第9話 疑問 と 不穏

「……ふぅ。……だけど、あいつ今日はどうしたんだ?」


 クールダウンを終えて少し冷えた脳へ活を入れるように、両手で頬を思いっきり引っぱたく。頬の刺激で目が覚めた俺は大きく息を吐き出していたのだった。うん……いつものお兄ちゃん復活。

 すっきりした頭で着替えを始める俺は、さっきの小豆の行動に疑問を覚えて呟いていた。


 実際のところ、小豆は……まぁ、小豆ではあるのだが、俺の帰宅時――つまり、夕飯の支度の最中にあんな行動をしたことは一度もないのである。俺が倒れたときは有事だったのでカウントしないけど。

 普段は挨拶を交わせば、踵を返してすぐに夕飯の支度に戻るのだ。

 別に腹が減っている訳ではないんだけど、「お兄ちゃんが倒れちゃう」と言う理由があるらしい。

 まぁ、俺としても疲れて帰ってきているのに相手をするのは面倒だし、夕飯が遅れるのは勘弁願いたいから、そこは不問としておこう。

 それに、俺が忙しかったり、何か用事をしている時には絶対に近寄ってこない。当然本人の忙しい時や、何か用事のある時も同じだ。


 つまり基本、互いに暇を持て余している時間にしか『あんな行動』は取らないのである。

 あくまでも、暗黙のルールなんだけどさ。

 そこら辺の分別ふんべつができているからこそ、俺も小豆の『いつもの行動』を強く否定できないのだろう。……正直、嬉しくない訳じゃないしな。 

 だけど今日は違った。俺の帰宅時にやたらとベッタリと近づいてきていた。互いに『やるべきこと』があるにもかかわらず、だ。

 しかも智耶に荷物を持たせる為に、わざわざ大声で呼び出したりしてまで、な。

 確かに、小豆が智耶に色々とお願いをすることはある。だけど、わざわざ呼び出して、しかも命令をすることなんて一度もなかった。

 そう、小豆が智耶にするのは『お願い』であって『命令』ではない。

 そして当然ながら、智耶に対しても普段なら分別をつけてお願いをしているのだ。

 ――だからこそ、そんな自分勝手な、我がままにしか思えない行動を起こしていた小豆に腹を立てていたのだろう。昔の自分を思い出させられるようで、気分が悪かったのかも知れないがな。


