第2話 always と tiny1

 突然の第三者の乱入により、静まり返って少しだけ緊張が走る工場内。

 そんな空気を切りくように、俺は言葉を紡いでいた。


「……誰だっけ?」

「――どぉわっ!」


 俺の言葉を聞いた目の前の男。そして、リーダーとフダツキ連中。更に、透達三人までもが見事に昭和的なズッコケをかます。うむ、みんなノリがいいね。まぁ、全員平成生まれなんですけど。

 目の前の男は、体を小刻みに震わせながら姿勢を戻すと――


「おいこら善哉……」

「冗談だってば……どうにもシリ――」


 と、口にしながら軽く睨んでいた。そんな男に向かい、苦笑いを浮かべて言葉を紡いでいた俺。


「ウスは俺のカラオケの十八番おはこだがなっ!」

「聞いていねぇよ!」


 なのだが余計なプライベートを投下したら怒られた。


「ならば、一曲! 誰かがぁ……だから冗談だってば。……どうにもシリアスは苦手なもんでな?」

「ったく、本当に相変わらずだな、お前はよぉ……」


 まぁ、男の言葉は理解をしているのだが……面白そうだったので「俺の十八番を聞いていない」と勘違いをした雰囲気ふんいきで。

 エアマイクを片手に、意気揚々いきようようと一曲披露をしようとしていた。

 ら、更に視線で威圧いあつされたので、苦笑いを浮かべて言葉を繋いでいた俺。

 そんな俺に心底疲れたような表情を浮かべて言葉を返す男。


「いや、お前だって相変わらずじゃないのか? ……龍司りゅうじよぉ……」


 そんな男――ある意味因縁いんねんの相手でもある龍司に声をかける俺なのであった。

 うん、俺のボケに真面目まじめにツッコミを入れるあたり、な。

 

「……お兄ちゃん?」

「……お兄様?」


 突然乱入してきた男と親しげに会話する俺を不思議に思ったのだろうか。小豆とあまねるが、怪訝けげんそうな表情で声をかけてきた。

 あぁ、そうだ……龍司のことを小豆達はともかく、透達ですら知らないんだっけ?

 まぁ、透達はさすがに龍司を知っているんだけど。俺との関係って部分だね。

 そんなことを思い出した俺は、苦笑いを浮かべて後ろを振り向いて説明を始める。


「あぁ、紹介しておくな? ……こいつは龍司と言ってな――」


 振り返らず、握りこぶしで親指を立てるサムズアップを右手で作り、龍司を指し示しながら――


「まぁ、香さんの一件における『共犯者』ってところかな?」

「――ッ!」

「……」


 自嘲じちょうぎみな笑みをこぼしながら説明する俺。

 そんな俺の言葉に小豆達と透達は顔を強張こわばらせて息を飲む。

 予想できる反応を察して振り返る俺。すると、予想通り――その表情を眺めて顔を歪ませる龍司の姿が映し出されるのだった。

 

