第2話拝啓、水底の君へ
私の店では、メールでも依頼を受け付けている。相談や問い合わせは、むしろメールの方が多いくらいだ。特殊な分野なので、直接店を訪れる前に様子を見たい人も多いのだろう。大事な写真を預けるのだから、慎重になるのは当然のことだ。
しかしそのメールは、いつも届くような内容とは違っていた。
偶然拾った写真を、鑑定してほしいというのだ。
少し幼い印象の文面だが、冗談で送ったようには見えなかった。第一、こんなに地味に営業している店に悪戯をしたって楽しくないだろう。ただ一つ、気になるのは、添付ファイルだ。鑑定してほしい写真の画像だと書かれているが、さて、これは安全だろうか。
「光里ちゃん、さっきから何ぶつぶつ言ってるんだ?」
「ああすみません、声に出てましたか」
「ウイルスがなんとかとか言ってたけど、まだ風邪治ってないのかい?」
「いえ、ウイルスはウイルスでも、コンピュータの方で」
気になったらしく、平志さんが定位置から私のパソコンの前までやってきた。メールに一通り目を通すと、面白そうじゃないか、と言った。
「なるほど、それでこれがその写真か」
「あっ!」
私が止める間もなく、平志さんがファイルを開いてしまった。少し経って、一枚の白黒写真が表示される。私は恐る恐るパソコンに異常がないか確認したが、ウイルスが暴れだした気配はなかった。ほっと息をつく私をよそに、平志さんは早速表示された写真に注目している。
「確かにこいつは古そうだなあ。服装からするに、この女の子はモガだろ?」
モガ、と首をかしげると、平志さんが説明してくれた。大正末期から昭和初期、若者の間で洋装、断髪姿というファッションが流行したという。女の子はモダンガールを略してモガ、男の子ならモダンボーイでモボと略された。
「当時は浮ついてるというか、まあ、良いイメージだけじゃなかったみたいだけどな、まあ若者の自己主張ってところもあったんだろうなあ」
「……あ、思い出した。歴史の教科書で見た記憶があります」
その時代のやや後に生まれた平志さんは、歴史かあ、とショックを受けている。
写真には一組の若い男女が写っていた。女性は平志さんの言うように、目を引く格好だった。ワンピースはひざ丈まであるが、ややタイトで体の線がよくわかる形。ショートボブに、深めで鍔の小さい帽子。アイシャドウや口紅も濃いめだ。男性の方はスーツ姿で、今の時代からすると肩のあたりに違和感があるが、女性ほどの派手さはない。後ろには大きな橋が写っているようだ。
「でもこの二人の服、どこかで見た気がする。このスーツとワンピースの組み合わせ……どこだったかな……」
テレビや雑誌ではなかったと思うのだが、思い出せなかった。
ともかく、写真はまともそうなので、鑑定はできそうだ。私はメールの差出人に、写真を持って店舗に来てほしいと返信した。
次の土曜日、約束の時間に現れたのは、大学生のカップルだった。メールをくれたのは男性の方で、
私と顔を合わせた大地くんは、開口一番、ありがとうございますと言った。
「ほかのところも当たったんですけど、取り合ってくれたのがここだけだったんですよ」
無邪気な笑顔の大地くんの後ろで、環さんが無表情で淡々と言った。
「そりゃ、拾った赤の他人の写真を鑑定してくださいなんて、普通はふざけてるのかと思うわよ」
「……まあ、今までにない種類の依頼だったのは確かですが」
ですよね、と環さんは私の言葉に頷き、ほら、と言うように大地くんを見た。でも、と私は続けた。
「個人的に、ちょっと面白そうだな、と思ったんです。この写真の人達は、どんな人生を歩んできたのか、とか」
ですよね、と今度は大地くんが目を輝かせて言った。
「ロマンがあると思うんですよ。だってこの写真、海で小瓶に詰められてぷかぷか漂ってたんですよ?」
おや、それは初耳だ。何か手がかりになりそうなので詳しく聞きたいと思っていると、環さんが説明してくれた。
「大さん橋のあたりを二人で歩いてたら、この人が見つけたんです。掌くらいの大きさのガラスの瓶が、コンクリートの岸壁に打ち寄せられてて。わざわざ家から虫捕り網を持ってきて、下まで降りて取ったんですよ」
環さんに促され、大地くんがバックパックからその小瓶を出して見せてくれた。日に透かすと小さな傷がいくつか見えたが、ひび割れなどはなかった。きちんと密封されていたから、写真は濡れなかったのだろう。
