第80話 到着
日の長い季節ではあっても、下校時間を過ぎ、無人となった学校という建物は、それだけで言いようのない不気味さを醸し出している。
正門前のマンホールがわずかに持ち上がり、健作のぎょろついた目が周囲を見渡して、人影がない事を確認すると、素早くマンホールから這い出して、静かに蓋を閉める。
龍脈。そう呼ばれる大地を流れる霊気の流れがあり、それに流される事で遠く離れた場所へ瞬時に移動できる。健作はこれに乗って学校へ戻ってきたのだ。
当たり前だが、正門は閉まっている。
健作は神経質なほど周囲を確認してから正門を飛び越えた。
異界に入っていれば人目を憚る必要はないと思われるが、異界においては、"閉じられている"という事実そのものが結界としての効力を持っている。現実世界では容易く破られたり乗り越えられるような扉でも、霊的には最低限の障壁として機能するのだ。
分霊人となった健作はその副作用で存在感が希薄になっている。校庭を横切り、校舎の裏側へ回る。
『健ちゃん、こっち、こっち』
花子の声が招く。その地点へ着くと窓がひとりでに開いた。そして、花子が顔を出す。
『さ、早く』
トイレの花子さんである花子にとって、トイレは自分の領域である。ポルターガイストで窓を開けるくらいは造作もない。
問題は、そこが女子トイレである事だけだ。
「だ、誰もいないよね?」
『当たり前でしょ! さぁ急いで!』
事は一刻を争う。健作は人目がない事をしつこく確認して、窓に飛び込んだ。
夕日が差し込み、風通しもない部屋の中は、今の季節では、本来蒸し暑いはずなのだが、美術準備室の中に立つ健作は、どうにも冷んやりとした感覚を覚えている。
その感覚は、目の前にある布を被せたキャンバスに由来するものだった。
かと言って、キャンバスから異様な霊気が放たれているというわけではない。分霊人となった健作の本能が、目の前の布の下にあるものに、危険を感じているのだ。
しかし、このままじっとしているわけにもいかない。
布やキャンバスに触れないように細心の注意を払いながら、キャンバスが乗っている台を揺らしたり持ち上げたりする。
『なにやってるの、健ちゃん?』
健作の背後で、花子が心配そうに声をかける。
「ちょっと動かそう。広い方が戦いやすい」
そう言って、健作は台ごとキャンバスを美術室に運ぶ。
何かしら起こるとしても、布を取ったり、絵を見る事がキーになっているはずである。
キャンバスを壁際に置き、布をつかむ。
「花ちゃん、下がって!」
花子を背に隠し、ウエストポーチから拳銃を―
「……ん?」
指先に違和感がある。入れた覚えのない感触だ。生き物だろうか?
掴んで引っ張り出すと、それは博之であった。
「や、やぁ」
襟首を掴まれながら、博之ははにかんだ顔で会釈した。
「お、お、お前、何やってんだよ!?」
健作の顔が引き攣る。
「ごめん。でも、この件が僕の責任なら、僕も何かをしたいんだ。全部を君に尻拭いをさせてしまったら、僕は僕を許せなくなる」
「だからってお前―」
健作の拳がわなわなと震える。
『まぁまぁ健ちゃん。本人がやりたいって言うんだからさ』
花子が間に入った。
『それに、この子、見たところ憑りつかれ慣れてるでしょ?』
「そりゃまぁ、慣れてると言えば慣れてるけど、それが?」
『つまりね、いざとなったら神降ろしができると思うの。この子に』
「なに!?」
神降ろしとは、自らの身体に霊的存在を取り憑かせて、その力を用いる原始的だが強力な魔術である。
「だめだ、危険だ」
『でもね健ちゃん。今の状態のわたしがメフィストくらいの悪魔と戦うとなると、ちょっと厳しいと思うの。神降ろしをしてトントンて感じ』
「よくわかりませんけど、僕もお役に立てるんですね。よかった……」
博之は嬉しそうに笑った。
「お前なぁ……」
健作は、何とか博之を諦めさせようと言葉を探したが、自分の豊富でない語彙力では無理だと感じた。
それに、健作には博之の気持ちが良くわかる。分霊人となってすぐ、博之を助けに行った時のあの気持ちだ。できるかどうかや、勝算のあるなしに関わらず、とにかく行動しなければ気が済まない。あの時の十魔子も、今の自分と同じ気持ちだったのだろうと、健作は遅まきながら理解した。
加えて、花子の意見も無視できない。花子が神として黄麻台高校に置かれたのはいいものの、昨日の今日では定着もままならない。その場所に神として定着し、その力を発揮するためには、長い年月が必要なのだ。つまり、今の花子は一介の学校妖怪と同程度の力しかないのである。
神降ろしをし、肉体という依代を得れば、霊体の形成や思考に回している霊気を戦闘に使える上に、その人の霊気も使えるので、大きなパワーアップを見込める。しかし、依代となる人間には心身共に多大な負担がかかる。
博之は、一か月ほどメフィストに体を明け渡していた。つまり、相手は悪魔であるが、神降ろしを常時していたことになる。その経験が、博之の心身を、ある種の霊媒体質。神降ろしに適したものに作り替えたと言われれば、なるほど、納得できるかもしれない。だからと言って、博之を戦いに巻き込んでいいのだろうか。
「……」
数秒間、健作は足りない頭で必死に考えたが、答えは出ない。悩むことが許される時間もない。こうしている間にも、十魔子が危険にさらされてるかもしれないのだ。
「ウガーっ!」
健作は獣のような叫びを上げながら頭を掻きむしり、その後、ウエストポーチから拳銃を一丁取り出して、弾倉に弾が装填されている事を確認してから博之に差し出した。50口径の霊気結晶弾を撃てる拳銃である。
「これを使え」
「え、でも……」
「いいから!」
戸惑いながら、博之は拳銃を受け取る。
「メフィストでなくても、悪魔が現れたら遠慮なくぶっ放せ。いいな?」
「わ、わかった」
「花ちゃん。わかってるとは思うけど、神降ろしは最後の手段だ。いいね?」
『わかってるって』
「よし、2人とも下がって」
健作はウエストポーチから木杖を取り出し、片手で握りつつ、もう片方の手でキャンバスに被せられている布を取り払った。
「……」
「……」
『……』
特に何かが飛び出してくるという事はなかった。
そこには、十魔子が見た時と変わらぬ絵があった。
健作は十魔子ほど芸術に造詣が深いわけでもないので、ただ上手な絵だと思っただけで、それ以上の感動はなかった。しかも、今は緊急時である。
慎重に手を伸ばし、指先を絵に触れる。すると、指先を中心に波紋が広がっていく。
間違いない。この絵の中に異界があるのだ。
霊的な要素を加えて描かれた絵には異界が生じる場合があると、十魔子から聞いた事がある。
花子から状況を聞いて、真っ先に浮かんだのは、絵の中の異界に引き摺り込まれた可能性だった。
絵の中から十魔子の匂いを感じ取った事が、その可能性を確実なものにしていた。
「よし、じゃあ行ってくる」
「うん」
『気をつけてね』
2人の返事を背中に受けて、健作は絵の中に飛び込んだ。
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