 香さんの一件。それは俺とフダツキ連中との乱闘。

 その結果、彼女が入院を余儀よぎなくされた原因を作った共犯者。

 つまり龍司が、彼女のことを見初みそめた近隣で活動していたフダツキ連中のリーダーなのである。

 一応、簡単な経緯だけは小豆達も透達も知っている。だから俺の「共犯者」って言葉を理解して顔を強張らせたのだろう。だけど、まぁ……純粋に驚いただけなんだよね。

 俺は龍司に向かって苦笑いを浮かべながら言葉を紡ぐ。


「あぁ……被害者たっての希望でさ? 『俺達は、あの日何も騒ぎを起こさなかった』ってことになっているんだよ?」

「――ッ! ……」

「だから、まぁ……お前に対して、俺達が敵意を抱くことはないってことかな? 香さんが、頭を下げて懇願してきた以上、誰もお前を責めることはできないのさ?」

「……」

「いや、あの件だったら俺だって共犯なんだぜ? それでも彼女のおかげで……今でも、こうして普段通りの生活を送れているって訳さ……」

「そう、か……」


 俺の言葉を聞いた龍司は驚きの表情から呆然ぼうぜんとした表情に移り変わり、最後には何かを考えるような表情で相槌あいづちを打っていたのだった。



 退院直後。俺達全員に向けて、香さんは頭を下げながら「私達の間には何もなかったことにしてほしい」と懇願をしてきた。

 小豆達にも透達にも真相など詳しくは知らせてはいなかったのだが。

 俺が誰かと乱闘騒ぎを起こしたこと。

 その現場に居合いあわせた香さんが俺をかばって大怪我けがをしたことは知っていた。

 当然、警察沙汰ざたであり、香さんが重傷を負ったのだから。

 親父達や香さんの両親には連絡が入ったし、遠縁とおえんではあるが彼女の大怪我だと言うことで、あまねるの御両親の耳にも話が入っていた。

 だから、隠しようがなかったって話さ。

 そして、彼女が入院している間……俺は一日もかすことなく彼女のお見舞いをしていたのだ。もちろん、自責の念に縛られてのこと。お見舞いが目的ではなく、謝罪をする為に、だけどな。

 俺が招いた失態だから、どんなことでも償いたかった。

 それでも、彼女は俺の謝罪を聞いても首を縦には振らなかった。いや――


「これは自分の意志で行動した、私が招いた失態よ? よんちゃんには何も謝る必要なんてないもの……。そうねぇ? これは言ってみれば私の『勲章くんしょう』なんじゃないかな?」

  