「……まぁ、俺が腹を立てるのも筋違い、なのかもな……」


 そんな、あきらかに変な小豆の行動に違和感を覚えていた俺。

 だけど、腹を立てた理由に思い当たった俺は、自嘲じちょうぎみに呟いていた。

 自分勝手な、我がままとしか言えない行動なんて、とうの昔に俺自身が小豆にしてきていたことだ。

 それを小豆にされたからと言って、俺が腹を立てることなど筋違いでしかない。まぁ、そこについては小豆も反省したんだし、わざわざ言及げんきゅうすることはないのだろう。

 だけど、そもそも「なんで、そんな行動を起こしたのか」と言う点が疑問になる。


「うーん。どうしたんだろうな……」


 とは言え、俺の頭脳では解決の糸口すら見当たらない。ただ漠然と悩む素振りを見せるだけなのだ。

 俺はベッドに近寄り、窓に背を向けて立ってみた。

 だけど残念ながら首すじに刺さる麻酔針の衝撃はなく、当然意識を失うこともなかった。

 つまり、何も解決しないのである。……眠りの善哉作戦は失敗のようだ。いや、他人任せにできる話ではないのですが。

 まぁ、俺は探偵でもないし、眼鏡をかけた、腕時計に麻酔針を仕込んで他人に向けて飛ばす小学生なんて知り合いにいないから最初から無理なんだけどさ。


「まっ、ここで考えていたって意味がねぇことだし、様子を見てみるか……」


 結局考えても答えが見つからないでいた俺は、着替えを終えると針の刺激の感じなかった首すじをポリポリと掻きながら、リビングへとおりていくのだった。



「……お兄ちゃん、もうおりてきちゃったの? わわわっ、す、すぐに支度するから待っていてね?」

「い、いや、別に急いでないから、ゆっくりでいいぞ?」

「は~い……」


 だけどリビングへ入っていった俺を出迎えた小豆は、さっきまでの態度が嘘だったかのように普段通りの妹に戻っていた。

 俺がおりてきたことに気がついたのか、俺の方へと近づいてきたと思ったら途端に慌て始めていた妹。

 小豆の普段通りの慌てぶりに、「さっきの違和感は気のせいかもな?」なんて思いながら苦笑いを浮かべる俺は、「ゆっくりでいい」と伝えるのだった。

 その言葉に、安堵の微笑みを浮かべる小豆。そして返事をするとパタパタとキッチンの方へと戻っていく。

 俺はそんな妹の背中を眺めながら、リビングのソファーに腰掛ける。


「……」

「ん?」

「……」


 少し目線の高さが変わったからなのか、腰掛けた瞬間にキッチンにいた智耶と目が合った。

 まぁ、家族なんだし、目が合うことなんて日常茶飯事なんだけどさ。

 俺は智耶の表情が気になっていたのだった。


 何やら小豆に悲しげな視線を送り、俺に助けを求めるような視線を送っていた。

 でも、小豆が智耶に視線を向けると、パッと笑顔に変えていたから「さっきのやり取りを気にしているのかな?」程度にしか考えていなかった。

 そんな風に、俺は二人の姿を眺めて楽観していたのだろう。 


 その後――。

 夕飯の支度が終わる頃に、親父とお袋が帰宅する。だいたい帰ってくる時間を見計らって支度が完了するのだ。

 まぁ、親父達の帰宅に合わせているのか、親父達が飯の時間に合わせて帰ってくるのかは知らないけどな。きっと小豆のことだから前者なんだと思う。

 帰ってくる時間を逆算して、料理を完成させるなんて芸当は素直に凄いと思う。

 そして、そんな芸当ができると言うことは、普段と何一つ変わらない小豆なのだとも考える。

 毎度のことながら感心するのと同時に、俺の知っている小豆であることに安堵をして、俺は食卓につくのだった。


 こうして食事を済ませ、買ってきたデザートまで堪能した俺は一番風呂に入る。

 さいわいにも、俺のあとに入ることを嫌う家族がいないので一番風呂に入れるのだ。まぁ、次は智耶が普通に入ってくれるからね。

 いや、俺を智耶の次に入れない為なのかも知れないな。うむ……知りたくない事実だから無視しておこう。

 そして風呂から出た俺は今、部屋に戻ってくつろいでいるのだった。


「……やっぱり気のせいだったのかな?」


 俺は髪を乾かしながら小豆のことを思い出していた。

 あれからの小豆にも、特におかしな様子はなかった。本当にあの時だけの気の迷い――単なる気のせいなのだと思えるほどに。

 ある程度乾いた髪を手櫛で軽く整えていると控え目にノックする音が室内に響いてきた。


『……よぉにぃ、少しお時間いいですかぁ?』

「ん? 智耶か……い、いいぞー?」


 俺の声を待たずに扉の向こうから智耶の声が聞こえてきた。

 俺は校門での光景を思い出して一瞬躊躇ためらっていた。お兄ちゃんにも心の準備と言うものがですね?

 とは言え、読んでやると約束したことだし。何よりも、この時間なら小豆は後片付けやら入浴などで当分俺の部屋には来ないのだ。この時間に読ませる方が俺のダメージも少ないのだと判断していた。

 そんな訳で決意した俺は、智耶を中へと促すのだった。


「……お邪魔しまぁす……」

「……あれ? ラノベはどうした?」


 部屋の中におずおずと入ってきた智耶。風呂上りの火照った体を包む、ヒョウさんパーカー。やっぱり持っていたらしい。

 だけど肝心のラノベを持っていないことに疑問を覚えた俺は、不思議に思って智耶に訊ねるのだけど。


「ラノベは、あぁねぇがいないので、今度でいいです」

「……そ、そうか……それなら、どうしたんだ?」


 俺の一縷いちるの望みは「世の中そんなに甘くないんやで?」と望ちゃんに言われたように、スッパリと断ち切られていたのだった。まぁ、実際にこの台詞を言ったのは、このかちゃんなのですがね。