瓶の口はティースプーンが入りそうなサイズで、蓋は金属だった。元は、ジャムの小瓶だったのかもしれない。
「それから、写真と一緒にこんなものも入っていたんです」
大地くんがカウンターの上に置いたのは、指輪だった。それも、ただの指輪ではない。
「結婚指輪かな……」
二人が、神妙な面持ちで頷いた。
シンプルなデザインであるぶん、あしらわれた一石のダイアモンドが華やかだった。真横から見ると角の丸い長方形で、柔らかい印象だ。
裏側には、「S and Y」とだけ刻印があった。結婚指輪か婚約指輪かわからないが、二人の記念に作られたものであることは確かだ。こちらも特に傷はなく、質屋に行けばこのまま買い取ってもらえるかもしれない。
「でも、入っていた指輪はそれ一つだったんです」
環さんが言った。私も、一つしかないのは気になっていた。
「この写真の二人が夫婦だったとして、どちらかが自分の指輪を写真と一緒に瓶に入れて海に捨てたってことですよね」
捨てたというのはあまりにロマンがない、と反論したのは大地くんだ。
「例えば、結婚する予定だったけど何かの理由でダメになっちゃって、渡せなかった指輪を泣く泣く海に――」
「結局捨てたんじゃない」
大地くんはううと唸った。彼の主張はなんとなくわかるが、環さんの方が口が達者のようだ。
「それはそうと、こんな昔に結婚指輪を贈る風習なんてあったんですか?」
「馬鹿にすんじゃねえやい、とっくにあったに決まってるだろう」
突然嗄れ声が聞こえて、二人はびくりとなった。私は呆れ顔で振り返る。
「平志さん、お客様を驚かせないでください。それに、自分が生まれていない時代のことなんて調べもしない限りわからないですから」
昨日、私が歴史云々と言ったことを、まだ根に持っているのかもしれない。
気を取り直して、写真を見せてもらうことにした。パソコン上では見たが、鑑定するなら実物を見る必要がある。
ところどころ点を打ったように白い抜けは見られるが、破れなどの損傷はない。端の部分のコーティングが剥げ、支持体の紙が少し見えている程度だ。二人の顔も、はっきり確認できる。少し丸まっているのは、瓶に丸められて入っていたからだろう。
私は二人に向けて、まず鑑定の料金を説明した。ただ、二人の希望を聞くと、今回はその上この写真の背景を調べる必要がある。調査にかかった経費を請求する可能性があると私は言ったが、二人はそれを了承した。
「なんか、気になっちゃって。お金なら、バイト代があるんで大丈夫っすよ」
「踏み倒したりはさせませんから」
私は二人の言葉を信用することにした。もちろん契約書にサインはもらうが、彼らが約束を反故にすることはないだろう。
「では、今の時点でわかることをご説明しますね。まず、この写真は『ゼラチン・シルバー・プリント』という種類のものです。その名の通りゼラチンが表面に塗られていて、ゼラチンと一緒に感光材――光に当たると変化する物質――を混ぜています。白黒写真の印画紙としては、現在でも使われているものですね。開発されたのは十九世紀末なので、この写真が撮られた時代を限定するのは難しそうです」
環さんは頷きながら聞いていたが、大地くんは早い段階で理解を諦めたようだった。
「まあ一言で言ってしまえば、この時代ではごく普通の写真です。この二人のことを調べるには、写真に写っている風景やこの指輪のことを調べた方が手っ取り早いかもしれませんね」
例えば、と私は二人の背後に写る橋を指さした。
「この橋は、現在の姿になる前の大さん橋なんだそうです。……そうですよね、平志さん?」
私は振り返って平志さんに尋ねた。平志さんは間違いないと頷く。
「昔横浜税関で働いてた知り合いがいてな、そいつに写真を見せてもらったことがある。明治時代にできた鉄の桟橋は、大正の関東大震災で崩れたが、その後復旧した。写真は、震災前のものだ」
私も少し調べてみたが、橋が復旧したのは一九二五年、関東大震災が一九二三年だった。この写真が撮られたのは、少なくともそれより前ということだ。状態の良い写真ではあるが、レトロ趣味の人が比較的最近撮ったという線も消える。「モガ」が流行した時代より少し前だが、港町の横浜は西洋文化にいち早く触れられる土地だった。すでに流行していた可能性はある。
そしてもう一つの重要な手がかりである、指輪。この元町には、老舗のジュエリーショップがある。もしこの指輪がそこで買われたものだとわかれば、この写真の二人のことがわかるかもしれない。