 誇らしげな笑顔で必ず返ってきた言葉。その言葉と表情に、いつも心の中で涙を流していた俺。

 いや、俺が泣いてもいい権利なんてないからさ――。

 確かに男の俺なら「勲章だ」って笑い飛ばせるとは思う。だけどだけどだけど。

 俺のせいで彼女の背中には、文字通り『消えない傷跡きずあと』が今も残っている……はず。

 まぁ、今の医療いりょう技術ならば傷跡を完全に消せるみたいなのだが。

 彼女が「勲章なんだから……」と、傷跡を消すことについて、かたくなにこばんだのだと言う。

 だから『今』でも残っているのだ……とは思う。いや、見ていませんし。


 彼女が傷跡を消すのを拒んでいるって話を聞いた時。入院して数週間が経過していた頃なんだけど。

 俺は確かに、それまでだって罪悪感を抱いていたのだが、更なる罪悪感にさいなまれる。だけど、それ以上に疑問を覚えて失礼な物言いをしてしまっていた。


「い、いや、消せるんですよね? なんで、残そうとするんですか? お、女の人の体に傷跡なんて――あっ、い、いや……」

「……ふふっ♪ ……私のこと、ちゃんと女として見てくれていたんだ? ありがとう――」

「え?」


 本当、原因を作った俺が口にできる言葉なんかじゃないよな。思わず漏れた本音に、慌てて言いよどんでいた俺。

 いや、確かに俺の謝罪に対して「勲章」だって言ってはいたけどさ。それは単純に「消せない」から言っているのだと思っていた。

 だから、「消せる」って知っていても拒んでいる理由が俺には理解できなかったのだ。

 男なら理解できるけど、やっぱり女性は、さ。消せるならば消したいって思うだろうから。

 そんな俺を眺めて「クスッ」と優しく微笑みを浮かべた彼女は、うつむきながら小さく何かをつぶやいていた。

 何を言ったのかを聞き取れなかった俺は疑問の声を発したのだが。


「とにかく、よんちゃんが気にすることはないのっ! ……まぁ、そうねぇ? そう言う関係の相手ができたとしてぇ……」

「――ッ! ……」

「この傷を見て拒絶するようなら、そんな相手とは関係を解消すれば問題ないんだしぃ?」

「……ぁ……」

「まぁ? 誰も相手にしてくれないようならぁ~、よんちゃんが責任取ってよね♪」

「は――ッ! ……」


 俺の疑問の声にバッと俺を見据えた彼女は真っ赤な顔で「気にすることはない」と言い切っていた。

 だけど次の瞬間、ニヤリと笑みを溢した彼女は少し斜め上を眺めながら言葉を繋ぐ。

 彼女の「そう言う関係の相手」って言葉を聞いた瞬間、目を見開いて驚く俺。だけど恥ずかしくなって俯いてしまっていた。

 それって、つまり、彼女の背中の傷跡を見られる関係の相手。隠しておけずに見られてしまうってことだもんな……。

 色々と考えや妄想に支配されている俺の鼓膜に、あっけらかんと紡がれた彼女の言葉が響いてくる。

 俺の責任なのに、彼女の言葉を聞いて少しだけ安心を覚えた俺は視線を彼女に戻していた。

 すると俺の目を見つめながら、彼女は真っ赤な顔で俺に言葉を投げかけてくる。


 ――何を言おうとしていた、俺? まさか「はい」なんて返事しようとしていないよな? 俺に、そんなことが言えるとでも思っているのかよ……。 


 思わず了承してしまいそうになる自分を心の中で叱責しっせきして、俯きながら言葉を飲み込む俺なのであった。

 単純に香さんは俺を気遣きづかっただけ。俺の自責の念をやわらげようとしてくれただけ。ただ、それだけなんだ。


「……よんちゃんは私の傷を見ても拒絶なんて、しない……でしょ?」


 自分勝手な考えに恥ずかしくなり瞳を閉じていると、少し悲しそうな声色で香さんが言葉を紡いでいた。

 もしかしたら、俺が彼女の言葉を否定したように思われてしまったのだろうか。

 俺が「責任を取りたくない」って意思表示をしたのだと――。


「……え?」

「私は……自分の選んだ結果を否定したくない。だから私は、選んだ結果を受け入れたの。自分の意志で取った行動だもの……だから、私にとっての勲章なんだって思っている。そう、これを消すってことは……自分の行動を間違いだと思っているって――私が、よんちゃんを助けた自分の意志すらも間違いなんだって感じていることになるの」

「――ッ!」

「だけど……よんちゃんが、もし、私の傷を見て拒絶――ううん、見ていて辛いのだったら……私は消そうと思うの。だって、これは私の『わがまま』だもの……そのせい、で、よんちゃん、を、苦しめ、る、つもり、は――」


 彼女の悲しそうな声色を聞いて、おもむろに目を開けて彼女を見据えて驚きの声を発していた俺。

 そんな俺を見つめていた彼女は、真摯しんしに言葉を繋いでいた。そしてすがるような表情に変えて苦しそうに言葉を俺に投げかける。

 俺は心底自分が情けなく思っていた。

 自分勝手な行動で香さんを傷つけてしまった俺。それなのに、更に傷つけようとしているのだから――。


「そんなことはありません!」

「――ッ! ……よんちゃ、ん?」


 少しずつ俯きかけて、声の力が弱まっていた彼女の言葉を遮り、俺は彼女に言葉を言い放っていた。

 そんな俺の言葉に驚いた彼女は視線を戻して声をかけていた。


「俺は拒絶なんてしません。辛くなんてありません!」

「……本当、に? ……」


 たぶん、これは俺の本心。別に自責の念に縛られているからではない。

 きっと俺が招いた結末だとか自責の念がなかったとしても、俺の答えは同じなのだと思う。

 言葉の真意を確かめようと、彼女は縋るような表情で俺に問いかける。

 だから俺は微笑みを浮かべて彼女に本心を伝えていた。


「いや、だって……何があっても香先輩は香先輩じゃないですか? だから――」

「――ッ!」

「あっ、いや、俺のせいだって自覚はしているんです。ごめんなさ――」

「い、いいの――ッ! いたたた……」

「か、香先輩!」

「あはははは。そ、そう言うことじゃないんだから……続けて?」


 俺の言葉に驚きの表情を浮かべる彼女。

 俺は彼女の表情から、自分のことを棚に上げて偉そうに「何があっても」なんて口走った間違いに気づくと、慌てて謝罪をしようとしていた。

 俺の言葉を受けた彼女は水平に両手の平を俺の方へと突き出し、ブンブンと交差しようとして悲痛の声を漏らす。

 多少は面会できる時間が増えてきたとは言え、まだ安静を余儀なくされている状態の彼女。

 俺は慌てて彼女に声をかけていた。

 

