第9話 恩 と フラグ

「……」

「にゅ、にゃ、ふみゅ♪ ……」


 うん、「やっぱり俺は甘々な女の子が好きなんだな?」なんて。

 彼女を撫でながら、こんな状況なのに心が安らぎ、自然と笑みを浮かべている自分を客観的に見て実感している俺。

 たぶん「小豆が普段そうだから」って部分もあるけど、何より俺が『かまってちゃん』だからってことなんだと思う。

 そう、俺の『かまってちゃん』も実は小豆と同じ。過去のトラウマの影響なのかも知れない。

 結局俺も一人になるのがこわいんだと思う。必要とされていないって認識することをおそれているんだと思う。

 だから頭では「そんなことはない」って理解していても、透達に俺の方から必要以上にアプローチをするし。

 俺に対するアプローチには、戸惑いながらも嬉しく思えているのだろう。ちゃんと俺に向けられているって、必要とされているんだって安心できるのだから。


 ――そう、俺は安心したいんだ。必要とされているって、頼ってもらえているって。

 いつまでも可愛い甘えん坊な、俺が守ってやれる俺の妹でいてほしいんだ。

 もちろん、そんなのは自分勝手な考えだってことは理解している。我がままなのも承知している。

 そもそも、数年もして大人の女性になるか――。

 いや、俺が他の子を選んだのなら、必然的に小豆は俺以外の誰かを選ぶことになるだろう。まぁ、その場合は『本当の妹』として見守ることはできるけどな。

 そうなれば、俺も小豆の性格について諦められるだろう。小豆の成長を素直に喜べるんだと思う。

 でもさ、あいつはまだ十六なんだよ。高一なんだよ。

 割り箸が割れるだけで笑っちゃう年頃なんだよ! いや、それだと飲食店連れて行けないじゃん!

 どんな年頃なんだよ……。


 と、とにかく。

 だから自分で何もかもを抱えて、苦しくならなくていいんだよ。辛くならなくていいんだよ。

 お前はただ……俺に全力全開で甘えてくればいいんだよ!

 

『悪魔で……いいよ。話を聞いてくれるのなら、悪魔でいい』


 お前はアニオタなんだろ? アニキオタクだって言っていたじゃねぇか。

 だったら俺の愛する『罵倒笑女キキタルかのは えぇっす!』の第九話。かのはちゃんの名台詞を知らないはずがないんじゃないのか?


 かのはちゃんと敵対する矢天やてんあるじである『三神さがみ あやて』ちゃん。彼女はとあるキッカケにより、かのはちゃんの親友である『吹村ふきむら 涼風すずか』ちゃんと友達になる。

 その繋がりで、かのはちゃんやファイトちゃんとも友達となる。

 ところが、あやてちゃんは矢天の主――かのはちゃん達が敵対していた『主誤しゅごビシッ!』の主なのだった。


『主誤ビシッ!』の四人は主の無事と笑顔を願って、とある事件を巻き起こしていた。

 かのはちゃんとファイトちゃんは、その事件を阻止する為に敵対していたのである。

 そんな時、偶然あやてちゃんが『主誤ビシッ!』の主だと知ることになる、かのはちゃんとファイトちゃん。当然、友達の為、そして平和の為に阻止そししようと『主誤ビシッ!』の前に立ちはだかる。

 だけど『主誤ビシッ!』の四人もまた、主の無事と笑顔の為に事件を起こしていること。説得に応じることなく対峙たいじするのだった。

 そんな中、『主誤ビシッ!』の一人であるディータちゃんが。

 主への忠誠の邪魔をする、かのはちゃんに対して「悪魔め……」と吐き捨てる。

 その言葉を受けた彼女の返答の台詞なのである。

 つまり、自分の信念のもと引くに引けない状況の場合。

 相手がどう思おうとも自分の信念を貫き通す。それが彼女の正義なのだろう。


 俺の愛するアニメの名台詞。当然アニオタの小豆だって知っている。

 その台詞の意味を理解しているはずなんだ。

 だから、さ。

 普段のあいつなら、絶対に俺に頼ってくるはずなんだ。俺に甘えるはずなんだ。

 だって、それが小豆の信念であり。

 アニオタのあいつなら、俺が甘えてくることを迷惑だって思っていないことを知っている。

 むしろ「望んでいる」って知っているはずなんだからな――。


◇9◇


「……それじゃあ、鞄ありがとうね? あと、わざわざ届けてもらって、ごめんね?」

「いえいえ~♪ 小豆さんとお兄様のお役に立てて何よりです♪」


 ふれあいコーナーを満喫した俺は、微笑みを浮かべながら彼女から鞄を受け取ってお礼と謝罪を伝えた。 

 そんな俺の言葉を受けて、彼女は心の底から嬉しそうな笑顔で答えていた。

 たぶん俺と言うよりも、小豆の役に立てたことが嬉しいのだろう。だけど親友の役に立つ為とは言え、俺の教室を経由して、わざわざ保健室にまで足を運ばせてしまったことは申し訳なく思う。

 受け取っただけの俺には、保健室まで届けてくれた彼女の労に見合うものが何もないのだから。

 そんな理由で、いくら親友の頼みだとは言え、俺は『二人の兄』として彼女に礼がしたいと思っていたのだった。

 

