第81話 キャンバスを抜けると
キャンバスを抜けるとそこは海原であった。
健作は波に飲み込まれた。
「うわぁ!」
一瞬焦ったが、しかし健作もマレビトの端くれ。落ち着いて状況を確認する。
と、言っても周囲はひどく荒れて暗く、得られる情報はわずかだ。だが、まとわりつく水の感覚や色は、先日ベルフェゴールと戦った際に奴が顕現させた海によく似ている。十中八九悪魔が絡んでいるのは間違いない。
微かに光が差し込むのが目に入った。その方向が水面であろう。焦らず、確実に、それでいて急ぎつつ光へ向かう。
「?」
水面まであと少しというところで、下の方から視線を感じる。冷たく、ねっとりとした危険な視線だ。
下を見てはいけない。本能が警告する。しかし、危機が迫っているのなら、それを確認しなければならない。
健作はゆっくりと視線を下に向ける。
「!?」
そこには蛇がいた。
大蛇などというレベルではない。何百メートルもあろうかという巨大な海蛇が、水底から真っ赤な目で健作を見ている。しかも、その目は徐々に健作に向かって迫ってきているのだ。
「ギャー!」
健作は水の中で叫び、手足をめちゃくちゃにバタつかせて水面へ急ぐ。
健作たち分霊人は、前世で自分を殺した生物。すなわち天敵に対して強い恐怖心を抱いている。これは、魂に刻み込まれた恐怖であり、後天的な訓練や心構えでどうにかできるものではない。唯一、分霊中を分霊具に変化させられるようになれば、この恐怖はある程度は緩和できる。
以前に似たような状況に陥った健作は、凍り付いて食われるのを待つだけだった。こうしてもがくことができるだけでも、だいぶマシなのである。
その甲斐あって、やっと水面から顔を出すことができた。だが、そのすぐ下では、海蛇が大口を開けて海面ごと健作を飲み込もうとしていた。
「うわー!」
その時、健作の両肩が掴まれて、一気に引き上げられた。
次の瞬間、海蛇が口を開けたまま海面から跳び出してくる。
バクン!
蛇の口が閉じた。健作が咄嗟に足を引っ込めなかったら、膝から下は食われていただろう。
空振りした蛇は、視線を健作に定めたまま再び水底へ潜っていく。
「大丈夫、健作くん?」
見上げると十魔子の顔があった。引き上げてくれたのは彼女だったのだ。
「十魔子さん! 無事でよかった」
「あまり安心してられる状況じゃないわ。あれを見て」
十魔子に促されて正面をみる。
黒い海原の一点に孤島のように浮かんでいる場所があり、そこには三つの人影がある。
秋山冬美。その側でキャンバスに向かって座り、こちらに背を向けている少女。そして、その背後でビーチチェアに仰向けに寝転がっているアロハシャツの男が一人。
よく見ると、彼らのいる場所は見慣れた木目の床であった。改めて周囲を観察すると、水平線の彼方に窓のようなものが見える。見上げた天井は普段目にする教室のそれだ。
つまり、ここは果てしなく広がった教室。あのキャンバスの絵を考えれば美術室なのだ。そこに大量の水を顕現させ、大海蛇を放っているといったところだろう。
「あそこにいるのは秋山さんと……。男の方は悪魔だとして、あの女の子は誰だ?」
「本物の秋山さんよ」
「本物!? じゃあ、俺たちが見た秋山さんは……」
「分身よ。ある特殊な絵の具があってね。それで描いた人間は本物のように動き出すの。まさか、霊気を放つとこまで描けるとはね。大した才能だわ」
「なんでまた、そんなものを……」
「ここでずっと絵を描いていたいんだって。対外的な事は分身にやらせてね。わざわざそれを言うために私をここに突き落としたのよ」
「ど、どういうこと?」
「さぁね。天才故の苦悩か、思春期特有の悩みか知らないけど、何にしてもあの悪魔に付け込まれたのね。無理矢理連れ出そうとしたけど、あいつが邪魔してるのよ」
「あいつは、メフィストじゃないよな。誰だ?」
その時、大海蛇が健作たちを飲み込まんと跳び上がってきた。
「うわー!」
「暴れないで!」
十魔子の少し離れた場所に、海面から水柱が立ち昇り、十魔子のある高さで止まった。十魔子は水柱のてっぺんにヒョイッと飛び乗る。
今まで十魔子は飛んでいたのではない。海面から水柱を昇らせて、それを足場として使っていたのだ。
「あれ? 神降ししてないよね?」
以前、十魔子が花子を神降しした時、霊気を水の性質に変換し、自在に操っていた。その際、十魔子の髪色が水色に染まったが、今は普段通りの艶めいた黒である。
「以前に花子さんを降ろした時に、ちょっとコツを掴んだの。それで、あの悪魔だけど、リヴァイアサンて名乗ったわ」
「リヴァイアサン!? あんなのが?」
リヴァイアサンとは、旧約聖書に登場する海中の怪物である。主に巨大な海蛇の様な姿で描かれていて、漫画やアニメ等のサブカルチャーに登場する際にも、それに準じたデザインとなっている。