 なお、俺の会話でわかるように……って、あの頃は本当に「先輩」だったから普通なんだけどね。

 今年の春に同級生として復学した彼女から、「同級生になったのだから呼び捨てにして?」と言われて数ヶ月。うん、実は春から続く毎朝恒例こうれいの会話だったのである。

 だから、あの日俺がやっと一歩を踏み出せた時――

 香さんと小豆と智耶は、生まれてはじめて言葉をしゃべった赤ん坊の母親のように。

 嬉々ききとした感慨かんがい深い表情で俺を見つめていたのだった。そんな大層たいそうな話でもないのでちゅが。

 だけど、さん付けとは言え、先輩を外すまでに約半年か。

 いくらそれまでの積み重ねた時間があったとは言え、あまりに時間かかり過ぎだろ、俺。

 よくもまぁ? 香さんも、こんなヘタレな弟に根気よく付き合ってくれたもんだ……いや、呆れられたり嫌われなくて本当によかったよ。話を戻そう。


 俺の悲愴な表情に乾いた笑いを返していた香さんは、そのまま俺の言葉を否定していた。

 そして痛々しい微笑みを浮かべながら言葉をうながす。


「だから、俺にとっては香先輩は香先輩ですから……香先輩であってくれれば、それでいいんです」

「……」

「え? ……か、香先ぱ――イッ?」

「……ほ、ほんとう、に……へい、き?」


 本心には違いないんだけど。何が言いたかったんだろうね、俺は。自分でも意味がわからないや。

 俺の言葉を聞いた彼女は突然振り返って俺に背中を向ける。

 もしかして怒らせたのか? 

 そんな一抹いちまつの不安を覚えて声をかける俺の視線の先。 

 まるでステージの緞帳どんちょうが開くように、ゆっくりと彼女のパジャマが上がっていく。

 そう、今俺の目の前には透き通るほどの美しい肌色の世界。彼女の背中が映し出されていたのであった。ななななんですとー!

 あまりにも突然のできごと。だけど魅力的なステージに釘付けになる俺。

 そんな俺の視界に顔だけ振り返り、真っ赤な顔で心配そうに訊ねる彼女の姿が映りこむ。

 本当だったら、彼女の心情を察して適切な言葉を送れたらよかったんだけど。


「……き、きれいだ……」

「――イッ! ~~~ッ!」


 彼女の背中に釘付けだったせいか、こんな言葉がポロッと俺の口から漏れたのだった。何を言っちゃっているんだ俺ー!

 もちろん本心だし、素直な感想なんだけどさ。今俺が返すべき言葉ではないだろうが。

 だって彼女は「傷を見ても平気なの?」って質問しているんじゃねぇか! なんで「背中がきれい」って答えを返しているんだよ。って、いや……。

 まぁ、これを言ってしまえば確実に万死ばんしに値することなので口にはしないけど――俺は「傷もきれい」だなんて感じていたのだろう。だから思わず口から漏れたんだと思う。自分で作ったようなものなのにさ。本当、最低な人間だな、俺。 

 俺の失言を聞いた彼女は瞬間的に顔の赤みを上昇させて顔を正面に戻す。ままままずい、本気で怒られる!

 

「いいいいいや、その、ああああああの――」


 危険を察知した俺は、慌てふためきながら必死に弁解をしようとしていた。

 いや、「出ていって!」なんて言われたら出禁確定じゃないですか。何も罪を償えていないのに会えない時間とか――愛を育てないで憎しみを育てちゃうんですよ! バッドエンド確定じゃないですか。 