「少しの間、指輪をお借りしても良いですか?」
大地くんはもちろんと頷いたが、少し考えてから、こう言った。
「あの、これから調べに行くなら、僕も行ってもいいですか?」
私としては特に問題はないので、そう答えた。
「私はパスね。これから用事があるから」
環さんはそう言うと、私に顔を向けた。
「この人が変なこと言ったら、容赦なく蹴っていいですから。弱点は――」
大地くんが弁慶の泣き所を守るように、さっとしゃがんだ。わかりやすいが、そこは人類共通の弱点である気がする。
石川町駅に向かう環さんとは途中で別れ、私は大地くんと一緒に商店街を歩いていた。店番は一応平志さんに任せたが、直接店にやって来るお客さんは少ないので、たぶん大丈夫だろう。
「ここです。今は全国展開していますけれど、始まりはこの元町の店舗からだったそうですよ」
私が店の前で説明すると、大地くんはぽかんと口を開け、そうなんですかと驚いた。
「『ムーン・ジュエリー』なら、僕だって知ってますよ。一度、覗いてみたいと思ってたんです」
早くも本来の目的を忘れそうになっている大地くんを従え、私は店のドアを開けた。
「こんにちは、ちょっとお聞きしても良いですか? この指輪なんですが……」
応対してくれた女性は、私より少し年上といったところだった。客ではない私たちに嫌な顔一つせず、昔販売していた指輪のカタログを持ってきて見せてくれたのだが、残念ながらその中に同じものはなかった。
「これとか、似ているようにも見えますけど」
私はカタログの中の一つを指差して聞いてみたが、ダイヤモンドのカットの仕方が違う、とのことだった。注意深く見ればその通りだったが、一瞬で気づくのはさすがだ。
「こちらの指輪のようなデザインは、エンゲージリングやマリッジリングとしては定番なんです。『
説明を受けながらカタログを見ているうちに、私は致命的な確認ミスに気づいた。この店の創業は一九四六年。戦後だ。写真の時代はもっと前なので、ここで買っているはずがない。私は慌てて謝ったが、販売員のお姉さんは一緒に残念がってくれた。
「時を超えて見つかった指輪なんてロマンチックだと思いましたが、さすがに創業前ではお役に立てませんね」
しかし、この指輪がきちんとしたものだとわかったのは収穫だ。さらに親切なことに、詳しそうな人に聞いてみてくれるという。
「よろしければ、この写真もコピーを取らせてください。この商店街には歴史のあるお店がたくさんありますから、どなたかご存知かもしれません」
店を出た大地くんは、感動したように息をついた。
「元町の人って、みんな優しいですねえ。僕、婚約指輪はここで買うって決めました」
その着地点はともかく、優しい人、温かい人が多いというのは同意見だ。みんな自分の店や商品を愛し、誇りを持っている。だから、自然と親切に振舞えるのだろう。
「彼女には、シンプルな指輪がよく似合いそうですね。細くてきれいな指をしていたから」
私の言葉に大地くんは頷いたが、少し浮かない顔をしてもいた。
「……いや、僕たちそろそろ別れるかもしれないなって思っていて」
「え、そうなんですか? お似合いだと思いましたけど」
初めこそアンバランスに見えたが、掛け合いを見ているとぴったり噛み合っているのがわかった。例えるなら、大地くんがアクセルで、環さんがブレーキだ。
「僕はすごく楽しいんですけど、あっちは無理して付き合ってるのかもって不安なんです。いつも僕がロマンがあるとか夢があるとか言って、環を振り回しちゃうから。でも最近、今日みたいに用事があるってどこかに行ってるんです。それに僕、来年から海外に行くんですよ」
「海外って、遠いところ?」
「フランスだから、遠いっすね」
それは遠いですね、と私は頷いた。私もかつて、音楽の勉強のためフランスの都市に住んでいた。距離も時差もあるし、全く文化の違う異国だった。ただ観光をするだけなら、また行きたいと思ったかもしれない。しかし、私にとってフランスでの日々は音楽漬けだった。それなのに自分の才能に自信を持てず、いつもびくびくしていて、苦痛でしかなかった。
「フランスで、お仕事ですか?」
「料理人の修行です。うち、実家が洋食屋で、最近まで僕は継ぐつもりなかったんです。だから、調理師の学校には行きませんでした。でも、去年親父が倒れて一時休業になった時に、店がなくなることを想像したら、居ても立っても居られない感じで」
