路地裏のマリア
マフユフミ
第1話
その道を通ったのは本当に偶然で。
普段は気にかけもしない薄暗い路地裏に、吸い込まれるように入ってしまったのは、今思うと何かに導かれていたのかもしれない。
大通りから一本入った道の、さらに右に続く細い道を行く。
寂れたアスファルトが途切れ途切れに続いていて、数日前の雨が細い川となっている。
道の隅に転がるピンクのハンカチには渇いた泥がこびりついていて、カラカラに固まっていた。
もう持ち主さえ分からない、かわいそうなハンカチ。
どこかの家から玉ねぎを炒めるにおいが漂っていて、今が日暮れの頃だと思い出す。
夕飯の支度を思わせる音、香り、どことなくせわしない空気感。
そういったあれこれを「懐かしい」と思わせるのは、いったい何なのだろう。
どこに続くのかも怪しいその道を、ただゆっくりと歩いていく。
別に急ぐ用もない。
ただ単に、道があるから足を進めるのだ。
目的も何もない歩みはむなしい。
それでもやめられないのが侘しい。
今の自分は、さっきのハンカチと同じだ。
時折、近くの大通りからの音がする。
車のクラクション、パトカーのサイレン。
この世界は、基本的には不穏な音であふれている。
だから僕は耳を塞ぐ。
僕の体を不穏で満たしてしまわないように。
淡々と歩く足下を、野良猫が掠めていく。
別に追いかけやしないのに、ものすごい勢いで逃げていく猫は、この無為な人間を一体なんだと思っているのだろう。
目を細めて見る先に、何匹もの猫の群れ。
野良猫、と呼ばれている彼らにも仲間が居る。それが何とも不思議で仕方がない。
ここに人間はたった一人だというのに。
それでも僕は歩みを進める。
一歩ずつ、一歩ずつ。
ただひたすら刻まれる単調なリズム。
そして、猫の群れの横を通り過ぎようとしたとき。
ふいに鉄のような匂いが鼻に就いた。
何気なく横を見た瞬間、その正体が目に飛び込んでくる。
それは、全身血まみれになった瀕死の猫だった。
大通りで車に轢かれでもしたのだろうか、よく見れば道には点々と血の跡がついていた。
その猫の周りをほかの猫たちが囲んでいる。
それは、なんとか助けたいという思いにも、最期を見送ろうとしているようにも見えた。
しかし、瀕死ではあるもののまだ若干息は残っているその猫は、いまだだらだらと血を流している。
かすれた鳴き声をあげ、息も上がってしまっている猫の姿は痛々しい。
「死にきれない」とは、こうもむなしいものなのか。
胸に重い鉛でも落とされたかのように、僕は息苦しくなった。
いつか必ず来る死を、苦しみながら待つその時間は、猫に何をもたらすのだろう。
そう思って僕は目をそらした。
集まっている群れが哀しい。
誰一人として、あの猫を助けられるものなんていないじゃないか。
傍観者である僕はただ、せめて安らかに猫が眠れるよう願うだけだ。
そんなとき、後ろからザッザッと足音がした。
こんな路地裏の寂れた道を好んで選ぶような人間が、僕以外にもいたとは驚きだ。
足音はだんだん近づいてくる。
それと同時に、少しかすれた、それでもしっかりとした歌声が聴こえてきた。
「主よみもとに近づかん」
美しいメロディーは童謡でも歌謡曲でもない。
「登る道は十字架に」
よくよく聞くと、それは死への旅立ちを歌っている讃美歌のようで。
気になって振り返ると、黒のTシャツにジーパンというどこにでもあるような格好の少女が歩いていた。
彼女は迷うことなく猫の群れへと向かっていく。
まるで瀕死の猫に讃美歌を手向けるように。
声はこちらにまではっきりと届いていた。
哀愁を帯びた、それでも落ち着きを感じさせる声。
まるで特徴のない少女の見た目に反し、その声には強く人を惹きつけるものがあった。
「さあ、おいで」
讃美歌を歌い終えると同時に、少女は猫の群れに入っていく。
そして、血まみれの猫に手を差し伸べた。
周囲の猫も、少女の迷いないしぐさに動きを封じられているかのようにおとなしい。
少女は猫を抱き上げると、それはそれはやさしい微笑みを浮かべた。
全ての命を愛おしむかのような慈愛の表情。
誰もが魅入ってしまう柔らかい表情のまま、少女は右手を振り上げる。
手の先にはきらめく銀色。
「おやすみ」
そうつぶやいて、少女は猫の首元にナイフを突き立てた。
さらに流れ出す血は、夕日のように赤い。
やがて苦しそうに鳴いていた声は止まり、猫の体からはくたりと力が抜けた。
「いきましょう」
少女は微笑んだまま、猫を抱いて歩き出す。
あまりにも自然な流れで行われたそれに、僕は声をあげることもできなかった。
群れ為していた猫も、歩き出す少女と猫の亡骸を静かに見送っていた。
「主よみもとに近づかん」
やがて、小さくなっていく少女の影からはさっきの讃美歌が流れ始めた。
美しく、儚く。
それを聴きながら僕は、再び歩き始めた。
ぽつりぽつりと流れ落ちるその血を道しるべに。
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