第55話 薄暗い厠の中から

 時は少し遡る。


「もしもし、母さん? 俺、子供のころ旧校舎で遊んでいてケガしたことあったでしょ? そう、小学校の頃の。それが原因で旧校舎が取り壊されるってことあったりする? 賠償金とか請求されたりしなかった? ない? ホント? そう、よかった。あぁこっちの話。ところで息が荒いけどどうしたの? なんでもないって? わかった。はい、おやすみー」


 健作はスマホの通話終了ボタンを押した。


 十魔子に幼い頃のやらかしを指摘され、晩御飯で食べすぎたことも祟って腹痛に襲わたので、異界を出て外の仮設トイレに駆け込み、母に電話をかけたというわけだ。


「ふぅ……」


 とりあえず一安心だ。


 健作の家は父親が地方公務員で、とりあえず中流と言える生活レベルではあるが、それは何かしらの不測の事態が起こらなかった場合の事。


 賠償金と言えば何千万か何億というのが健作のイメージだ。自分の家がそんな金額が出せる家ではないことは健作でもわかっている。


 とにかく、幼い頃の自分の失敗が家計を圧迫してるというわけでないという事がわかり、健作の心は一気に軽くなったので、快く用を足すことができた。


 そして、トイレットペーパーを巻き取っている最中の事である。


『幸せな結婚はあると思いますか?』


 どこからともなく声が聞こえた。美しい男性の声だ。俗に言うイケメンボイスというやつだ。


「ん? そりゃあるだろ。実際、俺の両親がそうだし」


 健作はトイレットペーパーで尻を拭く。


『子供の前だから良い夫婦を演じているだけかもしれませんよ?』


「いやぁ、うちの親はそういう器用なことができるタイプじゃないし」


 健作はまたトイレットペーパーを巻き取る。


『しかし、そろそろ倦怠期でしょう? お互いに刺激がなくなってる時期なのでは?』


「あ~、最近耳がよくなったからわかるけど、結構頻繁にヤッてると思うんだよなぁ、あの二人」


 再び尻を拭く。


『……まぁ、あなたの家はいろいろ特殊なんでしょうけど、しかし、世の中を見渡せば幸福な結婚などないとわかりますよ。どの家庭も大体一度は喧嘩をしている。あなたのところも諍いがあるのでは?』


「まぁ、俺の知る限り一度だけね」


『ほら見なさい。その一度だけが後々尾を引いて、熟年離婚という事態にも―』


「確か、大河ドラマを見ながら、本能寺の変の黒幕は誰かって事で揉めてたな。俺は光秀の単独犯だと思ってるんだけどね」


『……あーいうのは最も得をした奴を疑うべきなんです。というわけで秀吉が黒幕で確定ですね。って話じゃなくて! とにかく、完璧に上手く行ってる夫婦なんて存在しないって事を言ってるんです。そのスマホで不倫・浮気で検索して御覧なさい。実例がごまんと出てきますよ』


「そりゃ、そういうワードで検索するからだろ。サンプルセレクション……なんとかバイアスってやつだぞ」


『”なんとか”は要りませんよ。しかし、確かに実例は存在している。あなたも現在、一人の女性にご執心の様ですが、その実例の一員にならないと誰がどう保障するというのですか?』


「ん? ん~……」


 健作は腕を組んで唸った。


『フフフ……幸福というものはちょっとしたことでたやすく破壊される。しかも夫婦であれば二人の事。自分には何一つ落ち度がなくでも、相手の失態の道連れにされてしまう。それを防ぐためには、常に相手を疑い、監視し、支配下に置くしかない。そんな状態を、果たして”幸福”だと言えるんでしょうかね~?』


「ん~~~……」


『ね、幸福な結婚なんて存在しないでしょ?』


「ん〜、別にいいんじゃないの?」


『は?』

「だからさ、幸福がどうとかそういう小難しい事を言いだすから話がややこしくなるわけだ。好きだから一緒にいる。それでいいじゃん。それで十分幸福でしょ?」


『いやいや、話聞いてました? その好きな

相手に裏切られるかもと言ってるんですよ?』


「俺は裏切らないし、俺が好きな人も裏切るような人じゃない。だから好きになったわけで。そもそも俺たちはまだ付き合ってないんだから幸福な結婚とか、そういう話はまだ早い。今は目の前の事を一つずつ片付けていかないとな」


 健作は立ち上がってパンツとズボンを上げる。


「あんたもな、数少ない失敗例を取り上げて、さも全体が不幸みたいな言い方するのはやめな? 友達なくすぞ」


 ベルトを締め、水を流す。


『……』


「じゃ、そういう事で」


『え、えぇ……』


 健作は仮説トイレを出て数メートル歩き、爪先で地面を叩いて異界に入る。


 そして、ウエストポーチから木刀をスーッと取り出し、背後の仮説トイレに向けた。


「てめぇ、なにもんだ!?」


 いつもの健作の能天気な顔が引き締まり、目つきも鋭く、戦う男の顔になった。


『あぁ、よかった。このまま平和に終わるのかと思ってましたよ。私は悪魔ベルフェゴール。以後、お見知り置きを』


 トイレから聞こえる声は、そう名乗った。

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