「……うーん――あっ! ……」

「どうかしたのですか、お兄様?」


 今度きちんと礼をしようとは思うものの、この場をやり過ごすのは気分が悪い。

 どうしたものかと悩んでいた俺は、あることを思い出して上着のポケットに手を入れていた。

 そんな俺の言動が気になった彼女は不思議そうに訊ねてくる。


「……おっ、あったあった……えっと、これ、大したものじゃないんだけどさ? 届けてくれたお礼ってことで……」

「――え?」


 目当てのものを見つけた俺は、ポケットから袋に入った『缶バッチ』を取り出して彼女に差し出す。

 その絵柄を眺めた彼女は目を見開いて驚いていた。

 俺の好きなアニメの好きなヒロインの缶バッチ。

 俺は苦笑いを浮かべながら上着を広げ裏地を彼女に見せながら言葉を紡ぐ。


「ああ、うん……この間『もう一個』取れたんだけどさ。ほら、今って何も持っていないから……これくらいしかお礼できないんだけど……」

「――ぁ♪ ……い、いえ、お礼だなんて、そんなぁ……」


 俺の上着の裏地。その腰辺りにある同じ絵柄の缶バッチを眺めて一瞬だけ嬉々ききとした表情を浮かべたんだけど。

 すぐに申し訳なさそうに言葉を紡いでいた。

 彼女は「当然のことをしたまでですから、礼には及びません」とでも考えているのだろう。

 だけど俺的にはお礼がしたいんだ。すごくお礼がしたい気分なのだ。

 ……いや、俺って彼女に何もプレゼントしたことがないんだよね。妹だって伝えているのにさ。

 小豆や智耶にはプレゼントしているのに、同じ妹の彼女には何もしていない。

 彼女や彼女の御両親からは色々ともらっているのに、それで彼女のお兄ちゃんだと言っても説得力がないのだと思う。

 そもそも、だ。

 愛していると認めた今。もちろん、別に点数かせぎができるとは思っていないけど。

 彼女の生活に『俺があげたもの』が存在するのって、めちゃくちゃ幸せなんだよね。って、すぐに捨てられるかも知れないけどさ。そこは知らなかったことにしたいのです。

 だけど。

 要は、ただの自己満足なんだろう。彼女が『いらないもの』を押し付けているに過ぎないんだ。

 まして、お礼とか偉そうに言っておいて『缶バッチ一個』、それも俺とおそろいだなんて喜ぶはずはない。……小豆じゃないんだから。


「……あ、ご、ごめん。こんなのじゃ、お礼にならないよね?」

「い、いえ、そんなつもりでは……」

「こ、今度、別でお礼するから、忘れ――ィッ!」


 冷静に考えた結果、彼女に迷惑なだけだと判断した俺は冷や汗を浮かべながら彼女に謝罪をする。

 俺の言葉を受けた彼女は、突然表情を一変させて悲愴の面持おももちで言葉を返していた。

 彼女は優しい子だから、俺に恥をかかせたといているのかも知れない。

 そんな彼女の表情を見て、逆に俺の方が妹に恥をかかせてしまったことを悔やんでいた。

 とは言え、悔やんでいても何も変わらないと判断した俺は、話を切り上げようと手を引っ込めようとしていた。ところが。

「忘れて?」と言いながら引っ込めようとしていた俺の手が、彼女の両手に包まれて動きを止める。

 

「ぅ、ぅぅ、ぅぅぅ……」

「あ、あまねる?」


 突然の彼女の行動に驚いた俺は彼女を見つめていた。彼女は恥ずかしそうに固く瞳を閉じ、顔を赤らめながら俺の手をギュッと握っている。

 うん、さすがに俺は力を入れていないから缶バッチが凹む心配はないんだけど、ふち……と言うより包装しているビニールが当たって痛いかな。まぁ、マッサージされている時のような「痛気持ちいい」程度なんだけどさ。


 目の前の彼女は、必死に俺の手を握っていた。

 それはまるで、小さな子供がお母さんから何か取り上げられそうになっているような。

 そんな「取られたくないオーラ」をまとっているようにも見える。うん、俺の缶バッチなのですが。

 きっと俺に恥をかかせた上、更に恥を上塗うわぬりさせてしまうと感じたのだろう。

 まぁ、お兄ちゃんとしては恥をたっぷりと上塗りしてもらう方が本性が隠れて嬉しいのですが。ソースは小豆の言動を受けている俺。って、だめじゃん。

 ほ、ほら、よく言うではないか……「妹の恥はかきすて」と! ……言いませんよね、知っています。


「え、えーっと……うん、俺としては、もらってくれると嬉しいんだけどね?」


 とりあえず、「同じ缶バッチを彼女とお揃いで持ちたい」なんて本性が露見ろけんされる前に、俺は微笑んで彼女に言葉を紡いでいた。

 すると、彼女は目を開けて頬を染め、ジッと潤んだ瞳で――


「はい、つつしんでたまわらせていただきます……」


 こう言葉を繋いでから、両手で俺の手を包みながら深々と頭を下げていたのだった。



「よ、よしきに……」

「はい? ……えっとぉ、お兄様に……なんでしょう?」


 彼女の言葉に脳内が麻痺していた俺は、咄嗟とっさにそれっぽい言葉を口から吐き出してみた。

 だけど俺の言葉に、視線を俺に移した彼女は不思議そうに言葉を返していた。


「……あ、い、いや……よしなに……」

「……ああ、はいぃ……」

「――ぷっ! ……くくくくっ……」


 俺は自分の言葉を思い返して、顔の火照りを感じながら言い直す。

 それで理解してくれたのだろう。キョトンとした顔で言葉を返す彼女。

 刹那、明日実さんが吹き出したと思ったら、そのまま笑いをこらえていた。

 まぁ、今のは俺のミスなんで責められないんですけどね? さすがに目の前で笑いを堪えられるのは少しだけ凹むのです……。

 だけど慣れない言葉は使わないに限るな?

