歩きスマホにご用心(ニ)
寝入ってどれだけ経っただろうか。
不意に、キン、と鋭い音が耳を刺し、僕は目を覚ました。
慌てて飛び起きようとしたけれど、起きられない。起き上がるどころか、指一本も動かせない。
金縛りだ……!
ということは、さっきのはラップ音……!?
暫くこんなことなかったのに、どうして。
更にぐっと胸を押さえつけられるような息苦しさを感じて、僕は唯一動かせる目玉をそちらに向けた。
毛布をかけた胸の上に、細く白い女の両足が乗っている。部屋が暗いせいで、顔までは見えない。確認できたのは、膝上を覆う白っぽいスカートまでだ。
ハルカ?
……違う、ハルカじゃない。
合鍵を持っているからって、ハルカはこんなことしない。
勝手に部屋に上がり込むことはあっても、理由もなく黙って彼氏を踏み付けるなんてことはしない。
何かあったとしても、彼女の性格ならまず、精神崩壊直行便の言葉責めから始める。
しかも――『靴を履いたまま』なんて、礼儀作法にうるさい彼女に限って、絶対にありえない!
「ねえぇ……」
耳元に、囁き声と共に冷たい吐息がかかる。
「もう、急いでないんでしょぉぉぉ……? 私と、一緒に逝こうよぉぉぉ…………」
足は、依然として胸に直立したまま。なのに声は、僕の顔のすぐ近くから聞こえる。普通の人間なら、どれだけ関節が柔らかくても不可能な体勢だ。
僕の脳裏に、帰り道での出来事が蘇る――『赤いハイヒール』、あの女の人だ!
あの女の人、生きた人間じゃなかったんだ!
気付かず声をかけてしまったせいで、憑いてきちゃったんだ!
右横から囁きかけていた女はゆっくりと移動して、ついに僕の顔面の真上にやってきた。
ボサボサの長い髪が、頬をぞろりと撫でる。
見たくないのに、目が閉じられない。叫びたいのに、声が出ない。気絶してしまいたいのに、それも許されない。
「あなたも、一人ぼっちなんでしょぉぉぉ? だったら私と、一緒に逝きましょぉぉぉ?」
黒目ばかりの目を見開き、鱗のようにひび割れた肌とは裏腹に、不気味なほど艷やかな赤い唇から真っ黒な口腔を覗かせ――女の生首は、ニタリと笑った。
明日にはフラれてしまうかも、なんて気弱なことを考えた僕を取り込もうとしているに違いない。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
確かにハルカがいなくなったら、家族も親戚もいない僕はまた一人ぼっちになる。一人は辛くて寂しい。それでも嫌だ。こんな女に憑かれて殺されるのは嫌だ。
だって今はまだ、僕はハルカの彼氏なんだ。
付き合っている内に僕が死んでしまったら、ハルカはショックを受けるだろう。既に心変わりしていたとしても、僕の死は少なからず彼女の心に暗い影を落とす。彼女の心を傷付ける。そのせいで、次の恋に進めなくなる可能性もある。
そんなことはしたくない。いつかハルカを守りたいと思っていたのに、叶えられないどころか重荷になって死にたくない。
ハルカのために、僕は生きなきゃならないんだ!
長い髪が、生き物のように首に巻き付いた。そして、ぐっと締め上げる。
苦しい、息ができない。このままじゃ、本当に死んでしまう。
嫌だ、死にたくない。ハルカを守れないまま、死にたくない!
ハルカ……ハルカ、ハルカハルカハルカハルカ!!
出ない声の代わりに心で懸命に叫び、遠のきかける意識と戦っていた僕の耳に――――ふと、ポォン、という何とも不思議な音が届いた。
生首女にも聞こえたようで、髪に込めていた力を緩め、辺りをきょろきょろ見回す。
ポコポコ、ポコポコ、ポコポコ。
音はどんどん大きくなり、ポコポコからボコボコへ、ボコボコからドコドコへ、ドコドコからドムドムへと激しく高まっていく。
え、ウソ……何で?
金縛りは解けたものの、踏み付けられているせいで起き上がれないため、僕は首だけで周囲を見渡して唖然とした。
しかし、僕以上に生首女は驚いたらしい。ポカンと間抜けな表情で固まっている。
そりゃ幽霊だって、いきなりこんな状況になればビックリするだろう。
何たって八畳の部屋の中には、ゴリラ、ゴリラ、ゴリラ、ゴリラ、ゴリラ!
床、壁、天井、室内を隙間なく埋め尽くしたゴリラの大群が、揃ってドムドムドムドム、ドラミングしているんだから!!
このドラミングは、速やかに立ち去れ、という合図だ。
彼らがここにいるということは、つまり――――。
唐突に、爆音のドラムロールが途絶えた。
世界が、ゴリラと静寂に包まれる。
ちなみに、このゴリラ達もこの世のものではない。総勢百を超える、ゴリラ霊の大軍団だ。
生きた者は僕だけ、残るは女とゴリラのオバケ。
生死の条件を抜きにしても、二人対多数でゴリラ圧勝。
何なら家具家電含めても、室内のゴリラ率99パーセント超過である。
大変シュールな光景ではあるけれど――次に起こることがわかっている僕は、笑うどころではなかった。
「…………リョウくぅぅぅん? その女ぁ、だぁぁぁれぇぇぇぇぇ……?」
地獄の底から湧いたような恐ろしい声音と共に、僕を押さえつけたままの女の両足から顔を覗かせたのは――――目に見えるんじゃないかってくらい濃密な殺気のオーラを全身に纏った、悪鬼をも超越せし魔界の大王、いや真・闇ハルカだった。
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