気づいたら、料理人以外の道を考えられなくなっていたと、大地くんは言った。
「それに、プロの料理人になって日本に帰って来るって、カッコ良くないっすか? しかもフランス!」
彼のことを、夢見がちで甘いと言う人もいるだろう。でも、カッコいいから、ロマンがあるから、と迷いなく言い切れる彼を、私は眩しいと思った。なんだか、応援したい気持ちにさせられてしまった。
「フランス行きは環も賛成してくれたし、もう修行先も決まったし、頑張りますよ」
ガッツポーズを見せた大地くんは、ところでと私に言った。
「これからどうします? 刑事みたいに写真を持って聞き込みでもしますか?」
さすがにそれは大変そうだ。迷っていると、背後から聞き慣れた声がした。
「あれ、彩野さんだ」
「ああ、洲倉くん。今日は仕事じゃないの?」
「いや、今は昼休みで、午後もあるよ。そういう彩野さんは……はっ! まさか、けっ……」
智陽くんは私たちと、背後のムーンジュエリーを交互に見た。
「違うってば、結婚も婚約もありません。この方はお客様だし、こんな年上が相手じゃ可哀そうよ」
「え、僕光里さんなら全然いいですけど。可愛いし」
「ちょっと! 話をややこしくしない!」
私は蹴りを一発、大地くんの脛にお見舞いした。大地くんが悶絶している間に、智陽くんに事情を説明する。
「瓶に入った写真か。面白いね。でも――」
智陽くんの言葉は、途中から大地くんの大きな声に遮られてよく聞こえなかった。
「お二人に、相談というか、お願いがあるんですけど……」
大地くんは捨てられた子犬のような目で、私たちを見ていた。
大地くんのお願いとは、環さんに贈るプレゼントを一緒に選んでほしい、ということだった。
「あいつに感謝の気持ちを伝えたいと思って。それに、もし別れることになっても、ケンカとかはしたくないから」
そんな風にしおらしく言われては、協力しないわけにはいかなかった。お腹がすいたという智陽くんを「ソトキパン」のミートパイで買収し、付き合わせることにした。
「それで、どんなプレゼントを考えているんですか?」
大地くんは首を捻り、商店街を見渡した。
「何か、オリジナルとか、世界で一つだけ、とかの……」
「じゃあ、時計はどうですか? 少し前にオープンしたお店で、時計部分とベルトの組み合わせを自分で選べるんです」
大地くんはちょっと笑って、予算が、と言った。確かに、万単位になるので大学生には厳しいかもしれない。
「とりあえず、その辺をぶらぶらしてみたらいいんじゃない?」
すでに面倒そうにしている智陽くんが言う。私たちは雑貨店や帽子屋に入って、プレゼントになりそうなものを探した。大地くんが見ているのはどちらかというと可愛いデザインで、リボンがついていたり、淡い色だったりした。それを指摘すると、大地くんはちょっと笑って言った。
「あいつ、ああ見えて可愛いものが好きなんです。家にはぬいぐるみがいっぱいあったりするし。僕が初めて声をかけた時も、レースのついたいかにも女の子って感じのハンカチを落として……」
拾って渡したらずいぶんと無愛想で驚いたと、大地くんは言った。
「でも、それが環らしいんだなって、今は思います。僕は誰に対してもへらへら笑ってるけど、あいつは媚を売らないで、自分に正直に生きてる」
なるほど、彼は彼で、ちゃんと環さんのことを見ているのだ。一見欠点らしいところを肯定するということは、本当に彼女が好きなのだろうと思った。
大地くんはカントリー風の服を着たうさぎのぬいぐるみを手に取って、こねくり回していた。ポケットまで入念に確認しているのは、少し照れているからだろうか。迷っていたが、それは買わなかった。
大地くんが次に足を止めたのは、通りの喧騒からちょっと離れた場所にある、一軒のお店の前。外に置かれた黒板には、「思い出の品、リメイクします」と書かれている。革製品を加工して、鞄や財布などを作っている店のようだ。
私たちが眺めていると、店主らしき髭の男性が出て来てにこやかに言った。
「いかがですか、ランドセルでもペンケースでも、革ならなんでもリメイクしますよ」
「ランドセルもですか?」
「ええ、最近人気なんです。思い出の詰まったランドセルを捨てたくないという方は、結構多いんですよ。こんな風にミニチュアもできます」