 悲愴ひそうの面持ちを浮かべながらも出禁だけは回避したかった俺。だけど。


「……ほ、ほんとう、に……きれ、い?」

「~~~ッ!」


 俺のアンコールに応えるように、ステージに舞い戻ってきた歌姫。

 そんな彼女はさっきと同じように、真っ赤な顔の心配そうな表情で俺にコールを飛ばす。

 だけど同じ失敗を繰り返さないようにと、言葉ではなく首をブンブンと上下に振るヘッドバンギングでレスポンスしていた俺。

 きっと今の俺はヘビメタのライブでも通用するレベルのヘドバンを披露していることだろう。

 ……なるほど、このステージはヘビメタのライブだったのか。

 だから天国へヴンが見えた訳だな。まぁ、地獄ヘルも見えそうになっていましたけどね。


「クスッ♪ もう、わかったわよぉ……」

「……ふぅ……ぁ……」


 必死のヘドバンを続ける俺の鼓膜に、微笑みを奏でる彼女の言葉が響いてきた。

 その声色で「怒ってはいないのかも?」と察した俺は、ヘドバンを終了すると軽く息を吐いてから正面を向く。

 あまり慣れていないヘドバンのせいで軽い眩暈めまいを起こしていたからなのか。

 目の前の彼女が恥ずかしそうだけど誇らしげに、そして安心を含んだ嬉しそうな微笑みを浮かべているように思えていたのだった。


「それで……よんちゃんにお願いがあるんだけど?」

「――は、はい、何なりと!」


 唐突に顔を赤らめながら彼女がお願いをしてくる。償いと言うか、これ以上の失態を見せる訳にはいかない俺としては。

 直立不動で彼女の言葉を了承していた。


「そ、そんなにかしこまらなくても大丈夫よぉ……それより、テーブルの上の薬を取ってくれる?」

「あ、は、はい……」


 そんな俺の格好が可笑おかしかったのだろう。クスクスと笑いながら言葉を紡ぐ彼女。そしてベッド脇のテーブルの上にある薬を指差しながら「取ってくれる?」と、お願いしてきた。

 俺は彼女に返事をすると、ベッドを迂回うかいしてテーブルまで歩こうとしていたのだが。


「こ、こっち見ちゃダメだからね!」

「――は、はいっ! ……」


 背中越しに聞こえてくる彼女の恥ずかしそうな声に、全身が火照ほてりながらも。

 彼女に背を向けながらカニさん歩きで使命をまっとうする俺なのであった。

 いや、わざわざ忠告しなくても――パジャマをまくり上げている香さんを正面から見たい願望はあっても、向き合える度胸どきょうはないですから……。


「あ、あの、じゃあこれ……」

「……」

「か、香先輩?」


 薬を掴んだ俺は、そのままの姿勢で手だけを後ろに突き出し、彼女に薬を差し出していた。いや、振り向けないからね。

 だけど受け取る気配を感じなかったことに疑問を覚えた俺は振り返らずに声をかけていた。すると。


「……それ、ね? 化膿かのう止めの塗り薬なの」

「は、はい……」

「わ、私の傷口って背中なのよね……塗るのが大変なのよ……」

「は、はい……」

「だ、だから、背中なのよ! 自分じゃ塗れないのよ!」

「は、はい……って、え?」

「塗ってくれると、う、嬉しいんだけど……ね?」


 あぁ、俺に薬を塗ってほしかったのか。なるほどなるほ――どえぇぇぇえええええええ?

 彼女のお願いを理解した俺は脳内で軽いパニックを起こしていた。思わず振り返りそうになるくらいにな。

 さすがに振り返る訳にもいかず、俺はそのままの姿勢を保ちつつ、カニさん歩きでベッドを迂回し元の位置に戻ろうとするのだった。


「いいいいいやいやいや、さすがにそれは無理――」

「やっぱり辛いんだ……」

「そう言うことではなくてですね? って、看護師さんとか――そう、おばさんに頼めばいいじゃないですか?」

「看護師さん忙しそうだし……お母さんだって店があるんだから来るのは遅いのよ。それに時間を決められているから今、塗ってほしいの……」

「――うぐっ」 

 

 元の位置に戻った俺はあせり顔で否定をしようとしていた。

 そんな俺の否定に悲愴な面持ちで言葉を返す彼女。

 だけど俺は、そう言うつもりで否定したのではない。色々な意味で俺なんかが『ふれてもいい領域』ではないと思うから否定したのだ……。

 そんな理由で譲歩案を提示する俺に悲愴な面持ちのまま言葉を返す彼女。彼女の言葉に二の句を継げずにいた俺。

 いや、俺がいなかったらどうしていたんだ――って、その時は看護師さんに頼んでいたんだろうけどさ。

 ベッドに座り込んで振り向いているからか。

 立っている俺を振り向きながら、少し潤んだ瞳の上目遣いで見つめる彼女。か、可愛い――って、しししし静まれ、俺!

 当然ながら俺が拒んでいる理由は自分の暴走を止められる自信がないからだ。威張いばれることではないのだがな。


「そ、そうだ! 今から小豆を呼びますんで――」

「やっぱり、よんちゃんは辛いんだね? 私にふれたくないんだね? キズモノの私になんて近づきたくもないんだ……ぅぅぅぅぅぅ」


 だから俺は慌てて携帯を取り出すと小豆に連絡をしようとしていた。小豆なら同性だし、香さんにとっても妹のようなものだし、俺が呼べば来てくれると思ったから。

 だけど俺の言葉を受けた彼女は、突然表情を歪めてせきを切ったようにくし立てると大粒の涙を流していた。

 ――何をやっているんだ、霧ヶ峰善哉! ヘドバンしたら全部記憶が振り払われちまったのかよ!