「よろしく。いいぐあいになるように」と言う意味合いの「よしなに」を……自分の名前の「よしきに」なんて間違えるんだからさ。どれだけ自分が好きなんだよ……。

 未だに笑いを堪えている明日実さんを横目に、更に恥ずかしさが増す今の状況を打破する為に、思考を缶バッチへと戻す俺なのであった。


 す、すごいなー。この缶バッチ……と言うかアニメ。お嬢様に謹んで賜らせちゃっているよ。しかも最敬礼していたし。

 まぁ、あげようとしていた缶バッチって、俺の好きなアニメのヒロインの女の子が描かれている缶バッチなのだ。 

 そんな彼女を、あまねるも大好きになってくれていた。

 それを知っていたから譲ろうと考えたんだけどね。


 本来お嬢様である彼女ならば欲しいものは何でも……いや、それこそアニメの版権はんけんですら買い取れるのかも知れない。

 実際に時雨院財閥は現在、数多くのアニメに多額の出資をしているのだ。

 とは言っても、スポンサーではない。ただの有志からの融資……いや、寄付である。

 だから作品中にCMとかも流れないし、提供クレジットにも名前がないから誰にも知られていないんだけどね。

 御両親は「まぁ、アニメは商売じゃなくて道楽どうらくだから……」と、苦笑いを浮かべながら答えていたっけ。いやいや、道楽にも程があるでしょ!


 だけど、そんな『お金持ち』ではあるが、特に娘に散財さんざい許容きょようしている訳でもない。

 元々の御両親の教えもあったのだろうけど、彼女自身の考えからか。

 アニメは「自分の身のたけに合う範囲で!」を心がけている彼女。

 だから、小遣いと……アルバイトで稼いだお金をりして購入しているのである。お嬢様なのにアルバイトって……。 

 そんな理由で彼女は暇な時間にアニメ関連の購入資金を確保する為、西瓜堂や西田青果せいか店――商店街の西田夫妻の店だね。

 どちらかでアルバイトをしているのだ。

 まぁ、西瓜堂は香さんの実家だから理解できるだろうけど、なぜ西田青果店でもアルバイトをしているかと言えば。

 実は彼女の母親――風音奥様の旧姓は『西田風音』……現在の西田青果店の店主である、西田のおじさん――『光鈴こうりん』おじさんの姉。

 そう、実は奥様は魔女……ではなくて、バリバリの庶民なのだ! って、失礼ですね、申し訳ありません、奥様。

 つまり、奥様の実家と言う訳なのである。

 更に言ってしまえば、西田のおばさんの旧姓は『新川優香ゆか』……そう、美香みかおばさんの妹。つまり、香さんの叔母になるのだ。せ、世間って狭いな……まぁ、うちも言えないけどさ。

 だから香さんとあまねるって実は遠縁にあたる……のかは詳しくないので知らん。たぶん、なるよね。

 でも遠いことには変わりないのだと思う。

 そんな感じなので俺は二人は赤の他人だと思っていた。うん、話題に出たことなかったし。


 だから、その事実を聞かされた時は驚いて開いた口が塞がらなかった。

 そうしたら口の中に「あ~ん♪」と言う言葉とともに、四種類のお菓子が放り込まれたのであった。うん、智耶も含めた四人から……。


 俺はずっと小豆絡みで香さんは「雨音ちゃん」と呼んでいるのだと思ったんだけど。

 俺達と出会う前から「雨音ちゃん」「香姉さま」と呼び合う仲だったらしい。

 そんな事実に衝撃を覚えていた俺だったけど。

 口の中に広がる四種類のお菓子が織り成すハーモニーが素晴らしいことの方が衝撃的で、一心不乱にモグモグしていたのであった。新たなる発見って嬉しいよね。話を進めよう。

  

 そして、あまねるが西瓜堂で働く時には、香さんも店の手伝いをする。そして小豆も手伝うのであった。

 ……まぁ、小豆の場合は俺がおじさんの手伝いをするからなんだけどさ。「来なくても大丈夫だ」って言っても腕にくっついてくるんだよね。なんとなく、小豆を運ぶ為に俺が西瓜堂へ行っている気がしなくもないんだが……。 

 でも俺は西瓜堂で働く為に行っているんだ! 

 純粋に仕事の為に頑張っているんだ!

 あくまでも西瓜堂の売り上げの為に汗水たらしているんだ!


 ――決して、「二人と同じ時間を過ごせる為なら、どんな苦労も買ってでもする!」って下心全開の本音の為じゃないんだー! 