 とりあえず別の用件があるのならと、話を促していた俺。そんな言葉を受けた智耶は、神妙な顔つきで話を始めるのだった。


◇8◇


「実は今日、かぁねぇと一緒に帰ってくる途中に……知らない制服を着た人達から『あぁねぇ、と、あまねねぇ』のことを知っているかって、聞かれたんです」

「……え?」


 智耶の言葉を聞いて、胸にざわつきを覚えながら驚きの声をあげる俺。

 あまねるのことを智耶は『あまねねぇ』と呼ばせてもらっているようだ。あとは香さんも『あまねちゃん』と呼んでいるんだけど。小豆の親しい人には好意的な彼女なのである。

 そんな二人のことを聞いてきたと言う人物。

 智耶はうちの高校の制服はもちろんのこと、母校である中学の制服も知っている。つまり相手は他校の生徒だと言うこと。

 確かに、うちの高校のアイドルである二人の人気が校外に及んでいないとは断定できない。

 だけど、「知っているか?」と聞いてくる以上、二人の素性を知らないってことだ。それなら目の前にいる香さんのことを聞かないのは変な話だと思う。目の前にいたって気づいていないんだしな。

 そう、名前と人気の噂だけの話なら、香さんだって同レベルなんだ。まぁ、明日実さんは教師だから別格なのだろうが。   

 それなのに、小豆とあまねるの二人だけを名指しで聞き出すってことは、きっと他の目的があるのだろうと踏んでいた。


「でも、かぁねぇが『知らない』って伝えたら、すぐにどこかに行っちゃいました」

「そっか……ん? 電話だ……」


 智耶の言葉で胸をなでおろしていた俺。素性のわからない人間へ下手に二人の情報を伝えて、わざわざ危険を招く必要はない。まぁ、香さんと一緒だって時点で彼女が下手な真似をするとは思っていないのだけどさ。

 二人に何も起こらなかったことに安心していると、机の上に置いてある携帯が震える。

 智耶に断りを入れてから携帯を掴み画面を覗くと、香さんの名前が表示されていた。

 数時間前の西瓜堂でのことを思い出して背中に冷たい汗が伝っていたんだけど。

 出ないと言う選択肢はないだろうし、智耶との会話で彼女にも話を聞いておきたいと思っていたところだ。

 

「……もしもし、香さ――」

『……あー、うん……さっきは、お母さんがごめんね?』

「い、いえ、そんな……」


 通話ボタンを押した俺は彼女に逃げてしまったことを謝罪をしようと思っていた。

 だけど、言葉にする前に彼女の方から申し訳なさそうに、恥ずかしそうに言葉にしていた。西瓜堂での一件を思い出して、俺まで恥ずかしくなって曖昧に答えていたのだった。


『……それでね?』

「……は、はい」

『さっき、お母さんのせいで言いそびれちゃったんだけど……下校時に、よんちゃんと別れてから智耶と帰っている途中にね? 小豆とあまねちゃんのことを聞いてきた他校の生徒達がいたのよ』

「あっ、その話……今、智耶に聞いていたところなんです。それで詳しく知りたくて電話しようと思っていたんですよ……それで――」


 どうやら彼女の用件も同じだったらしい。と言うより、さっき話そうと思っていたみたいだけど、俺が逃げちゃったから電話してきたのだろう。……おばさん、無事だといいな。まぁ、俺と違ってレベルの高い人だから楽に回避しているんだろうけどね。

 とりあえず彼女に詳しい話を聞こうと言葉を繋げるのだった。



「はい……おやすみなさい……」


 簡単な話を聞いた俺は、彼女に挨拶を済ませて電話を切る。そしてジッと携帯を睨んでいた。

 彼女の話はそれほど詳しい訳ではなかったが、確証を得るには十分すぎるほどの情報だった。


『……男女五人組で聞いてきたんだけど、男子は知らない高校の制服だったのよ。でも……女子の方は「宇華徒うかと学院」の高等部の制服を着ていたわ』


 彼女は確かにそう言っていた。

 まぁ、宇華徒学院は有名お嬢様学校。男子ならともかく、近隣の女子なら大抵の人間が知っているんだと思う。ある意味女の子のブランドみたいなものなのだろう。男子なんで、よくわかりませんがね。


