった笹の葉が、踏み出すたびに鳴る。外側からはあんなに暗く見えたのに、こずえを縫って光が漏れ入ってきているようだった。

「大丈夫。入ってしまえば、思うほど暗くはないんだ。それに、君が暗闇を歩くときには必ず俺が手を引くから」

 モノクロの世界の中で、さく、さく、と2人分の足音だけが響いている。音も色もどこかに吸い込まれてしまったようだ。

 ここはきっと世界の境目。私たち以外誰もいない。

 あのとき駆け上がったら息が切れるほどの距離だったのに、すぐに竹藪の出口が現れた。

 彼は何かためらうように立ち止まった。

「ここを出たら神社の横を通って鳥居を抜けて。それまで振り返ってはいけない」

 隣に並んで、横顔を見上げる。はるか天空から落ちてきた月の光が照らす。

 彼もこちらを見た。

「私は知りたい。次に会うときまでにきっと、答えを見つけ出す。次会うときに、教えてあげるね」

 さっき泣き叫んだのが他の誰かだったかのように、心は静かだった。繋いでいた手は、どちらからともなく離れた。

 背中をそっと押された。それはとても優しくて、春の始めの追い風のようだった。

 竹やぶを出ると、眩しいほどの月明かりだった。神社はいつかのように静かにそこにあった。その先の鳥居はモノクロの世界に沈んでいる。鳥居をくぐるまであと一歩、私は目をつむる。またそっと追い風が吹いてーーー足を踏み出した。

 目を開けて振り返ると、鳥居とその向こうの神社が変わらず、静かに夜の底に沈んでいた。

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