 その瞬間、俺は自分の愚かさを呪った。

 彼女が笑っていたから全部解決したと勘違いしていたってことなんだ。

 そう、彼女が「塗って?」と言ってきたのは俺の言葉。「拒絶しないし辛くもない」を信じたかったからなのだろう。

 それが自分勝手に「ふれてはいけない」とか考えてしまっていた俺。

 彼女のお願いを拒むってことは、遠回しに彼女自身を拒否しているのと一緒なのだろう。

 俺は彼女に償いを求めていた。違うのかも知れないが、彼女のお願いは償いと同じなのだと思う。

 つまり彼女のお願いを前にして、俺の心情なんて必要ない。どんなことでも遂行すいこうする。そう言う気概きがいで来ているんだ。 

 だったら、俺のするべき行動なんて一つしかないじゃないか。


「……ふぅ。すみません、香先輩」

「――ッ! ~~~ッ!」


 軽く息を吐き出した俺は彼女に謝罪をする。俺の言葉を聞いた彼女はビクッと体を震わせたかと思うとブンブンと首を左右に振り出した。

 たぶん俺の謝罪が否定に聞こえたのだろう。

 俺は心の中で、もう一度彼女に謝罪をしてから言葉を繋いでいた。


「俺なんかが塗っても大丈夫なんですか?」

「――ッ! ……ぇ?」


 俺の言葉に再びビクッと体を振るわせた彼女だったが。

 ピタリと止まり、おもむろに驚きの表情を浮かべながら俺を見つめると小さく声を発していた。

 そんな彼女に優しい微笑みを浮かべながら言葉をかける俺。


「俺でよければ塗らせてください」

「ぁ……ぅ、うん……お願いします♪」


 俺の言葉を聞いた彼女は恥ずかしそうに、でも嬉しそうに呟いていたのだった。

 こうして俺は……『毎日』彼女の傷口に化膿止めの薬を塗る大役をおおせつかったのである。うん、毎日。

 もちろん恥ずかしかった、いやそれは彼女もだろうけどさ。

 目の前にニンジンぶらさげられた馬状態だったけど。心と相棒の暴走をしずめるのが大変だったけどね。そして鹿も併走へいそうしていたのかも知れない。いや、知らない。

 それでも、俺には夢のような時間だったと思う。俺が感じるのは間違いだって理解していても、さ……。

 

 ただ、そのおかげなのかな?