店主はショーウィンドウに置いたテディベアを指差した。小さいが精巧な、赤いランドセルを背負っている。
「石川町駅の近くにあるお店で、制服や古着をテディベア用にリメイクされている方がいて、アイデアを拝借させてもらったんです」
そちらも一緒に是非、と商売上手な店主は言ったが、大地くんは結局、その店にあったペンケースを買った。ポケットのたくさんついた、凝ったデザインだった。
歩き出して少ししてから、智陽くんが唐突に大地くんに声をかけた。
「君は、そのポケットに、何を入れようとしてるの?」
大地くんはギクリと足を止め、智陽くんを振り返った。
「な、なんの話っすか?」
明らかに挙動不審な大地くんは、それでもとぼけようとする。智陽くんは詰め寄って言った。
「さっきのぬいぐるみも、ペンケースも、その前に見ていたポーチや帽子も、君はポケットばかり気にしていた」
その指摘に、私も同意した。
「そういえば、ポケットのサイズも気にしていたような……。何かを自分のバッグから出して――」
とっさにバッグの中の何かを隠そうとした大地くんを、私と智陽くんは見事な連携プレーで阻んだ。――そして出て来たのは。
「これって、何かの機械?」
「GPS発信機、かな」
「発信機!?」
私は思わず叫んだ。だって、と私に負けず大地くんも叫ぶ。
「環が僕の知らないところで何してるのか、気になるんですもん!」
さすがにそれはアウトだ。犯罪のにおいがする。
私は大いに呆れたが、一旦冷静になって、大地くんに忠告した。
「もしそれがバレたら、本当に環さんと別れることになりますよ」
「しかも、君は隠し事が下手だから、絶対バレる」
大地くんは肩を落として、そうですよね、と力なく呟いた。
「よし、そんな大沢くんに、とっておきのおまじないを教えてあげよう」
智陽くんはにやりと笑って、大地くんに言った。はっと顔を上げた大地くんを洗脳するように、ゆっくりと言う。
「その発信機を小瓶に入れて、大さん橋から投げるんだ。その時、彼女への強い想いを込めることを、忘れずにね。もし岸に戻ってきたら、君の願いは通じて、環さんは何があっても君のところに帰ってくる」
「わ、わかりました! やってみます」
大地くんは私が止める間もなく、駆けて行ってしまった。
私は智陽くんに、今のは何か、と尋ねる。
「まあ、ちょっとした実験だよ。たぶん彼にとって望ましい結果になるんじゃないかと思うけどね」
ランチの時間を潰された恨みだ、と笑う智陽くんを見て、食べ物の恨みは怖いなあと震えた。
その数日後、私は再び、写真博物館へと来ていた。今日はきちんと受付のおじいさんが起きていて、私もしっかり入館料を払った。
おじいさんに智景くんのことを聞くと、今日はいたかなあと首を傾げた。ということは、常勤ではないのだろうか。おじいさんは内線で智景くんを呼び出してくれて、電話に出るということはいるということだ、とごく普通のことを哲学の名言のように言った。
「僕が来ているのは、木曜日と日曜日だけだよ。彩野さんは運がいい」
今日はちょうど、木曜日だった。確かに、七分の二で当てた私は冴えている。
「でも、展示を見に来たわけじゃないんだね」
「う……すみません」
私は例の写真について意見を聞きたいと思い、ここを訪れたのだった。智景くんはぼそりと文句を言いながらも、写真はきちんと見てくれた。拡大鏡で写真表面を見たり、手袋越しに手触りを確認したりしている。
「色調は灰色で、よく見ると下の方に銀鏡がある。ゼラチン現像紙だ」
銀鏡とは、プリント表面に見られる青味がかった光沢で、ゼラチンシルバープリントにはよく起こる劣化だ。私と同じ判断だとわかり、ひとまずほっとした。
「でも、現像されたのが撮られた年代とほぼ同じだと考えると、劣化の度合いは低い方かな」
白い手袋をした手で写真の裏や四隅まで確認した智景くんは、私にこう尋ねた。
「彩野さんは、この写真がいつ瓶に入れられて海に投げられたと思う?」
「いつって……この写真を撮った時じゃ――あっ!」
気づいた私を見て、智景くんは頷いた。
「ジャムの小瓶のようなものに入れられて海上を漂っていたなら、日光は直接写真に当たるし、気温の変化も激しくなる。でも、それにしてはこの写真は“きれいすぎる”と思う」
「じゃあ、写真はずっとどこかにしまわれていて、瓶に詰められたのは比較的最近ってこと?」
たぶんと智景くんは答えた。
「写真の二人は普通に考えてご存命の可能性は低いけど、写真を海に流した人なら――」
