第56話 悪魔 ベルフェゴール

『あなたの事はメフィストから聞いていました。奴を退けるとは、若いのになかなか……』


 ベルフェゴールはトイレから出てこない。あれが住処なのか、それともトイレが奴の姿なのか。


「あいつの敵討ちってわけか?」


『まさか。私もそんなに暇じゃありませんよ。本当はあなたとも関わり合いになる気はなかったのですが、これもなにかの縁ですかね?』


「建設会社の人達が女性不信になってるって聞いたぞ。お前の仕業か?」


『人聞きが悪いですね。私はただ自分の意見を言っただけですよ。先ほどのあなたにしたようにね。フフフ……』


 ベルフェゴールは邪悪に笑った。


 悪魔に限らず霊的存在の声というのは、生物が発する空気の振動ではなく、霊気の振動であり、それは耳ではなく魂に直接作用する。


 幼少期から霊的存在に接して慣れている魔術師や、魂が分霊獣として固定されている分霊人にとっては唯の声であるが、そうでない一般人にとっては心に直接響く声なのである。


 洗脳とまではいかないが、強い影響力を持っているのは間違いない。


「お前ら悪魔は、そうやって人を不幸にして遊んでるんだな」


『いやいや、私も生きるためにやってる事ですよ。遊んでいるわけじゃない。ただ、自分好みの味付けはしてますがね。あなた方が豚の揚げ物にソースやレモン汁をかけるのと、まぁ似たようなものです。フフ……』


 人を踏みにじって愉しむ者特有の嗤い。つくづくメフィストの同類である事を思い知る。


『察するに、私の食事のせいであなたのお手を煩わせる結果になってしまったようですね。どうです? 一つ取り引きをしませんか?』


「取り引きだと?」


『えぇ、そうです。なに、大した事じゃない。ここで私を見逃してもらいたいのです。おっと、決して私があなたより弱いからこのような事を言ってるのではありませんよ? 私、こう見えて平和主義者なのです』


「……それで、建設会社の人たちを苦しめら続けるつもりか?」


『いえいえ、この会社からは出て行きますよ。あなたは依頼を達成し報酬を得る。そして私は生き長らえる。素晴らしい! たった一つの冴えたやり方というわけですな』


「……他所へ行って、お前はどうするつもりだ?」


『なぁに、適当な場所へ行って美味しい食事をしますよ。あなたの知らないところでね。悪魔と取り引きしたとなれば、あなたの名に傷がつくでしょう? あるかどうかはわかりませんが。うん、我ながら素晴らしい配慮だ』


「……つまり、こういう事か? お前がどこか遠い場所で、名前も知らない誰かを苦しめるのを、俺に見逃せと?」


『別に構わないでしょ?』


 さも当然のように悪魔は言った。


『え? 何か不都合がありますか? 名前も顔も知らず、言葉も通じない誰かの家庭がぶっ壊れようと、あなたにはなんの関係もないではありませんか。一文の得にもならなければ感謝もされませんよ?』


「……」


 健作は目を細めて仮説トイレを見つめ、続いてかつて通っていた校舎に目を向けた。


『それとも、どこかの誰かの笑顔のためとかいう訳の分からない事を言い出すつもりですか? だったらはっきり言って頭おかしいですよ。医者にかかる事をお勧めしますね』


 仮説トイレが笑うように揺れる。中にいるだろう悪魔も笑っているに違いない。


「……この学校に通っていた頃」


 新校舎を遠くに眺めて健作が口を開いた。


『は?』


「道徳の時間でさ、年に一回くらいイジメについての授業をするんだよ。イジメを見て見ぬ振りしてる奴もイジメに加担してると同じだって先生が言ってたし、俺もそう思った。うちの学校は平和なもんだったけど、もし、そういう事に出くわしたら、見て見ぬ振りはしない。そう思って生きてきた」


 健作は木刀を両手に持ち、青眼に構える。


「もし、お前を見逃したら、俺が笑えなくなる。どこかの誰かの笑顔のためじゃない。俺の笑顔のためにお前と戦う」


 健作の顔には決意が満ちている。


『ほほう、なるほどなるほど……、なかなかわかってるじゃないですか』


 意外にもベルフェゴールからは否定的な言葉は返ってこなかった。


『自己満足で戦いますか。いや、いいと思いますよ私は。正義だ理想だと言ったところで、結局自分がそうしたいからそうするってだけでからね。なるほど、メフィストが気にいるわけだ』


「あいつが?」


『もちろん、私も嫌いじゃないですよ。マジな顔でおためごかしを宣う連中よりはね』


「そうか、なら嫌いじゃないついでに取り引きしよう。お前がこの先、誰も苦しめたり、不幸にしないと誓うなら、ここは見逃してもいい。どうだ?」


 健作は木刀の先端を仮設トイレに向けた。


『ククク……こちらの要求は蹴飛ばして、自分の要求を突き付けますか。しかも、狼に羊を食べるなと言わんばかりの身勝手な要求。いいですね。あなたってむしろ我々寄りの人間なのかもしれませんよ』


「なんだと?」


『しかし、私も名を持つ悪魔。あなたのような新人マレビトに偉そうにされるのは、好きじゃないですね』


 仮説トイレのドアが少しだけ開き、異様に長い腕が出てきた。青白く、殆ど骨と皮の様に痩せ細って、しかし決して折れそうにない不気味な気配を漂わせている。


 五本ある指は一つ一つが細く長く、先端には手術用のメスのように鋭く尖った爪が生えている。


 その手は硬く握りしめられた後、健作に向かって中指をビシッと立てた。


 次の瞬間、健作は駆け出した。

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