第8話 パーカー と 抱擁

 その言葉を聞いた香さんは一瞬にして茹で上がり、顔を引きつらせながら後ろへ振り向いていた。

 俺は「なんで、それを言っちゃうんですか!」と言う意味を視線に込めて、目の前のおばさんに声をかける。

 

「お待たせ、よんちゃん……人数分、適当に入れておいたわね?」

「あ、ありがとうございます……」

「……」


 片手に紙袋を持って、おばさんが戻ってきた。そして二人の顔色など気にする素振りも見せずに、俺に紙袋をかかげて見せながら、微笑みを添えて言葉を紡いでいた。

 俺は目の前の香さんを気にしながら、おばさんに礼を伝える。な、なんか香さん、プルプル震えていますが、汗が引いて寒くなったんですかね?

 

「そうね……千円でいいわよ?」

「あっ、はい……それじゃあ、これで。いつもすみません」

「気にしないでいいわよ? ……はい、確かに」

「……」


 俺には香さんが背中を向けているので顔までは見えないんだけど、面と向かっているおばさんには彼女の顔が見えているはずだ。

 それなのに何食わぬ顔で、平然と俺に代金を提示する。あ、あれ? 香さんのプルプルが少しはげしくなった気が……。空調ききすぎなのかな。俺には快適なんだけど。


 実を言うと、代金はかなりアバウトな感じなのだ。けっこう値引きが発生しているんだと思う。

 おばさんの提示に財布から千円を取り出して、感謝の言葉を添えて差し出す俺。申し訳ないけど、今顔を見るのはとても恐いので、香さんの背中越しから手を伸ばしていた。

 おばさんは笑顔で言葉を返しながら手を伸ばして千円を受け取ると、了承の言葉とともに袋を手渡してくれるのだった。


「そ、それじゃあ俺はこれで――」


 本当なら、彼女の様子が気になって来たんだけど。さっさと退散するのが吉な気がする。

 俺は踵を返して、この場から離脱しようと考えていた。

 今はまだ、香さんもプルプル震えているだけで何も起こっていないしな。お、お大事に……。

 なんて考えて、入り口の方へ向き直った直後。


「あら、よんちゃん……ちょうど香が茹で上がっているみたいだから、お試しで持ち帰ってみない? 明日返してくれればいいわよ?」

「――おかあさんっ! ななななな何言いだすのよぉーっ!」

「――し、しつれいしますっ! ……」


 おばさんが起爆スイッチを、あたかもSNSの『いいね』ボタンを気軽にクリックするかのようにサラッと押したことによって。

『かのは』シリーズ。かのはちゃんの親友である『ファイト・テスタナナサ』ちゃんの得意魔法の一つ。

 高純度の雷を纏っているような香さんの一撃必中、『プラズマザンバー』を彷彿とさせる口撃がおばさんへと向けられていた。自爆してどうするんですか、おばさーん!

 こんな高レベルの魔法口撃を受けたら、雑魚レベルの俺なんて大ダメージを負ってしまう。

 二次災害による危険を察知した俺は脱兎だっとのごとく店から緊急避難するのであった。

 おばさん、ご武運をお祈りしております。合掌……。



「……た、ただいまー」

「……あ、お兄ちゃん、お帰りなさぁい♪」


 なんとか息も絶え絶えに無事生還できた俺は、自宅の玄関を開けて中に入る。

 そんな俺の声に気づいたのだろう。リビングの扉が開いて小豆が笑顔で出迎えてくれた。

 今日は普通の……ピンクのウサギさんパーカーに、白いウサギの尻尾付きのピンクのホットパンツ。そこにエプロンをかけた姿の妹。……まぁ、小豆にすれば普通の部類に入るだろう。

 フード部分にウサギの顔と耳のついた、『かのは』のビビオちゃんが掲載雑誌の付録だったジグソーパズルの絵柄で着ていたパーカーだ。ホットパンツは知らんけど。

 だから、どこで売ってんの?


 確かに以前、そのパーカーを見て「これ、可愛いな? 似合うかも……」とは言ったさ。それは認めよう。

 駄菓子菓子……いや、手に持っているのは駄菓子ではなく、和菓子だがな。


 駄菓子菓子とは、だがしかしのこと。

 某球体的有名美人女性声優ユニットのメンバーである彼女が、ブログなどでよく使う言葉である。


 だがしかし、それは智耶を想像して言った言葉であって、断じて小豆に言った言葉ではない。

 ――だって、お前、チャック閉まらないじゃん? 