 宇華徒学院の高等部――それは、あまねるの中等部時代のクラスメートの可能性が高い。

 俺は透の言葉を思い出していた。彼女側の人間が嗅ぎ回っていると言うことなのだろう。

 それなら『小豆とあまねる』を名指しにする意味も理解できる。そう、理解できるだけで納得なんてしないけどさ。

 二人とも別に周囲に壁を作る人間ではない。誰にでも分けへだたりなく接する、親しみやすい雰囲気なのだと思う。あまねるは性格上、溶け込めるまでに時間はかかるんだけど。でも、どちらかと言えば俺の方が壁を作りやすい人間だと思うくらいだ。

 まして……まぁ、小豆は数ヶ月の在籍だけど。あまねるは宇華徒学院の卒業生だ。中等部までだけどね。

 別に知り合いでなくても「宇華徒の生徒です」と声をかければ普通に接してくれるはずだ。

 だから好意的な感情なら、こんな姑息こそくな手段を取るはずもないのである。


『それに……私達だけじゃなくて、お店に来てくれた子達や部活の後輩の子達からも連絡を受けたの』


 付け加えて香さんは、こんなことも教えてくれていた。

 つまり、高校近辺に張り込んで、制服を着ている複数の生徒達に聞き込みをしていると言うことなのだろう。


『火のないところに煙は立たぬ』とは思っていたけど、それでも俺は、風に流されて降りかかってくる『もらい火』程度のことだと考えていた。

 だけど違うようだ。向こうは完全に『付け火』を目的にしているのだろう……まだ真相はわからないがな。

 だけど、あまねるだけではなく小豆のことも訊ねてきたと言う事実。

 それはおそらく、『小豆とあまねるの間に起こった悲しい衝突』が関係しているのだと思う。断定はできないが、たぶんそうなのだろうと考えていた。

 小豆は数ヶ月たらずの在籍。小豆を知る学院の生徒なんて、ほとんどいないだろう。

 それが今さらなタイミングで、わざわざ名指しで訊ねられる理由なんて……まぁ、それしか考えられない。

 つまり言い換えれば、俺にも関係のあることなのである。


 あの時点ですべて解決していたと思っていた。全部元通りになったのだと信じていた。

 だけど、こうして目の前に代償が押し寄せてくる。

 今年の春。あまねるが恵美名えみな高校に入学をしてくれて本当に嬉しかった。

 彼女自身、「親友の小豆さんと一緒の学び舎で学びたかったんですの」と言っていたから、俺は純粋に喜んでいた。

 ――そう、彼女が何故、恵美名高校に入学してきたのかを深く考えていなかったのだ。

 もしも小豆とのことが。俺が接点を持ったことが、彼女を学院から去らせた原因なのだとしたら――。

 俺は小豆だけじゃなく、あまねるにも大きな傷を与えたことになる。そうでないことを願いたいが、そうである可能性も否定できない。

 結局、小豆を認めてもらいたくて取った行動だったけど、それはあまねるを否定する行動だったのかも知れない。それが『彼女達』の存在を生み出したんじゃないかって感じていた。

 

 ――これも俺の自分勝手な行動が招いた罪なのだろう。

 それなのに、俺じゃなくて小豆とあまねるに牙が向けられている。

 二人が何をしたと言うのだろう。何も悪いことをしている訳じゃないだろう。誰にも迷惑をかけていないじゃないか。

 悪いとすれば、巻き込んでしまった俺なんだ。

 俺に向けられるはずの牙が二人に襲い掛かるかも知れない現実。

 そんな状況に腹立たしくもあり、自分の不甲斐なさを痛感するばかりだった。


「……チッ!」

「よ、よぉにぃ……ひぐっ……」

「――おっと、すまん、智耶……恐がらなくても大丈夫だぞ?」

「……は、はいぃ~」

 

 香さんの言葉を思い出して、胸の中にどす黒い感情が巻き起こり、携帯を睨んで思わず舌打ちをしていた俺。

 そんな俺を見て、ビクビクと震えながら涙を溜める智耶。

 何やってんだろうな、俺……妹を泣かしてどうすんだよ。

 妹の声に現実へと引き戻された俺は、微笑みを浮かべて妹の頭を優しく撫でながら言葉を返していた。

 そんな俺の言葉と行動で泣くのを堪えた智耶は、俺に笑顔で答えてくれるのだった。


 とりあえず事情は理解したので、そろそろ小豆が来る頃だろうからと、智耶は自分の部屋へと戻っていった。

 少し考え事をしていたいところだが、時間がないだろうと鞄を開けてプレゼントのフィギュアを取り出す。それと円盤を開封してDVDをプレイヤーにセットしておく。

 更に、フィギュアの箱を開封してフィギュアを取り出す……俺のではなく、小豆のだと言うことは承知の上だがな。


「……お兄ちゃ~ん、お待たせ~♪」


 準備を終えるとタイミングよく、ノックと同時に扉が開かれて小豆が入ってくる。いや、ノックの意味ないよね? 