 毎日塗ってあげていたからなのか、彼女との距離がグッと縮まったような気はする。いや、深い意味ではなくてだな。

 罪を感じて距離を取っていた俺の気持ちが、ってことさ。

 たぶん何もなかったら、彼女が退院できたとしても俺達の距離は微妙びみょうだったのだと思う。

 まぁ、塗ってあげていても罪の意識は別に消えてはいなかったけど。

 それ以上に、俺は彼女との接し方に迷って遠ざかっていたのかも知れないってこと。

 もちろん別に俺が塗っているからじゃなくて、塗り薬のおかげなんだけど。

 少しずつ回復している傷口を見ながら、俺の心の傷も回復していたってことなのだろう。

 そんな数ヶ月を過ごしていた俺達。彼女が完全に回復して退院する頃には――

 あの乱闘以前のような二人……いや、それ以上の関係になっていたのだった。ごめんなさい、見栄張って微妙に嘘ついてました。


 それ以上の関係になったのは主に香さんだけです。

 具体的には、『今』のような接し方。つまり男としてはへこむ行動を取るようになったのが、退院後からなのである。うん、間接とか間接とか近接とか近接。

 それまでって確か……普通に姉として接してくれていた記憶があるんだけどなぁ。ここまで『おもちゃ』扱いされていなかったと思う。

 アレかな? 背中を見せた間柄だから「もう、恥ずかしいことなんてないじゃない!」って感覚なのかな。俺は恥ずかしいのですが。

 そして特に嫌悪感を抱いていない、むしろ嬉しい俺としては、そんな彼女の行動を拒めないのであった。ヘタレで変態な弟のことなど気にせずに先に進もう。


 こんな感じで俺と香さんの関係は良好だった。だけど、俺達二人に対する周囲の人達はそうではなかった。いや、嫌悪とか不穏ふおんな空気ではないんだけどね。

 単純に心配とか気遣いの空気が充満じゅうまんしていたってことさ。

 詳細は知らなくても事情を知っている周囲の人達。だから完全に回復して退院しているのに、どこか余所よそ余所しさを感じたのだろう。

 そんな理由で彼女は頭を下げて「何もなかったことにしてほしい」と、懇願していたのだと思う。


 うん、事情はともかく俺が乱闘を起こして彼女に怪我を負わせたことに変わりはない。   

 だけど、彼女は――


 すべて自分の意志で招いたこと。

 自己責任で処理をしたこと。

 だから解決をしたのだから、これ以上長引かせるつもりはない。

 そもそも、自分以外の周囲の人達には何も迷惑をかけたくない。自分のせいでを苦しめたくない。

 だから――何もなかった。


 そんな考えだったのだろう。

 まぁ、小豆達も透達も、最初から俺に対して特に負の感情なんて抱かずにいてくれたのだが。

 香さんが頭を下げて真摯に懇願してきたのだから、それ以上何も追求できなかったのだろう。全員が納得するように頷いていた。そして普段通りの生活に戻っていく。 

 ――こうして、香さんの件は本当の意味で全部解決をしていたのだった。

 


「まぁ? 単純に、共犯のお前が現れたことに驚いているだけで、別に何とも思っちゃいないから気にするなよ……」

「あ、あぁ……」


 未だに表情をゆるめずにいる龍司に苦笑いを浮かべながら言葉を紡ぐ俺。

 いや、それを知っているから『あんな説明』だったのだ。今の状況で、お前に敵意を向けさせるほど俺もKYじゃねぇよ。

 と言うより、俺がシリアスを苦手なのは知っているだろうが。わざとボケたのに自分でシリアス展開にする訳がないじゃないか……。

 俺の言葉に、やっと表情を緩めて返事をする龍司。

 とりあえず普通に会話が成立しそうな雰囲気に戻ったので、俺は気を取り直して言葉を紡ごうとしていた。

 

「それで……お前はどうして――」

「に、兄ちゃん!」

「……兄ちゃんなの?」


 だけど「お前はどうして、ここにいるんだ?」と聞こうとしていた俺の言葉を遮り、突然割り込んできた「兄ちゃん!」に反応してしまい。

 俺まで「兄ちゃんなの?」などと訊ねてしまっていた。いや、『ロミジュリごっこ』をした覚えはないが。あと、当たり前だが呼ばれたのは俺ではない。

 いや、俺は「お兄ちゃん、お兄さん、お兄様、よぉにぃ……おにいたま」だから。

 まぁ、呼んだ人物も呼ばれた人物も目の前にいるから理解しているけどな。


「ははは……それは兄ちゃんだからじゃないのか?」

「ははは、なるほどな?」


 そだねー。

 うむ。きっとこの問題は兄だけに与えられた永遠の謎なのだと思う。なんで俺は兄貴なのだろう?

 って、どうでもいいか。

 俺の問いに苦笑いを浮かべながら答える「兄ちゃん」と呼ばれた龍司に、同じような苦笑いを返しておいた俺。


「……」

「ははは……」

「……」


 そして仲間はずれにするのは気が引けるからと、後ろを振り向き染谷さんを眺める俺。彼は俺達と同じような苦笑いを浮かべていた。よし、兄としての意思疎通そつうはできたのだろう。

 俺は再び振り返って龍司と……未だにけわしい表情をしている『弟くん』を眺めるのだった。


「に、兄ちゃん、なんでコイツと仲良く話なんてしているんだよっ! って言うか――やめておけって、どう言うことだよっ!」


 俺のことを無視して龍司に食ってかかる弟くん。まぁ、いいけどさ。

 って言うか……道理で見覚えがあるのに記憶がない訳だ。なるほど、そう言うことか。

 俺は二人の顔を見比べて、スッと心のモヤモヤが取り除かれていたのだった。


「はぁあ? それは俺の台詞せりふだ、タコ! 俺が親父の後をぐのに地方で修行していた間に……お前はなんで勝手に俺の解散したチームの後輩を無理やり集めて、好き勝手に少年ギャングごっこをしているんだよ、祐希ゆうき!」