 ……あっ、勢いに任せて「下心全開の本音」って暴露しているじゃん。まぁ、事実だけどね。あと、苦労を買わずに逆に給料もらっているんだけど。それに小豆が一緒に来ることは素直に嬉しい。

 うん、まぁ、同じ時間とは言え三人は売り子さん。俺は厨房でおじさんの助手なんだけどさ。

 それに助手と言っても、洗い物とか味見とか……盛り付けとか試食とか……包装とか余りもの処理班とか……掃除とか試作品のモニターだとか。って、食べてばっかりだな、俺。よく給料もらえるよなぁ。

 だけど「ほら、お食べ?」と言われているから食べているのであって、つまみ食いをしているのではない。

 うむ、つまみ食いする余裕がないとも言う。普通にお腹いっぱいになるからさ。そして三人とのやり取りで胸もいっぱいになるのであった。

 余談だけど彼女が西田青果店でアルバイトする時も、俺は手伝いをすることにしている。八百屋さんだから男手は大事だからね。


 普通だったら給料二人分払う必要があるから渋るかも知れないのに、「本当かい? そりゃ助かるわ」と笑顔で迎え入れてくれる二つの店のおじさん達。

 まぁ、俺としては彼女と一緒に働くことに意味があるので、正規の給料をもらっていないからなんだけど……あくまでも俺は、ね。手間賃みたいな額しかもらっていないのである。

 いや、強引に働きたいって言っているようなものだしさ。お給料払えないから無理とか言われたら困るでしょ?

 もちろん向こうは「ちゃんと払うよ?」と言ってくれたんだけど。

 俺はただ、彼女と働ける環境さえあれば満足なんだしさ。特にお金がほしいとは思っていない。

 ボランティアとか学校の活動とか……まぁ、俺的には社会勉強の一環かな。きっと、そんな感覚なのだろう。だから、きちんと断ったのである。

 そもそも。

 俺としては彼女と言う目的もあるのだけど、こんな俺でも必要としてくれることが何よりも嬉しかった。その心意気こころいきむくいたかったのだろう。うん、かまってちゃんですからね。


 それでも中々に引き下がらないおじさん達。 

 西瓜堂にしろ、西田青果店にしろ。何代にも続く老舗しにせである。

 そんなご先祖様達の教えなのだろう。


あきないとは信用。商売とは情を買い、真心を売るもの。恩の売り買いなど言語道断ごんごどうだん!』


 とは、創業者である二店のご先祖様が書かれたと思われる掛け軸のお言葉である。うん、店奥の神棚の横に飾られている掛け軸。だから、お客さんなら誰でも知っているお言葉。

 たぶん同じ頃に創業したんだろうね。同じこころざしを持っていたのだろう。この信念を胸に、互いに切磋琢磨せっさたくましていたのだと思う。

 ……うん、まさか数代のちに『親戚』になるなんて思わなかったんだろうけどね。

 とにかく、そんな創業者であるご先祖様の信念を受け継いでいる二人のおじさん。

 確かに俺の場合は商売ではないけれど、信用の問題なのだろう。

 給料を払わないで働かせるのは、俺が恩を売ることになると感じているのだろう。俺から言ったのだから気にしなくていいんだろうけどさ。信念のもと、許容できない部分だったのだと思う。


 このお言葉の意味を理解できた頃――俺が家に戻った頃の話なんだけどさ。

「恩を売るのは悪いとは思うけど、買うのは問題ないんじゃ?」と言う疑問が浮かんで、西瓜堂で香さんの父親――ようおじさんに聞いたことがあった。

 おじさんは掛け軸に一礼をすると、俺に向かって優しく微笑みながら――


「恩って言うのはな? 売っても買ってもダメなんだ。恩は無償で差し出すもんさ? そして与えられた恩は、ありがたく頂戴ちょうだいして……すぐにお返しするものなんだぞ? そうすることで売り買いのような、一方的な繋がりから……信用を得る連鎖の繋がりへと変わるもんさ。そうすれば……お客様から信用を得て、再び情を売りに来ていただけるってことなのさ」 


 こんな風に教えてくれたのだった。

 その頃は自分の馬鹿さ加減を悔いていた頃だった。色々の人に恩を与えてもらっていた時期。って、今も当然与えてもらっていますけど。

 すでに与えてもらってから、随分ずいぶんと時間が経過していたのだった。

 心の中で不安を覚えた俺は、おじさんに恐る恐る訊ねてみた。


「……すぐに返せなかった恩は、もう、信用を得ることってできないのかな?」


 そんな俺の言葉を受けたおじさんは、突然「何を言っているんだ?」と言いたそうな表情で言葉を紡ぐ。


「いやいや、よし坊……恩には、賞味期限も消費期限も存在しねぇんだぞ?」

「知っているよ!」

「だったら問題ねぇだろ?」

「え?」


 おじさんの言葉に驚いて声を発した俺に向かい――


「よし坊の心に返したいって気持ちがあるなら、今からでも返せばいいんじゃないか? 時間が経過してんなら、その分利息を追加して、時間をかけて返していけばいいんだよ」

「おじさん……」


 こんな風に優しくさとしてくれた。

 そんな言葉に心が軽くなって声をかけた俺だったけど。


「だがな、和菓子ってのは賞味期限が存在しやがるんだ。と言う訳で、ほれ? この和菓子をさっさと食っちまえ!」


 などと言いながら俺に和菓子を差し出してきたのであった。まぁ、照れ隠しなんだろうけど。

 あとは和菓子屋さんだから、「とりあえず和菓子食っておけば幸せになれる」とでも思っているのだろう。うん、正解だね、和菓子は正義なのである。

 そんな風に幸せになりながら、和菓子を頬張る俺なのであった。


 と言うことから、おじさん達としては……働いてもらった恩には、きちんと給料で返したいのだろう。

 だけど、俺としては……西瓜堂と西田青果店に限らず、商店街のおじさんおばさん達には日頃からの恩がある。そして香さんやあまねると一緒の時間を与えてもらっている恩がある。よって、お返しのつもりで断っているのである。

