第78話 保護者 春川夏樹
十魔子は部長と共に美術室に戻った。
それからは、何か変わった事があるでもなく、適当におしゃべりしたり絵を描いたりして、あっと言う間に放課後になった。
その間、十魔子は気をつけて冬美を観察していたが、悪魔の気配は少しも感じられなかった。
皆がそれぞれの帰路につく中で冬美が1人、準備室に入っていく。
「春川さん、秋山さんは帰らないんですか?」
「うん、今度のコンクールに出す絵を残って書いてるんです。ちょうど3日前から」
「なるほど、3日……」
それは、夏樹の言う、冬美が急変した時と一致する。
「それで、どうでした? 冬美ちゃん、変わったでしょ? おかしいですよね?」
夏樹は縋るように聞いてくる。その顔には焦りのようなものが浮かんでいる。
「……ちょっと来てください」
美術室で話していると、準備室の冬美に聞かれるかもしれない。十魔子は夏樹を廊下へ連れ出した。
夕焼けが窓から差し込む廊下には文字通り人っ子一人おらず、ここだけ見ると、まるで学校全体が無人になったかのような錯覚に襲われる。
「春川さん、最近秋山さんと話したりしました? ちょうど彼女が変わったという時期から」
「? いえ、なんか避けられてるみたいで、あんまり……」
夏樹は首を傾げた。
「そうですか……。そうだ、ちょっと手を見せてもらえませんか?」
「え? なんですか、いきなり」
「いいから、いいから。私、手相見れるんで。行き詰まった時は占いに頼るのもいいですよ」
十魔子は半ば強引に夏樹の手を取った。
確かに手相見の心得はあるが、もちろんこれは方便である。
「ふむふむ、運命線が乱れてーのと……」
手相を読むふりをして夏樹の霊気を読み解く。
明確な根拠があるわけではないが、ふと、夏樹の方が悪魔の標的なのではないかという考えが起こったのだ。
「うーん……」
しかし、結果は白。悪魔の気配はなかった。
そもそも、この黄麻台高校を狙う悪魔なら、ここに魔術師がいる事も承知のはずである。
ならば、身体に直接隠れ潜むなどというすぐにバレる方法を取るとは思えない。
身体に異常がないからと言って取り憑かれてないと判断するのは早計かもしれない。
だとすれば、どこに隠れているのだろうか?
「あ、あの……」
夏樹の声で、十魔子は弾かれたように顔を上げた。
「え? あぁ、運命線が少し乱れてますね。近いうちに人間関係に変化が起こるかもしれません」
「それは今なのでは?」
「……」
「……」
2人が押し黙っていると、夏樹の友人達が彼女を呼びにきて、一緒に下校した。
黙って見送る十魔子の背後に、花子が現れた。
『いいの? このまま行かせちゃって』
(仕方ないわ。無理矢理調べて警戒されたら面倒だもの。それに、1番怪しいのは秋山さんの方なんだから)
花子の問いに十魔子は念話で答える。
『でも、もし、あの子の方が憑りつかれていたら?』
(確かにそういう懸念はあるけど、今の所、目に見えた異常はないし、昨日の今日で何か起こるって事はないはずよ。今の霊障ってそういうものだから)
今の時代、妖怪が起こす霊障によって死人が出るのは本当に少ない。
これは、通り魔的に人を襲って死に至らしめる妖怪が長い年月によって淘汰されたためだ。
目立つ被害を出せば魔術師が飛んでくるし、なにより、襲った相手が分霊人に覚醒して返り討ちに遭う場合もある。
そうして生き残ったのは、病のように人を蝕むタイプの妖怪である。
この手の妖怪は狡猾で、とにかく目立たず、水面下で行動し、極力死人を出さないように立ち回る。メフィストが健作を殺したケースは、現代では極めて稀なのだ。
このタイプと、社会の混乱を恐れて目立った行動ができない魔術師側の事情が嫌な具合にかみ合ってしまっており、霊障が起きた際に魔術師たちは後手に回ってしまう事が多々ある。
これに対処するために、先人たちは霊障被害者の会等の活動で魔術師の存在を社会に浸透させ、一定のネットワークを築く事に成功したが、まだまだ先は長いと言わざるを得ないのが実情である。
そういう意味では、オカルト研究部という隠れ蓑は妙手かもしれない。十魔子はそんなことを思った。
(もしや健作君、そこまで考えて……)
『いやー、健ちゃんそこまで深く考えてないと思うよ?』
(勝手に頭の中を読まないで!)