 途中まで頑張ったとしても、スイカを強調するだけじゃん。まぁ、今はエプロンで隠れているので直視できていますけどね。

 可愛いではなくてエロいので残念ながら選考外です。

 とは言え、智耶もメロンを持っているので微妙なところかも知れませんが、少なくともチャックは閉まると思うので、早急に妹への譲渡を提案しておこう。と言うより、お兄ちゃんの平穏の為にお願いします……。


「……あ~、小豆のおやつにしちゃうぞ♪ ……」

「別にお前だけのじゃねぇ――」

「えいっ!」

「うおっ!」

「……すぅ~ふぁ~。えへへ~♪」

「……」


 俺が靴を脱いで、がりかまち――玄関の段差に足を乗せた瞬間に、俺の手に持っていた紙袋をロックオンした小豆が、こんなことを言って飛びついてきた。

 当然こいつだけのおやつ、いや、食後のデザートではないからと、紙袋を上に持ち上げて略奪を回避する。

 ところが、こいつの腕は空を切るどころか俺の胴体をしっかりとホールドしてきた。ご丁寧に下ろしている腕の間をすり抜けて。

 そして通常運転が開始されるのだった。

 って、最初から狙いは俺だったのか。いや、お兄ちゃんはお前のおやつじゃないんだけどね。


「……とりあえず、これ夕食後のデザートだから」

「ふぁ~い……」

「……いや、離れてくれないと渡せないだろうが。あと、円盤もあるんだからさ……」


 このままと言う訳にもいかず。だって、玄関だしさ。誰か来たら困るでしょうが……俺が。

 うむ。大抵この時間にチャイムを鳴らして勝手に玄関を開ける人物達や、鳴らさずに勝手に開ける人物達は、俺達の姿を見ても何も反応を示さない思考の持ち主しか存在しない。

 つまり外堀が完全に埋まる行為でしかないのである。

 いつ玄関を開けられるかヒヤヒヤしながら、とりあえず離れてもらおうと紙袋を渡そうと伝えたのに、顔を埋めたままで返事をする妹。

 なんで俺は、お前の被っているフードのウサギさんと会話をしないといけないんだよ。と言うより、お耳が当たって、こそばゆいんですけどね?

 とりあえず、俺は呆れた顔で言葉を繋げることにしたのだった。 


「……むぅ~。……智耶ぁ~?」

「……なんですかぁ? あっ、よぉ~にぃ~、おかえりなさい」

「お、おう、ただい……ま?」


 俺の言葉に顔を上げた小豆は、頬を膨らまして声をあげると智耶のことを呼んでいた。

 そんな声に答えるように、リビングから出てきた智耶。俺を見つけると笑顔で挨拶をしてくれたのだった。

 俺は小豆の頭のウサギさんから視線を智耶へと移して、返事をしようとしていたのだが。

 ……ほら、見ろ。やっぱり智耶の方がウサギさんパーカー似合うじゃねぇか――って、あんですとー?

 そう、なんと智耶も小豆とお揃いのウサギさんパーカー&ホットパンツを着こなしていたのである。

 いやいや、そこはビビオちゃんの愛しの先輩であるマインハルトちゃんが着ているヒョウさんパーカーにしておきなさい! ……まぁ、小豆のことだから入手済みだと思うのだが。

 きっと、俺の考えを見越して先手を打っていたんだろう。

 智耶を唖然と眺めている俺に、「にししっ♪」なんて聞こえてきそうな満面の笑みを浮かべて、見上げている小豆の顔が映りこむ。

 ああ、もう、降参ですよ。別に可愛いから着ていてもいいんだけどな……チャックだけは閉めようとすんなよ、頼むから。


「智耶……お兄ちゃんから紙袋と鞄を受け取ってぇ~?」

「はぁい……」

「ありがとぉ~」


 なんで智耶を呼んだのかが理解できなかった俺だったけど。さすがにパーカーを見せる為でもあるまい。

 そんな風に考えていたのだが、まさかの「私、手が離せないから代わりに受け取って?」的なサムシングを決行しようとしていた小豆。

 そして理不尽だと感じずに自然と手を伸ばして、俺の紙袋を鞄を受け取る智耶。そして紙袋と鞄を抱えて、数歩下がると少し離れたところで待機していた。

 そんな智耶に顔を向けて礼を言う小豆。

 いや、だからなんで智耶に持たせようとしてんだよ。さすがのお兄ちゃんでも怒りますよ?