 とは言え、無下むげに断り続けるのは恩をあだで返しているような気がしなくもない。

 そう考えた俺は折衷せっちゅう案として。


『日給 千円。プラス 現物支給』


 と言う条件を提案したのだった。

 これなら俺は給料をもらうけど、店としても負担は少ないだろう。率先そっせんして働いても大丈夫なはずだ。

 そして、おじさんは給料を払うから恩が返せる。

 俺の方も、給料の千円は使わずに『西瓜堂貯金』に貯金している。そして、そのお金で和菓子や果物を買うことで恩を返しているのだ。

 更に、現物支給をしてもらえば和菓子や野菜や果物がもらえるってこと。

 もちろん給料に見合う分とかではなくて、気持ち程度にしてもらっているけどさ。

 家に持って帰れば家計が助かるからなのか、お兄ちゃんの功績こうせきねぎらってくれているのか。小豆がすごく喜んでくれるのだ。

 そんな妹の嬉しそうな顔が眺めていると、労働の疲れが癒されるのである。

 まぁ、持って帰らなくても嬉しそうな顔は日常なので癒されますけどね。きっと、当社比二割増しなのでしょう。いや、知らんけど。

 そして嬉しくなった小豆は次の日に料理を頑張って、香さん家や西田夫妻に料理をおすそ分けするのです。商店街でも大好評の小豆の料理。全員がとても喜んでくれている。

 だからなのだろうか。次に俺が働きに行っても歓迎かんげいしてもらえるのであった。

 ……なるほど、これが信用の連鎖と言うものなのか。と言うより『ウィンウィン』なのかも。どっちも同じかな。

 まぁ、俺の話はどうでもいいから話を戻そう。


 とにかく、そんな感じであまねるはアルバイトと小遣いだけで、アニメの欲しいものを買っている。

 つまり、欲しいからと言って簡単に手に入らないものが多いのだ。うん、俺も手に入らないものの方が多いんだよね。

「買い食いやめれば買える!」って、みんなに言われるんだけどさ……無理に決まってんじゃん。だから買えない。


 まして、俺があげたのは『ガチャガチャで取った缶バッチ』である。

 ガチャガチャと言うのは何種類もある中から無差別に出てくるのだ。当たり前だけど。

 つまり、お目当てが簡単に手に入る代物ではないのである。たまたまダブっただけだしね。

 ただでさえ思うように買えない彼女。それが運で手に入る代物となれば……。

 彼女が欲しいと思うことは自然なのだ。うん、俺もダブった缶バッチをくれた後輩くん達には大変感謝しているしな。

 まぁ、大したことはできなかったけどさ。

 とりあえず小豆と握手をさせて、2ショット写メを撮らせてあげたら満足そうにしていたから恩は返せたと思う。話を進めよう。


 そして、お兄ちゃんの持っているものを何でも欲しがる小豆さんでも、ガチャガチャについては言及げんきゅうしてこない。いや、言及されても無理だしさ。……多少なら頑張ってみるけど。

 当然、「ダブったら私にちょうだいね?」と上目遣いでお願いされてはいるのだが。

 ……まぁ、今回は渡すのをすっかり忘れていたのである。許せ、妹よ!