念話は便利だが、気をつけないと考えている事が漏れ出てしまうのが欠点だ。十魔子は思考を打ち切った。
(とにかく、いま優先すべきは秋山さんの方だという事。私は彼女を見張るから、花子さんは学校全体に気を付けていて。それから―)
十魔子はスマホを取り出し、その上に左手をかざす。すると、スマホから陽炎のようなスマホが浮き出て十魔子の左手に収まった。
(はい、何かあったらこれで健作くんに連絡して。一度くらいなら使えるはずだから)
『はーい』
花子は陽炎の方のスマホを受け取った。
これは、スマホに染み込んだ霊気を抽出したもので、言わばスマホの幽霊というべきものである。
異界物質に限らず、物体にも微かに霊気が宿る。人間に使われている道具は特に多くの霊気が染み込んでいる。長く使われれば使われるほど多くの霊気が染み込み、やがて霊性が宿る。これが世に言う付喪神である。
『って、なぁにこれぇ! アプリとか全然入ってないじゃん! スマホの意味あるの?』
受け取ったスマホの画面には通話やメール等の必要最低限のアプリしかなく、壁紙すら設定されていなかった。
(別にいいでしょ、必要ないんだから。ほら、行った行った)
『はーい』
花子は空間に溶けるように消えていった。
それを見届けると、十魔子は周囲に誰もいない事を確認して異界に入った。
異界から見張れば相手に認識される事はないし、もしもバレるような事があれば、それは"当たり"という事になる。
異界に入ってから美術室に侵入し、準備室の前で聞き耳を立てようとしたその時、ガラッと扉が開いて、陽炎のような冬美と目があった。
「!?」
咄嗟の事だったので隠れる間もなかったが、冬美は何かに気づいたような様子もなく、何気ない足取りで美術室を出た。
十魔子が廊下に顔を出すと、冬美が女子トイレに入って行くのが見えた。
「……」
不用心にも準備室の扉は開いたままである。
「……」
十魔子は準備室に入った。
準備室の中は薄暗く、カーテンの隙間から夕焼けが差し込んでいて、開け放たれた窓から風が吹き込むたびにカーテンが揺れ、同時に光が揺れている。
額縁、絵具、画材、そのほか名前もわからない美術の道具に囲まれて、布を被ったキャンバスが絵画スタンドに立てかけられて置かれている。その前に椅子、傍らに絵具や絵筆、冬美の作業台であることは明らかだ。
「……」
冬美が戻ってくる気配はまだない。
彼女が悪魔に憑りつかれているのか否か、憑りつかれているのなら、それは何者か? 目の前の絵を見れば、その答えがわかるかもしれない。十魔子にはそんな直感があった。
芸術家はデリケートだ。完成前の作品を見られて気分を害するかもしれないが、今は緊急時だ。
十魔子はキャンバスにかけられている布を掴み、絵を倒さないようにそっと捲った。
「!?」
それは人物画だろうか。夕焼けが差し込む美術室の中で少女がこちらを向いて椅子に座っている。
精密で緻密なタッチで描かれていて、それ故に少女は詩織自身であることがわかる。しかし、絵の中の冬美は、どうにも暗く、大人しめで、引っ込み思案な印象だ。
そう、夏樹が言っていた詩織のイメージにピタリと符合するように。
「すごい……」
十魔子は違和感を感じなかったわけではないが、それを押しのけて感嘆の言葉が口から漏れ出た。
技術的な部分も称賛に値するが、それ以上に、絵から放たれる輝きのようなものに圧倒されてしまった。
優れた芸術作品には、作り手の霊気が無意識に込められる。俗に言う魂がこもるというやつだ。魔術師にはそれが見えるのである。
そして、込められた魂は、そのまま作り手が作品に向けた情熱そのものだ。その凄まじさに十魔子は圧倒されたのである。
「……はっ!?」
どれくらい見とれていただろう?
少なくとも一分は経っていないはずだが。
周囲を見回しても誰もいない。耳を澄ませるが、詩織の足音すら聞こえない。だが、いつ戻ってくるかわからない。
魂を込めて作られた芸術作品は異界物質と同じく霊気が染み込んでいるものだ。なので、この絵からは霊気が放たれており、その感覚は詩織から感じたそれであった。なので、悪魔の介入があったかどうかはわからない。
十魔子が注意深く周囲を見回すと、絵の脇にある小さな机の上のパレットに塗られている絵の具に目が止まった。微かだが、絵とは異なる霊気を感じる。異界物質だろうか?
机や床には空になったチューブがいくつか転がっている。
そのチューブの表面には、D・Gという文字がへんてこな模様と見紛うほど崩れた字体で書かれていた。
「D・G……?」
一般人なら、絵の具のメーカーの商標だと思って気に留めないだろう。しかし、魔術師として修行を積む中で、古今東西の怪談や神話、伝説について精通している十魔子は、この状況で、この文字を見た事で脳裏に引っかかるものがあった。
かつて、1人の美青年が絵のモデルとなった。自らの美貌に酔った青年は、自分ではなく肖像の方が老いる事を望んだ。その後、年月が経っても青年の容姿は老いる事はなく、代わりに肖像の方が歳をとるようになってしまった。
その青年の名は、
「ドリアン・グレイ?」
「正解」
「!?」
背後から声がしたが、振り向く間も無く十魔子は暗闇の中へ突き落とされた。
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