「ごっこじゃないやいっ! ちゃんとしたチームだもんっ! 無理やりじゃなくて声かけたら普通に集まっただけだい!」

「ガキみてぇな口答えしてんじゃねぇよ! 俺の名前出さなきゃ、誰もお前になんて従うはずないだろうがっ! この中二が!」

「ふっ――って、中三だい!」

「……ッ! ……」


 俺を無視して兄弟喧嘩げんか勃発ぼっぱつしている俺の眼前。

 この会話で理解できるとは思うが、弟くんとはリーダーのこと。祐希くんと言うらしい。

 そして、この兄弟……いや、本当によく似ているんだよなぁ。後ろから蹴飛けとばしたくなるほどにイケメンなところも含めて。


 ――って、静まれ、俺の足! 気持ちはわかるが『負け犬の遠吠え』になるからやめておくんだ……。よぉしよし、それでいいんだ。よく耐えてくれたな、えらいえらい。


 二人を眺めて無意識に、足が怒りに狂いながら力を入れていたことに気づいて。

 俺は慌てて足に静まるように説得をしていた。

 どうやら俺の説得が届いたらしく、足の怒りを静めることに成功した俺。

 うん、お腹と違って物分りがいいらしい。そう言う君は、善哉的にポイント高いぞ?

 ……兄弟喧嘩が終わりそうにないので、脳内サブコメで遊んでいる俺なのであった。間違いだらけだから話を戻そうかな。


 まぁ、年齢差のせいだろうか、顔は似ているけど龍司のような無骨ぶこつさが抜けているからかな。幼さと言うか、普通に『男の娘』に見えてしまうほどの……予想通り、中学生だったようだ。

 あと、中学生だからと言うよりも、兄貴の前だからなのだろうか。

 さきほどまでのような『リーダーとしての威厳』が何も感じられない口調になっている祐希くん。

 俺には弟がいないので感覚がわからないのだが、弟と言うのも「案外悪くはないな?」なんて思える光景であった。


 そして、龍司の言った「中二」が『学年』を指したのか、『病』を指したのかまでは定かではないのだが。

 その言葉に反応した祐希くんは――

 右手でフレミングの法則を作って垂直に立ち上げると、人差し指と中指をまゆ上あたりに突きつけ。左の手の平で右ひじを支えながら、漆黒の冷笑レイヴン アブソリュートテンパチャーを溢していた。

 のだが、すぐに我に返って顔を赤くしながら否定していたところを見ると、たぶん「両方なんだろう?」って感じて苦笑いを浮かべていた俺。


 なお、「レイヴンなんちゃら」ってルビは『中二』っぽく勝手に作っただけで正解ではないけどね。だって俺、高三だし。

 とにかく。

 だから、見覚えはあったんだよ。だけど正確には『龍司の面影』だったから、記憶の引き出しになかったのである。


「……なぁ、ちょっといいか?」

「あぁん? 話の途中なんだから邪魔するんじゃ――ぐえっ!」

「すまないな? それで、なんだ?」


 ――と言うより兄弟喧嘩なら家に帰ってからやってくれよな?

 そんな感情を乗せた渋い顔で二人を眺めていた俺だったが。

 二人の会話で気になることがあったので声をかけていた。

 すると、急に態度を豹変した祐希くんが俺を睨んで言い放っていたのだが。

 龍司に頭を強引に掴まれて下を向かされていた。

 そのまま苦笑いを浮かべて俺に謝罪をしてから先を促していた龍司。


「いや……そいつらって、お前のチームの後輩なんだよな?」

「おう、そうだが?」

「……俺が対立した時ってさ? 相当苦戦した覚えがあるんだけどさ?」

「それな?」


 どれだ? いや、冗談だ。

 目の前のフダツキ連中を「チームの後輩」だと言っていた龍司。

 だけど、香さんの件――つまり、乱闘において、龍司以外の連中だって相当強かったと記憶している。そうでなければ俺がボロボロになっているはずがないからな。

 なのに目の前の連中ときたら? なんだろう、劣化れっかでもしたのかな?

 そんな時空の歪みに疑問を覚えていた俺の質問に、苦笑いを浮かべて説明を始める龍司なのだった。

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