「生きているだろうね」
その人物に会うことができれば、大地くんたちの依頼に応えることができる。雲をつかむようだった話が、少しだけ具体的になってきた。
「ありがとう、洲倉くん! また来るね」
踵を返した私の背に、智景くんが暇なの、と呟いたような気がするが、決してそんなことはない。ただ、ちょっと仕事をここに来る口実にさせてもらっただけだ。
それから数日後、さらに進展があった。ムーン・ジュエリーの販売員さんが、写真について新しいことがわかったと連絡をくれたのだ。
「『キハマ』さん、ですか? 靴店の?」
販売員さんが言うには、そのキハマの靴を写真の女性が履いているということのようだ。直接話した方が早そうなので、さっそくキハマ靴店を訪ねてみることにした。
「写真を見てすぐにピンときましたよ。このフォルムは確実にうちです」
迎えてくれた六十代と思われる男性販売員さんは、自信ありげに眼鏡を光らせた。
「あの、念のためお聞きしますが、こちらの創業は何年ですか?」
「大正六年。西暦で言うと、一九一七年です」
きらりと、また眼鏡が光る。
「さらにですね、この男性がスーツの胸元に付けているバッジは、弊社の社章ではないかと」
販売員さんは自分のジャケットを引っ張ってバッジを示した。写真の解像度では確信は持てないが、似ているような気がする。
「ということは、この男性は『キハマ』さんの社員だったということですね。当時の名簿などは残っていますか?」
残念ながら、と彼は顔を曇らせた。
「どうにか調べられないかと思ったんですが、戦後の混乱のためか、なくなってしまったようで……」
いいところまで来たと思うのだが、あと一歩だった。
でも、この調子でいけば、女性の情報もどこかでわかるかもしれない。どうにか彼らの子孫に繋がれば、会って話を聞くことができるはずだ。
私が足取り軽く自分の店に戻ると、我が物顔でカウンターの向こうに座る洲倉智陽がいた。
「お帰り、彩野さん。ケーキとコーヒーあるよ」
「あるよ、じゃないわよ。何してるの? 暇なの?」
智陽くんは優雅に一口コーヒーを啜り、土曜の午後はオフなのだと答えにならない答えを返してきた。
「ケーキいらないなら持って帰ろうかなー」
「む、それは『
智陽くんがしたり顔になったが、私のプライドよりレモンパイだ。昔懐かしの爽やかなレモンクリームと、絶妙な配分の生クリーム。それらを包み込むしっとりとしたパイ生地。シンプルだが飽きのこない最強のスイーツだ。ちなみにこのお店も、元町発祥で今は横浜駅にも出店している。
「平志さんから聞いたけど、何か進展があったんだって?」
私はレモンパイをいただきつつ、智陽くんに先ほどキハマの店員さんから聞いた情報を話した。
「なるほど、確かにもう一押し何かあれば、わかりそうだね。商店会で、回覧板でも回してみる?」
「それはさすがに私用目的になるから、一軒一軒回るしかないかな。たぶん、関係者はこのあたりに住んでいると思うのよね」
「そういえば、彼から連絡はあった? GPS発信機について」
「うん、海に投げてすぐは沖の方に行ったけど、数日で帰ってきたって」
大地くんはわざわざ電話をかけてきて、これで環と別れずに済む、と喜びを爆発させていた。これで“おまじない”が嘘になったらと思うと責任を感じないでもないが、一番責任のあるはずの智陽くんは、涼しい顔をしていた。
「ふうん、やっぱりそうか」
一人納得していた智陽くんは、再び写真に目を落とした。写真をしばらく眺めて、何やら首をひねっている。
「この二人の服、どこかで似たようなものを見た気がするんだよね。たぶん、この商店街のどこかで」
「え、洲倉くんも?」
私も見覚えがあると言うと、それなら勘違いではなさそうだということになった。
「……よし、探してみよう」
智陽くんは突然立ち上がり、一緒に行こうと私を誘った。
「え、今から? というか、探すのは別に一人でもいいんじゃ……」
「まあ、俺はそれでもいいけどね。……そんなに甘いもの食べて、運動しなかったら太るよ?」
「その原因を持ってきたのは、あなたですけどね!」
まんまと乗せられた私は、テーブルを叩いて立ち上がった。
店を出た私は、智陽くんが最近通った道を一緒に歩く、というよくわからない散歩に付き合わされていた。
「一人より二人の方が目が多いんだから、見落としが少ないじゃん」