「むふふぅ……」

「――って、お ま え が は な れ ろ!」

「ふぇ? ……うぅぅぅ……むぅうううっ」


 俺は解放された両手の平で、俺の胸に顔を埋めようとしていた小豆の頬を優しく挟み、顔を突き出して文句を言ってやった。

 一瞬だけ驚きの声をあげた小豆だったけど、何を血迷ったのか……まぁ、いつものことなんだけどな。

 唇を尖らせながら瞳を閉じて顔を近づけようと頑張りだす妹。

 しかし俺の両手が小豆の突進を食い止めている以上、それ以上の侵攻は到底無理だろう。

 そんな安易な考えが命取りなのだと後悔するほどに、更に声をあげて顔を近づけようとする妹。

 お、おい、そんなに無理するなって。可愛い顔が大変なことになるじゃねぇか。

 俺としても突進は食い止めたいところだが、小豆に苦痛を与えるつもりはない。最低限優しくふれている程度でしかないのだ。

 そこを強引に割って入ろうとしてくる妹。俺はなんとか阻止するべくバリアーを張り続けていたのだった。


「むうううっ――きゃっ!」

「うおっ! ――くっ……いでっ!」


 だが俺の健闘も虚しく、ついにバリアーが破かれ、小豆の勝利が確定する。

 しかし、小豆は捨て身――空母自らの神風アタックを決行していたようだ。って、そんな作戦ある訳ないだろ。ほら、戦略智耶爆撃機が着陸できなくてオロオロしているじゃねぇか。別に着陸しないけどさ。

 つまり、全体重をかけて突っ込んできていたのである。当然、前のめりの状態では制御がきくはずはない。勢いのままに俺に倒れこんできやがった。

 いつもなら、小豆のことを支えることはできたんだけどな。運の悪いことに今立っているのは上がり框。要は崖っぷちに立っているのと同じだ。

 そこへきて、小豆の突進を食い止める為に体を後ろに反らしていた俺。

 そんな状態では、まだ身体の小さな智耶ならばともかく、小豆なんて無理だ。

 支えられないと判断した俺は、せめて小豆だけでも庇おうと考えていた。幸いにも、さっきの反動で小豆の両手は俺の背中に絡んでいない。手を潰す心配もないのだ。

 まぁ、本当ならば多少のダメージを覚悟して、そのまま後ろに倒れて、玄関の石畳の上に落ちても問題はなかったと思う。

 ……その昔色々あって、たぶん人より打たれ強いと思うから、これくらいなら本当に大したことはないとは思うんだけど、油断はできないだろう。

 正直、今は『あまねるの件』があるから下手を打つ訳にはいかないのだ。

 だから俺は咄嗟に小豆の肩を両手で掴んで、強引に回り込み、廊下の床へ小豆を庇って倒れこむのだった。


「いたたぁ……お、おにいちゃんっ?」

「……いてて。……大丈夫か?」

「う、うん……大丈夫」

「そっか、ならよかった……ふぅ」

「よぉにぃ、あぁねぇ、大丈夫ですか?」


 二人分の体重が落下したことで、大きな音が廊下に響き渡る。

 俺の胸に顔を埋めていた小豆は痛そうな声を発したかと思うと、ガバッと顔を起こして心配そうに俺に声をかけてきた。

 胸の上が軽くなったことを確認して、俺も小豆に声をかけながら顔を起こす。

 悲しそうに頷く妹に優しく微笑みながら頭をポンポンと叩いて声をかけていた俺。

 目の前の小豆は申し訳なさそうではあるが特に苦しかったり辛そうには見えない。本当に何事もなくてよかった。

 俺は苦笑いを浮かべながら安堵のため息をつく。

 そんな俺達を見下ろしながら、心配そうに智耶が声をかけてきたのだった。


「ああ、俺も大丈夫だ……っと、小豆、おりてくれないかな?」

「……。……」

「あず――き? って、おいこら――ッ!」


 とりあえず智耶を見上げて大丈夫なことを伝えると、智耶はホッと表情を和らげてくれた。

 そして視線を胸元に戻して小豆におりてもらうように頼む。

 その言葉にゆっくりと身体を起こした小豆。だけど俺の身体からおりようとせずに俯いたまま固まっているのだ。

 だから俺も身体を起こして声をかけたんだけど、その瞬間、俺の首に小豆の両手が絡まる。俺の頬に小豆の頬がふれる。

 性懲しょうこりもなく、また抱きつこうとしたのかと思う俺。

 身体を張って助けたのに、別に頼んでないことだったと言わんばかりに。

 またもや同じことをしようとする小豆を見ながら、さすがに腹が立って怒鳴ろうとしたんだけど。

 首に絡まる腕の震え。頬を伝う温かい雫。

 顔は見えないけど俺の耳元に奏で続けられる、かすれた小声の「ごめんなさい」に、俺はグッと言葉を飲み込んでいたのだった。


「……」

「……」


 俺は智耶に顔を向けて、右手を使い「すまん。リビングに戻ってくれないか?」と言うジェスチャーをする。

 智耶は優しい笑顔を浮かべて無言で頷くと、紙袋と鞄を抱えてリビングへと戻っていく。こう言う時に言葉にしなくても通じるのは嬉しいな。

 ……なるほど。これが「伝えなくていいんだ 通じるから」と言うことなのか? 

