あちらとは、どちらですか?

 


『環か』


 母屋でかけても誰が聞いているわけでもないのに、気分的な問題か、環は納屋の隅で電話をかけることにしたようだった。


 ほとりは側に立ち、その様子を眺める。


『なかなか優雅な逃亡生活を送っているようだな、美人の嫁さんをもらって』


 田村の堂々としたハリのある声が、スマホから漏れ聞こえていた。


 思わず聞き入ってしまう声と話し方だ。


 この声で演説されたら、例え向こうが悪いことをしていても、いいえ、貴方様が正しいです、と言ってしまいそうだった。


『私の許を離れた秘書の長谷川環は、沢良木さわらぎ先生の娘を嫁にもらって、地元に帰り、出馬に向けて、着々と地盤を固めているそうだぞ。


 お前の人生はまさに順風満帆らしいな』


 人の噂話というのは、本当にあてにならないものですね……。


 環の人生を表すのに相応しい言葉は、波乱万丈とか、絶体絶命とかだと思うのですが。


 狐です、とか言って現れる謎の嫁。


 人殺しの親友。


 そして、すぐそこでは、見て見ぬフリをしている死体が腐りつつある……、と思いながら、ほとりは真横にある緑の冷蔵庫を見た。


 まあ、なにもかも、田村先生の許から四億円持ったまま、此処に逃亡してきた、この人の自業自得なんですが……。


 ほとりがそんなことを考えていると、

『まあ、いい』

と言った田村が溜息をつくのが聞こえてきた。


『金に関しては、お前の親も、沢良木先生も立て替えるとおっしゃってくださってるんだが――。


 私は四億程度の金をうんぬん言ってるんじゃないんだよ、環。


 お前は政治家というものがわかっていない。


 政治家がどれだけ金のかかる仕事か、お前は知っているだろうが。


 地元からの陳情は耐えまなく続き、それを叶えるために、あちこちに根回しをし、地元民を接待し。


 正当な報酬だけで足りるわけがないっ』


 それはそうなんですけど、先生。


 環はそういうの駄目なんですよ。


 だから、この人に政治家は無理です、と思いながら、ほとりは聞いていた。


 お寺を訪ねてきたおばあちゃんたちの話を黙って聞いているときの環の横顔が好きだ。


 顔にも言葉にも環のやさしさはあまり出てはこないが、おばあちゃんたちには、ちゃんと伝わっているようで、ただ聞いているだけの環の許に足繁あししげく通ってきてくれる。


 うん……。


 やっぱり、そんな環が好きだなあ、と切羽詰まったこの状況に、まったく相応しくないことをぼんやり思っていると、田村が言ってきた。


『またお前に邪魔された、と言っている人間が居るんだよ』


 え、また……?

とほとりがよく聞こうと寄っていくと、環は、なんとなく、ほとりから逃げていく。


 いやいや、聞こえないではないですか、と思いながら、ほとりは環を追っていき、壁際に追い詰めた。


 なんなんだ、という顔をする環の手にあるスマホに耳を寄せ、ほとりは聞いた。


『四億は私はもう受け取らないから、お前、あちらにお返ししなさい』


 あちらとは、どちらですか……?

と環を見ると、環は、なにか考えている風だった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る