 それに彼女だって妹なんだから、小豆も許してくれるだろう。


 そんな風に考えながら、彼女を眺めていたのだった。



「……えっと、さ?」

「……はい」

「……このままだと受け取ってもらえないんだけどね?」

「――え? あ……ももも申し訳ありません……ぅぅぅ……」


 と言うかだな。笑いを堪える明日実さんを無視して、彼女にずっと手を包まれたままの俺。

 そろそろ解放していただかないと、現実逃避が困難になって暴走しかねないのだ。

 そんな訳で、苦笑いを浮かべながら解放を要求する俺。

 一瞬戸惑いの表情を浮かべる彼女だったが、すぐに言葉の意味を理解して慌てながら手を離す。

 そして真っ赤な顔で謝罪をすると、俯いてうめき声を発するのだった。


「そ、それじゃあ……これ」


 改めて彼女に缶バッチを差し出す俺。

 そんな俺に向かって――


「では、改めまして……謹んで賜らせていただきます……」


 再び言葉にすると、最敬礼をしながら両手を受け皿のように重ねて俺の手の下に持ってきていた。

 単なるガチャガチャで取った缶バッチなのに、まるで高価な品を偉い人から受け取るような振る舞いをする彼女。

 やはりアニメの力は偉大なのだと実感する俺なのであった。


 彼女が深々と頭を下げたことで、腰まである彼女の長い黒髪が彼女の背中に乗る。

 だけど次の瞬間、重力にあらがえず左右にれて彼女の肩を包み込んでいた。

 刹那、「ふわり」と彼女の髪からかおる、シャンプーの香りが鼻腔に注ぎ込まれ。

 眼前には髪が左右に流れたことにより、視界の開けた彼女の華奢きゃしゃな背中が広がるのであった。


「……」

「……むぅ~」

「――ッ! ……あはは、ごめんね? はい……」


 長い髪に隠れているってこともあるけど、普段滅多に見ることのない彼女の背中に、思わず見惚みほれていた俺。

 別にフェチではないんだけどな。それでも愛している女の子の無防備な背中には、特別な感情が芽生えているのだろう。

 はい、ぶっちゃけ『年齢制限コーナー』的な感情が……。

 そんなセルフマッサージをしているような全身の火照りを感じながら彼女の背中を凝視していた俺。

 そんな俺の視線に彼女の視線が重なる。

 うん、いつまでたっても手の平に伝わるはずの缶バッチの重みが感じられないことに不満を覚えていたのだろう。

 特に他意はなかったんだけど、ずっと『おあずけ』をしているような状況。体勢的にもつらいだろう。

 少し頬を膨らませながらジト目で俺を見上げる彼女に、苦笑いを浮かべて謝罪をしてから彼女の手の平の上に缶バッチを乗せてあげる。


「……ふぅ。ありがとうございます、お兄様……大切にいたしますね♪」


 手の平の感触を覚えて体を起こした彼女は、軽く息を吐き出して表情をゆるめた。

 彼女は俺を見つめてお礼を言うと、一瞬だけ視線を両手で大事そうに包み込んでいる缶バッチへと移してから、俺を見つめ直していた。

 そして、缶バッチを包んだ両手を自分の右頬へと近づけると同時に――

 少しだけ首を傾け、頬ずりをするような仕草で心からの微笑みを浮かべながら言葉を繋いでいたのだった。


「……」

「お兄様?」

「――ッ! ……あっ、う、うん……喜んでもらえて嬉しいよ」


 彼女の仕草に胸が早鐘はやがねを打っていた俺。全身に熱を帯びていた。

 そんな感じだったからなのだろう。思わず勘違いを起こしていた。そう――

「彼女は俺のプレゼントした缶バッチを心から喜んでくれている」などと、な。


 いや、実際に俺のプレゼントした缶バッチを心から喜んでくれているとは思う。目の前の彼女が演技や社交辞令だとは思えない。いやいや、思いたくない。と言うより、そうではなくて……。

 俺のプレゼントだから彼女が喜んでいる。うん、喜んでいる対象が俺なのだと、自惚うぬぼれに近い勘違いを起こしそうになっていたのだ。

 そう、彼女が喜んだのは、あくまでも俺じゃなくて大好きなアニメの缶バッチだったからに過ぎない。

 だから別に俺からじゃなくても、彼女は同じように喜んだのだと思う。たまたま俺がプレゼントしたから俺に向けられた微笑みだったのにさ。

 勘違いを起こしそうになっていた俺は何を思ったのか――ゆっくりと両手を広げながら彼女に近づこうと、足を踏み出そうとしていたのである。

 まぁ、いわゆるひとつの「ハグしよ?」と言うことです。いえ、声はかけていませんけど。あと感動は生まれません。 


 今日……いや、昼休みから暴走しっぱなしの、俺に降りかかる突発イベントの数々。

 免疫のない俺の許容範囲をオーバーしているせいなのだろうか。すでに暴走がニュートラルになりつつある状態。って、ダメだろ!


 ある意味暴走しかけていた俺だったけど、目の前の彼女がキョトンとしながら声をかけてきたことで。

 一瞬で我に返り、強引に足を元の位置に戻して腕を引っ込めていた俺。

 そして苦笑いを浮かべながら言葉を送っていたのだった。


「……ん? ……ぁ――ぇぃっ」

「うわっ! ……」

「……」

 

 ところが彼女は俺を見つめて不思議そうな表情を浮かべていたけど。

 すぐに小さな驚きの声を発すると、いたずらっ子のような笑みを浮かべて俺の胸に飛び込んできた。

 そして、そのまま俺の背中に彼女の両腕が絡まるのであった。

 驚いた俺はなんとか踏みとどまって彼女を受け止めてから、冷や汗をたらしながら視線を明日実さんへと移す。

 いや、「保健室でナニやってんの!」ってお叱りを受けちゃいますからね。

 だけど明日実さんは「ほどほどにね?」と口だけを動かしながら、ニヤニヤ顔で自分の両腕を前で組むポーズを取っていた。

 そう、「さっさと、抱きしめてあげなさいよ?」とジェスチャーをしているのだ。って、あんですとー!


「……」

「……ん! ……ん!」


 うん。俺が、わざと、通じていないフリをしていたのにさ?

 あごを「クイッ」と前に突き出しながら「早くしてよね?」と言いたげなジト目で、スマホをかまえて催促さいそくする彼女。……撮る気まんまんですね。

 まぁ、親父達や彼女の前でも。と言うより小豆の前でも、あまねるに抱きつかれることはあるし、別に撮られて困ることはないんだけど。

 うん、普通に小豆に抱きつかれても拒否する権利がなくなるくらいだから、特に困ることはない。

 むしろ、アズコンを認めた今となっては、『棚ぼた』を望んでいるくらいには困ってはいないのである。小豆だけに、ね。

 ただ、恥ずかしいんだよ……そんだけさ。

 

「……あはは……」

「――ッ♪ ……ふふふぅ~♪ ……ふぁ~い♪」 


 そんな明日実さんのジト目に乾いた笑いを奏でると、俺は優しくあまねるの背中に手を回していた。

 元々自分が望んでいたことだし、現実を受け止めるのも大事なのだと思うのです。

 まぁ、彼女の意図は理解できていないけど、少なくとも俺が手を回しても怒られないだろう。……怒らないよね? 

 いや、回すと言っても腰の辺りの安全地帯にしか回しませんけど。……そこを安全地帯だと思っている俺も、どうかしているんだけどね。

 腰より下は当然だけど、上だって、ねぇ? 