 このかちゃん達のデビュー曲の歌詞を思い出して実感する俺。

 リビングの扉が閉まる音を確認した俺は、小さく深呼吸をすると小豆に声をかける。


「……今だけだからな?」

「……ふぇ?」


 俺の言葉にビクンと震えて、小さな声を俺の耳元で奏でる小豆。


「いやなら突き飛ばせよ?」

「え? ……あ……」


 俺は断りを入れると、両手を小豆の背中に回す。俺の両手に暖かな背中の体温が伝わる。

 今まで小豆が腕に絡まってきたことや、小豆に抱きつかれたことはあるけど、俺から手を回すことはなかった。それが俺にできる唯一の抵抗だと思っていたのだろう。

 それが、なんでなのだろう。今日は色々なことが起こりすぎて精神が疲れすぎていたのかも知れない。温もりがほしかったのかも知れない。そう言うことにしておこう。

 俺の言葉に驚いた声をあげた小豆だったけど、背中に伝わる俺の手の感触に気づいて小さく声を漏らす。

 でも、それ以上は何も言ってこなかった。その代わりに。

 首に絡まる両腕が、少しだけ強く圧を与えていた。

 その圧に応えるように、背中に回した両手に少しだけ強く圧を加える俺。

 二人はそのまま、ほんの少しの時間だけど、そうしていたのだった。


◇7◇


 落ち着きを取り戻した小豆は、俺から離れて真っ赤な顔をしながら、振り返ることなくリビングの方へと歩き出していた。

 俺も立ち上がり、数秒前のことを思い出して恥ずかしくなり頭をくと、苦笑いを浮かべて歩き出すのだった。

 リビングに入るとソファーの上に俺の鞄が置かれていた。紙袋は冷蔵庫にでも入れておいてくれたのだろう。さすが智耶さん。

 

「おーい、小豆……」

「……にゃ、にゃに――ッ! ……ふぇ~ん」

「あ、あぁねぇ、大丈夫ですかぁ」

「……」

 

 鞄から円盤を取り出して小豆に声をかけたんだけど、キッチンにいた妹は、冷めやらぬ茹で小豆のまま、ビクビクしながら振り返ると、ものの見事に噛んでいた。

 うん。今はソッとしておいた方が得策かもな。

 俺はガメルスの袋から自分の円盤と特典を抜き取り、テーブルの上に置く。


「……円盤、テーブルの上に置いておくからなぁ? 自分の分、あとで回収しておけよー?」

「……ふぁーい」


 小豆にそう伝えると、小豆は口を手で覆いながら涙目で答えていた。

 そんな妹に苦笑いを浮かべて自分の部屋に歩き出した俺。

 夕飯の支度が途中だし、あまり手を止めさせるのも悪いからな。気にせずにリビングを出るのだった。


「……。――ッ!」 


 自分の部屋に入った俺は、無意識に手の平を見つめていた。

 別に小豆の背中にふれたのが、はじめてのことって訳じゃないけどさ。少なくとも『そう言う感情』を抱いてふれたのは今日がはじめてだ。

 そう、妹の背中に手を回したんじゃなくて、『小豆の背中』に手を回したってこと。

 そんな彼女の背中の感触と温度を思い出した俺は、全身に熱を帯びていた。

 今までは、いつも小豆が絡んできて受身で妹の体にふれることしかなかった。だから妹として拒むことができたのだと思う。でもさっきは。

 確かにキッカケは小豆だったけど。か弱い一人の女の子として、もしかしたら無意識に自分から接していたのかも知れない。

 一人の女の子として無意識に自分から接する。そこに兄とか罪悪感なんて存在しない。あるのは奥底に眠る感情だけだろう。

 だけど俺はその感情を起こすつもりはない。この家に戻った日に、そう決意しているのだから――。


「……ッ!」


 俺は熱を帯びた体と、脳裏にこびりついている記憶を振り払うように首を大きく左右に振っていたのだった。

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