それは間違っていないと思うが、レモンパイを食べてすぐなので、ちょっとお腹が苦しい。それでも真面目な性分の私は、きょろきょろと左右の店を見ながら歩いていた。
「この通りじゃない気がする。そこから横道に行ってみよう」
「相田写真館」のある大きな通りではなく、もっと道幅が狭かった気がする、と智陽くんは言った。
一本隣の通りに入るだけで、人の数がぐっと減って、静かになった。店舗の規模も小さくなり、こじんまりしたカフェやレストラン、ブティックなどが並ぶ。
「石川町に行くときはこっちの方が横断歩道渡るのが楽だから、よく通るんだ」
「確かに、私もそうしてる。でも、このままだとその横断歩道に着いちゃわない?」
そこが、商店街の端だ。智陽くんは違ったかなあと自信なさそうに横断歩道のある角に立った。角の店は学校指定制服の販売店らしく、ショーウィンドウに制服を着たマネキンが並んでいる。私は何気なくショーウィンドウに目をやり、“それ”を見つけた。
「智陽くん、見てこれ!」
私が指さしたものを見て、智陽くんも表情が変わった。
「そっか、だからなかなか思い出せなかったんだね」
納得、と私たちは顔を見合わせて笑った。
ショーウィンドウには、あの写真の男女が着ていた服と同じデザインの服を着た、一組のテディベアが飾られていた。
写真を取り出して見比べてみても、そっくりだ。ずんぐりむっくりなテディベアの体形に合わせて作ってあるので、縮尺が違うくらいだろう。
店に入っていくと、頬が赤くふくふくした小母さんがにっこりして言った。私の親世代よりやや上だろうか。
「あのクマさん、気になりました? 最近、注文が増えてきたんですよ」
「注文?」
私はテディベアの横に添えられたプレートを見た。「あなたの思い出の服、リメイクしませんか?」とある。どうやら、着なくなった制服や思い出の服をミニチュアサイズにリメイクして、テディベアに着せるということのようだ。店内には他にも、この近くにある私立校のセーラー服を着ているベアもいた。
「ああ、石川町駅の近くのお店って……」
髭の店主の言葉を、私は思い出していた。彼がアイデアを拝借したという店は、ここのことだったのだ。
「こちらのお店で、ミニチュアを作られているんですか?」
智陽くんが尋ねると、店員さんはそうだと答えた。
「私一人で、半分趣味のようなものだから、そんなに数は作れないけどね」
「ということは、このペアのテディベアの方も?」
私はショーウィンドウを指差し、一緒に写真を見せた。
写真を目にした店員さんは、あらやだ、と口元に手を当てて言った。
「この写真、帰ってきちゃったの?」
長い話になるからと、私たちは店舗の奥にある座敷に上げてもらった。畳とちゃぶ台とテレビ。テレビは薄型だが、いかにも昭和といった感じの落ち着く部屋だった。ちゃぶ台の上には草加せんべいの入ったお皿があり、せんべいに合いそうな緑茶も出てきた。
「あの写真と指輪を海に還したのは、私よ。本当は日本を出てもっと遠くまで行ってほしかったんだけど、うまくいかないわねえ」
つい昨年のことだと、店員さん――
「私の母がね、亡くなる間際に言ったの。そういえば、おばあちゃんとの約束を忘れていたわって。私にとっては、ひいおばあちゃんね。その写真の、女の人よ。旧姓だと
元町で仕立て屋をしていたのだという。彼女は海外に度々出張していた父の影響で海外のファッションに興味を持ち、父のお土産の雑誌などを見て、自分で服を作っていたそうだ。流行を先取りしたこの服装には、そんな理由があったのだ。
「それで、この隣の人は靴職人さん。苗字は知らないけど、ソウイチロウさんという名前だったみたい。今もある、『キハマ』さんに勤めていたの。曾祖母の、婚約者だった。……でも、二人が結婚することはなかったわ」
宮江さんは一旦話を区切り、お茶を啜った。
「ソウイチロウさんは、靴づくりの技術を学ぶため船でヨーロッパに向かったの。その当時は、横浜と欧州を結ぶ定期航路があったのね。そして修行を終えて帰国する途中、乗っていた船が沈んで亡くなってしまった。ドイツ帝国の潜水艦の攻撃を受けてね」
「ドイツの? ええと、それは大正時代の話ですよね……」
第二次世界大戦の前だ。そのころの世界情勢がどうなっていたか、残念ながら記憶をひっくり返してもわからなかった。
「そのころは第一次世界大戦のさなかですね。もしかして、ソウイチロウさんが乗られていたのは、『