 あと、タイミング的に扉の前で待っていたとかないよね? あと、別に待っていません。

 つまり、何も変わらない小豆が入ってきたのだった。

 

「小豆……これ、遅くなったけど誕生日プレゼントだ」

「ありがとう♪」

「透達も金出してくれたから、あとで礼を言っといてくれよな?」

「うん、わかった~♪ ……えへへ~♪」


 俺はフィギュアを取り出すと自分の棚へと持って行き、自分のと交換して箱にしまって小豆に差し出した。いや、そのまま渡しても小豆が同じことをしやがるんでな。アニオタなんで。だから俺がやっても変わらないのである。

 受け取ると満面の笑顔で礼を言ってくる小豆。その笑顔に微笑みを浮かべて透達のことを付け加えた俺。

 了承してくれた小豆はフィギュアを床に置くと、いつも通り俺の腕にまとわりついてくるのだった。



 それから二人で今日回収した円盤を堪能する。華やかな映像と素晴らしい楽曲に導かれ、二人の楽しい会話が室内を暖めていた。

 そう、思わず『彼女達』の件を忘れてしまいそうになるくらいにな。

 ずっと様子を伺っていたけど、小豆におかしな言動は見られなかった。あくまでも小豆オリジナルの話だけどさ。

 ――きっと、夕方の我がままは、昼間の俺が口を滑らせて泣かせてしまったことに対する、小豆なりの解消。

 みんなが見ている手前、俺の為に無理に納得していたのかも知れない。

 そんな心に残る不安を綺麗に解消する為に取った行動だったのだろう。そんな風に結論づけていたのである。 


 しばらく堪能して花を咲かせていた会話も、互いに眠くなったのでお開きとなる。

 小豆はとても満足した表情で自分の部屋へと戻っていく。そんな妹の背中を眺めて「ひとまず小豆にもあやねるにも被害は及んでいないのだろう」と胸をなで下ろしていた俺。

 もちろん今だけなのかも知れない。油断は大敵なのかも知れない。

 それでも、今のところは安心をしていた。そう判断していたのだった。

 俺はパジャマに着替えてベッドに入る。そして電気を消し、薄暗い天井を眺めて心の中で呟く。


 明日から。そう、明日からも二人に対して何も起こさせない。守りきってみせる。悲しい想いなんてさせるものか。ずっと笑顔でいさせてやるんだ。


「……おやすみ、小豆……」


 俺は決意を胸に、隣の部屋の方へ視線を移すと小さく小豆に声をかける。

 そして目を閉じて眠りに就くのだった。


 ――そう、俺は『まだ』何も被害がないのだと思っていた。小豆の行動も別の理由なのだと考えていた。

 それに今日は色々なことがありすぎて、精神的に疲れていたのかも知れない。脳が休息を要求していたのだろう。

 寝ぼけた鼓膜に隣の小豆の部屋から、何か小さな声が聞こえていた。だけど眠かった俺は「小豆のやつ、まだ起きていて何かやっているのかな?」なんて、ぼんやりと考えていたのだろう。いや、考えるのも億劫おっくうになっていたのかも知れない。ただ漠然と、隣の部屋の聞き取れないほどの小さな声の存在だけを認識していたのだった。

 

 ……今思えば、俺は小豆のことを何もわかってやれていなかったのだ。既に被害の牙は小豆に向けられていたのだった。

 夕方の小豆の行動。聞き取れないほどの声の存在。それが何を意味するのかに気づいてあげられなかったのだ。

 そう、隣から漏れる声が『小豆が押し殺している泣き声』だと気づかずに、俺は既にユメノトビラを開けて歩き出していたのだった。



 第三章・完

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