 一部分に横へ広がっている布地による「とある引っかかり」が存在するのだ。

 さすがに危険地帯に一歩でも踏み入れれば、彼女だって「なんてことするんですか、この変態! ……と言うより、痴漢!」と怒りを覚えるだろう。

 だからこそ俺は慎重しんちょうに、彼女の腰へと両手を回すのだった。

   

 俺の手が彼女の背中にふれた瞬間、彼女の体がビクッと震えた。その震えに俺もビクッと体を震わす。

 でも次の瞬間――震えの振動で物体が動くように、二人の距離が縮まる。

 直前までの彼女の手の平の感触だけが伝わる背中から。

 腰を絡める腕の感触さえも意識できるようになっている。当然、それに連動するかのように、彼女の熱が俺の上着を通して肌に伝わる。

 俺の胸元に熱い吐息を吹きつけながら、彼女は笑みをこぼしていた。

 そんな彼女の表情を見下ろして、怒ってはいないことに安心していた俺。

 そのままの姿勢で、彼女はゆっくりと視線だけを俺へと合わせると。

 俺の胸元に熱い吐息を吹きつけたまま、ウットリとした表情で一鳴きするのだった。 

 


 無事に彼女へとお礼を渡せた俺。

 少しして彼女に解放を求めた俺の言葉に名残惜なごりおしそうな表情で納得する彼女。

 まぁ、名残惜しそうに見えたのは彼女を愛している俺の勝手な思考だけどね。

 だけど状況が状況だけに彼女も理解しているのだろう。

 そもそも小豆が早退しているのだから、甘えてもいられないのだと――。


 体を離した俺達は、ニヤニヤ顔の明日実さんに赤い顔で頭を下げる。そして二人揃って保健室をあとにして、自分達の教室を目指していた。

 途中、階段のところで「職員室に寄るから」と伝え、そこで彼女を見送る。うん、担任に早退を伝えないといけないからさ。いるのかは知らないんだけど。

 職員室にやって来た俺は、担任を見つけて早退するむねを伝えようとしていた。

 ところが「おい、なんでまだ残っているんだ?」的な顔をされてしまう。ついでに居合いあわせた六時限目の教科担当の先生からも同じような顔をされてしまう俺。

 きっと小豆の担任から話が通っていたのだろう。

 それにしたって、その態度はに落ちない……が、内申書を落とされたくないので苦笑いで謝罪しておいた。まぁ、慣れたしねぇ。


 そんな感じで、「ムダ口叩く余裕があるなら、さっさと帰りなさい!」とのお言葉をいただき、早退を許可されたのである。どう見ても、追い出し感をいなめないのだが……。

 とにかく職員室を出て教室へと戻り、内田さんに事情を説明して早退する俺。

 説明をした瞬間に教室中がざわめいたんだけど、「たぶん大したことないから」と言葉にしたら安心したように静かになっていた。

「本当に小豆を心配してくれているんだな?」なんて思えて。

 少し泣きそうになるのを我慢して苦笑いを浮かべると、俺は落ち着いた足取あしどりで教室をあとにするのだった。 


 本来ならば。

 もっと早く……あまねるに小豆が早退したことを知らされた時点で早退するのだと思う。それが自然なのだとも理解している。

 実際に普段の俺なら、もう商店街あたりを全速力で走っているのかも知れない。

 だけど俺はまだ、昇降口しょうこうぐちで靴をき替えていた。そして、ゆっくりと歩き出しているのだ。


 別に小豆にされた仕打ちに腹を立てている訳ではない。ただ。

 俺の胸の奥で、昼休みからずっとチクリチクリと突き刺す痛み。その痛みに足を踏み出すのが恐かったのだろう。

 もちろん俺の思い過ごしかも知れない。いや、杞憂きゆうであってほしいとは思っている。

 何事なにごともなく無事に――と言うのは小豆に失礼かな。

 家に帰ったら、本当に小豆が具合を悪そうにしていて、「ぐわっ、なんで俺はのんびりと余裕ぶっこいて帰宅してんだー!」などと自己嫌悪に陥りながらも、一生懸命小豆の看病を……。

 しようとして、「あんたとお父さん、邪魔!」なんてお袋や智耶に怒鳴られながら親父と二人でオロオロしているのかも知れない。……使えない男性陣だな。別に使えるなんて思っちゃいないけどな。


 だけど俺は不安をぬぐえないでいた。

 香さんに知らされた手紙。そして、俺とあまねるを避けている事実と、小豆の早退。

 元々、透達に話を聞いていた俺には、結びつきを否定する余裕がなかったのだろう。

 そんな不安と、言い知れぬ感情を抱いている俺。

 当然迅速じんそくに行動をしないと手遅れになる可能性があることだって理解している。早く真実を知れば対応が早くなるのも理解している。それでも。


 ――俺は既に無意識に最悪のケースを覚悟していたのだろう。


 だから、あまねるとの時間を大切にした。そして急がずに、ゆっくりと歩いていたのである。

 って、別に「俺、これが終わったら結婚するんだ……」的な死亡フラグではないのだが。ないのだが。

 あと、死亡しないけど、これが終わっても結婚はしないので、お間違いなく、小豆さん?

 いや、そもそも、あまねるに伝えていないのでフラグを立てた覚えもございません。


「がをがをー! ……よし、帰るか」


 なんとなく校門を出た瞬間。

 頭に過ぎった『フラグ』と言う単語に反応してえてみた俺。


『がをがをー!』とは。

 アニメにもなったラノベ原作の作品である『彼女がフラグをおられたら、ほほえみ返しで立てられた』と言う作品。自分のを折られているのに微笑んで相手に立てるとか……なにそれ、洗脳?