感心したように、宮江さんは目を丸くして智陽くんを見た。
「確か、第一次世界大戦中に撃沈された日本の商船で最も多くの被害者が出たのが、平野丸ですよね。小学生の時に、横浜の歴史で出てきたと思います」
智陽くんがさも当然のように言うので、私も適当に頷いておいた。
「そういうわけだから、二人は結婚できなかったの。曾祖母は別の人と結婚し、子供を産み、百歳近くまで生きたわ。若かったころのことはあまり人に話さなかったようだけど、私の母には時々ソウイチロウさんのことを話していたみたい。それで、大事にしまった写真と指輪を、母に見せてくれたんですって」
「その写真と指輪を海に、というのが、約束だったんですか?」
「ええ、彼の指輪はきっと、彼と一緒に海に沈んでいると、曾祖母は思っていたみたい。だから、同じ海を漂っていればいつか再び巡り合えるんじゃないかって、思ったんでしょうね」
戻ってきちゃったけどね、と宮江さんは舌を出して笑った。
五月晴れの眩しい青空の下、私は宮江さんや大地くん、環さんと共に、鶴見駅近くのお寺を訪れていた。ここの境内には、平野丸を含む貨客船の沈没による犠牲者を弔うための、慰霊碑がある。私は全く知らず、宮江さんも聞いていたが実際に来たことはなかったという。
「一枚の写真と一つの指輪からここに繋がるなんて、なんだか壮大ですね」
慰霊碑を前に、環さんが言った。
「だから言ったじゃん、ロマンがあるって」
勝ち誇ったように大地くんが言い、今回ばかりは環さんも、そうねと答えた。
「ありがとうね、あなたたちに拾ってもらえて良かったわ」
宮江さんは二人にぜひ会いたいと言っていたが、一番に伝えたかったのは感謝の気持ちだったのだろう。二人も、宮江さんの口から真実を知ることができて感激していた。
「あの、それで、僕ちょっと考えたんですけど……」
珍しく少し緊張したような面持ちで、大地くんが言った。
「僕、来年からフランスに行くんです。ここよりずっと、船が沈んだ場所に近いところに。だから、その写真と指輪、僕が持って行って、海に流したらどうかなって……うわっ」
大地くんが驚いた声を上げたのは、宮江さんが感極まって抱き着いたからだった。
「素敵! それがいいわ!」
大地くんは照れたように、へへ、と笑った。
「なんか、この写真に写った人たちが、他人と思えないんですよね。今の時代はずっと楽に行き来できるけど、やっぱり一人で外国に行って修行するとか、彼女を残して国を離れることとか、同じ気持ちだったんじゃないかなあって思うんです」
そう言って、ちらりと環さんをうかがう。環さんはぷいっと顔を背け、早口で言った。
「悪いけど、私は大人しく待ってるのはガラじゃないの」
「……へ?」
「鈍いわね、ついて行くって言ってるの! 弱気になったら蹴って発破かけてやるんだから」
大地くんはしばらく呆然とした顔になり、すげえ、と呟いた。
「光里さん、GPSのおまじない、半端ないっすね!」
「いや、その話はしない方が……」
私は慌てた。案の定環さんが、訝しげに言う。
「GPS? 何のことよ」
「うーんと……環、大好き!」
「ちょっと、今何か誤魔化したでしょ。やめてってば!」
今度は大地くんが環さんに抱き着いたが、環さんの方は恥ずかしいらしく暴れている。肩に掛けていたトートバッグから、荷物が零れ落ちた。
「ん? これ、教科書? フランス語基礎……」
大地くんが拾い上げた本のタイトルを読み、首を傾げた。そして、何かに気づいたみたいに、大きな声を上げた。
「もしかして、最近用事があるっていなくなってたのって……」
環さんは赤面して、大地くんからテキストをひったくった。
「そうよ、語学教室に通ってたの。……あーもう最悪! 内緒にしておこうと思ったのに」
目を潤ませている大地くんに、私は良かったですねと声をかけた。別れるなんてとんでもない。二人とも、お互いのことが大好きなのに。誤解しなくて、本当に良かった。
「あらあら、いいわねえ」
宮江さんが孫を見るような優しい目で、二人を見つめていた。
いつか、私もこんな風に、お互いを思いやれる関係を築けるだろうか。そんな人に、出会えるだろうか。二人を見ていたら、少しうらやましくなった。
新緑が風に香る、初夏。爽やかな希望が、私の心を吹き抜けていった。
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