海中の海蛇ならともかく、ビーチチェアの上で顔にグラビア雑誌を載せて、だらしなく寝そべっているアロハシャツのチャラ男をそのように呼ぶのは、ある意味冒涜的ですらある。
しかし、当人がその様に名乗ったのなら、その事実は無視できない。物質的な肉体を持たない妖怪にとって、『名は体を表す』とおり、名前が本質に影響する部分は大きい。偽名などを使おうものなら、自らの本質が別のものに変わってしまう危険性がある。
アロハシャツのチャラ男が、いかにリヴァイアサンに見えなくとも、本人がそう名乗った以上、悪魔にとってはそれが真実なのである。
「それにしてはリヴァイアサンぽくないというか、リヴァイアサンらしくないというか……」
「そもそも本物のリヴァイアサンを見たことないでしょうが!」
海中の海蛇が、また跳び出してきた。
十魔子は、また別の水柱を作り、そこに跳び乗って回避する。
「どちらかというと、あっちの方がリヴァイアサンだよね」
健作が海に潜っていく海蛇を指して言った。
「間違ってはいないわね。あいつが作った海蛇だもの。本来の自分の姿を模しているんでしょ。って、そんなのはどうでもいいのよ! 健作くん、お父さんの銃でリヴァイアサンをここから狙えないかしら?」
「うっ……!」
十魔子の提案を聞いて、健作は血が引く思いがした。
「どうしたの?」
「いや、それが……。博之がここまで着いて来ちゃってさ……、今も絵の外にいるんだ。それで……その……、護身用に持たせちゃった。お義父さんの銃」
「……」
「……」
……。
「なんで連れて来るのよ!?」
「ごめんて。勝手に着いて来たんだ。いつの間にかポーチに入っててさ。あいつなりに責任を取ろうと思ってるんだよ」
「だからと言って……。もう……」
十魔子は呆れた様に眉間を押さえた。
当然、健作を掴んでいる手は一つとなる。
「わ! わ! 十魔子さん、離さないで! お願い!」
健作は慌てて肩を掴んでいる十魔子の手に縋り付く。
「離しゃしないわよ」
そう言って、十魔子は眉間を押さえていた手で健作の首根っこを掴む。心なしか、先ほどよりぞんざいな扱いである。
「それで、どうすんの? 私はこの状態を維持するのに精一杯だから、大霊波は撃てないわよ」
大霊波とは、大量の霊気を集中させて一気に解き放つ十魔子の必殺技である。当然、気持ちを集中させなければいけないため、水柱を形成し、それに乗り、おまけに両手で健作を掴んでいる今の状態では、とても撃てるものではない。
「うーむ……」
健作が悩んでいると、分身の方の冬美がこちらに手を振ってから、本体の方の冬美の前にあるキャンバスに入って行った。
「あーくそ! 外に出られた!?」
「おそらくね。あのキャンバスに向かって霊気が流れて行ってるのを感じる。こっちのキャンバスからは霊気が入り込んでいるから、こうやって霊気を循環させてるんでしょ。まぁ、分身と言っても能力は本体とそう変わらないから、外の花子さん達に危険はないと思うけど……」
健作たちの背後には、二人が入ってきたキャンバスが今も浮いていて外と繋がっている。つまり、出ようと思えば出られるのだ。
健作たちも一旦外に出て、準備を整えてから再突入する。ということが出来ればいいのだが、それをしたら最後、冬美の命はないだろう。現代の悪魔が獲物をじわじわと蝕む方法をとっているのは、その方が安全で発覚しにくいからであり、いざとなれば一気に食い殺す選択肢もあるのだ。
リヴァイアサンの本体と思しきチャラ男は、呑気に寝ている様に見えて、大海蛇を使って健作たちを牽制しているのだろう。ここで健作たちが退こうものなら、たちまち詩織を食い殺し、得た霊気で迎え撃つか逃げるかだ。
「どうするの? あまり長くは悩めないわよ。あいつは海蛇を使って私の力が尽きるのを待っている」
また、海蛇が跳び出してくる。
先ほどから間隔がバラバラだ。緩急をつけて焦らせようという作戦だろうか?
十魔子の方は苦もなく水柱を作っているように見えるが。直近にいる健作は、微かに息が荒くなっているのを見逃していない。健作というお荷物が増えた事も影響しているだろう。
確かに時間はない様だ。
その時である。
キャンバスを眺めていた本物の冬美が突然立ち上がって、リヴァイアサンに向かって何か言い始めた。
海が荒れているのでよく聞こえなかったが、「話が違う」という言葉だけ辛うじて聞き取れた。
そしてまた、突然にその場に倒れ込んだ。上から何か圧力がかかった感じだ。
「何が起こったのかしら?」
「どうやら、悩んでる時間はなさそうだ」
健作はウエストポーチを開いた。
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