 主人公は他人のフラグ――ゲームとかの好感度かな。そう言うものが見えるらしい。

 そして見えるだけでなく自由に操作できるらしい。

 そんな彼を中心に巻き起こる『超ダダ甘やかされ学園ラブコメ』作品。

 その作品のCMやラジオとかで声優さんが使っていた言葉を吠えてみたのである。

 吠えることで心のモヤモヤを吹き飛ばし、少しだけ気分が晴れた俺は家を目指して歩き出すのであった。



 最悪のケース。

 以前に起きた『小豆の件』であまねるに会いに行った時のような、そんな感情が俺の心を支配しようとしていた。

 だけど。

 どうやら俺は、あの頃よりも軟弱になっているようだ。

 あの時は……ひたすらに小豆の為なら自分のことなんてかえりみない。妹が幸せになるなら、俺から離れたって笑っていられると思っていた。

 小豆の幸せが俺の幸せだと感じていたのだろう。

 でも今は違う。 

 それが小豆の為になるって理解していても。


 俺は小豆と離れたくなんかない。あいつの笑顔をずっと見ていたい。いつまでもそばで見守ってやりたい。

 ……小豆を幸せにして、そして小豆に俺を幸せにしてほしいと感じているんだ。


 もちろん恋愛としてなのか、家族としてかは決められずにいる。

 だけど、どちらにしても幸せにはなれるんだ。互いが互いを求め、与えることには変わらない。

 だから俺は小豆と離れてもいいなんて思えないんだ。


 きっと、そんな風に思えるようになったのは――

 家に戻り、あいつと同じ時間を刻んできたからだと思う。

 あの頃は見ていなかった『小豆の心からの笑顔』を。それ以外の色々な表情を。想いや感情を。

 俺は心の底に積み重ねていったからなんだと思っている。

 それに、小豆だけじゃない。

 俺は家に戻ってから、大勢の人達と色々な想いや感情を積み重ねてきた。多くのことを経験し、学んできた。

 そして、素晴らしいアニメに出会い……自分を成長してきたのだと思う。自分では何も変わらないと思っているけどさ。少しは成長できていると思いたい。

 だから俺は……あまねるから話を聞いても、すぐに早退しなかったのだった。


 たぶん、あの時点で早退をして……もしも本当に俺が『危惧きぐしていること』が現実となった時。

 きっと俺の心は完全に以前のような感情が支配していたのだろう。我を忘れて暴走してしまうかも知れない。

 まぁ、多少落ち着いていた頃なのに『香さんの件』で暴走している俺が言うのも、おかしな話なんだけどさ。

 でも、だからこそ……彼女に救ってもらった身として、同じあやまちは繰り返しちゃいけないんだと思う。いや、繰り返したら俺は一生香さんに顔向けできなくなるからな。する訳がないんだけど。

 小豆とだって離れたくない。香さんとも、あまねるとも。

 いや、今の俺の周りの環境を失いたくないんだよな。

 だから、小豆のことを考えて暴走しかけていた俺は無意識に『もう一人の妹』に愛情を注いでいたのだと思う。

 そう、俺にとっては小豆もあまねるも妹なんだ。もちろん智耶も妹だ。そして香さんは姉。明日実さんは母親。 

 当然、親父達も祖父ちゃんも。いや、たくさんの人達が俺の周りにはいるんだ。

 だから、もう絶対に俺の我がままで誰かを悲しませない。だけど現実を知るのは、やっぱり恐い。それでも踏み出さないといけないんだ。

 だから。


 ――お兄ちゃんに勇気をください。


 こんな願いを心の中でつぶやきながら、彼女に勇気をもらっていたのだった。 

 ……うん、やっぱり軟弱になったのかな。


 あの時点では本当に泣きそうだった。心が折れそうになっていたと思う。不安で押し潰されそうになっていたのだろう。

 だけど、あまねるがいる。明日実さんだっている。二人にさとられる訳にはいかない。 

 だから表面上は平静へいせいを保っていた。

 まぁ、そんな弱音が「ハグしよ?」を呼び起こしたのかもね。

 とにかく、あまねるのおかげで俺は冷静さを取り戻していた。明日実さんは、まぁ……うん、余裕は持てたかな。そう言うことにしておこう。


 もちろん単なる俺の杞憂かも知れない。

 実際に直面したら冷静さが失われるかも知れない。と言うよりも、不安は拭えていない。

 それでも。

 俺は向き合わなくてはいけない。逃げることはできない。

 そう、仮に今回が杞憂に終わったとしても、透達の連絡が入れば俺は『彼女達』と対峙することになる。

 それ以前に、俺は香さんから知った手紙のことを小豆に知らせるつもりだ。

 別に知らせる必要はないのかも知れないが、俺はあいつを信じるし、全力全開であいつを受け止める覚悟で知らせようと思っている。


 それが俺の正義であり、小豆と俺の幸せ――

 そして俺にとっての『ケジメ』なんだと思うのだ。


 不安や想いのかった重い足取り。

 それでも前へ。一歩ずつ前へ。自分自身の決着をつけるのだと言い聞かせて。

 俺と小豆のトゥルーエンドを目指して進んでいくのであった。

 


 第五章・完

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