横浜元町 写真修復工房

小松雅

第1話始まりの再会

「――こちらで、いかがでしょうか」

 私はお客様の前に、依頼された品を置いた。いつも、この瞬間が最も緊張する。期待以上だと目を輝かせる方、まあこんなものかなと妥協を顔に浮かべる方、様々だ。

 今回は、と三十代前半に見える女性のお客様をこっそり窺った。

 ねえ、と話しかけられて、私は慌てて姿勢を正す。

「この写真の私たち、本当に楽しそうに笑ってるわよね」

 私は写真を覗き込み、お二人とも素敵な笑顔ですと頷いた。

「何かご要望があれば、修正いたしますが……」

お客様の意図を図りかね、私は尋ねたが、彼女は小さく首を振った。

「いいえ、もう十分よ。元の写真より良いんじゃないかってくらい。よくあの写真が、ここまで修復できたわね」

私は控えめに、ありがとうございますと答えた。

彼女に持ち込まれた写真は茶色の染みが付き、さらに濡れたまま重ねられたのか一部が剥がれていた。デジカメで撮ったものだがデータは残っておらず、プリントアウトし直すこともできなかった。

「お預かりしたお写真を、パソコンで取り込み、デジタルデータに変換してから修復したんです。お顔の部分にかかっていた染みは、かなり薄くなったと思います」

 お客様は私の説明に頷き、安心したように息をついた。

「これしか残っていなかったから、良かったわ。プリントアウトした写真は捨てちゃったし、データも勢いで消去しちゃったのよ」

 私が首をかしげると、お客様は思い出し笑いのように吹き出した。

「私の隣に写っている子はね、もうすぐ結婚式を挙げるの。私の大学時代の親友。それでね、相手は大学時代私の彼氏だった人」

「それは……」

 何と答えたものか、と困っていると、お客様は馬鹿よねえと過去の自分を笑った。

「彼とはもう別れようかな、なんて言っていたのに、いざ彼がこの子と付き合いだしたら裏切られたみたいに思っちゃって。それで、絶交よ。ひどいことをいっぱい言ったわ。この泥棒猫! とか」

 昭和じゃないんだから、とお客様は笑い、私も小さく笑った。

「だから、もう許してもらえなくても仕方ないって、諦めてたんだけど。……招待状が、来たの。仲直りしてくださいって、メッセージが添えてあった。全部私が悪いのにね」

 お客様は写真に写る友人の姿を、ほっそりした指でなぞった。

「この写真が元通りになったら、結婚式に出席しようと思っていたの。この子の写真をみんなから集めて、アルバムを作って、渡そうって。言い出しっぺの私が写真を持ってないんじゃ、格好がつかないでしょ?」

 だから良かったと、お客様は目を潤ませた。

「ありがとう、あなたのおかげで、あの子を祝福できるわ」

「――私はただ、自分の仕事をしたまでです」

 私は頭を下げ、店を出るお客様を見送った。

 私の仕事。それは、写真修復師だ。資格が必要なわけでもなく、勝手に名乗っているだけだが、その名の通りご依頼のあった写真の修復を行うことを仕事にしている。

携帯電話一つで高解像度の写真が撮れる現代で、わざわざ写真を修復する意味なんてあるのかと私自身も半信半疑だったが、案外、依頼は多い。昨年の春に開業して、インターネットでの依頼も含めれば、当初の予想を上回る需要だ。

 その理由が、最近おぼろげながらわかってきた。写真の修復とは、単純な「物」の修理とは違うのだ。たった一枚の写真を手にやって来る人達は皆、写真を通して、思い出を見ている。それはほかのものでは代用が利かない。手軽に写真が残せる時代だからこそ、残しておきたい大事な写真も多いのだ。

 不意に、店の奥からコーヒーの香りがした。振り返ると、給湯室からオーナーのへいさんがカップを二つ手にしてゆっくりと出てくるところだった。私はその一つを、お礼を言って受け取る。

「しかし、結婚式に元カノを呼ぶなんて、新郎はヒヤヒヤするだろうなあ」

先ほどのやり取りを聞いていたらしく、平志さんはそうぼやいた。

「平志さん、元カノなんて言葉ご存じなんですね」

正確な年齢は聞いていないが、もう八十は超えているはずだ。足腰も頭もしっかりしているので、見た目はもっと若い。話していてもあまり年齢差を感じないのは楽だが、少々口が悪い。平志さんはにやにやしながら、式の途中で乱闘が起きるかもしれないぞ、と言った。

「さっきのお客様と新婦様のですか? そんなことないと思いますよ。女の友情の方が、恋愛より長続きしますもん」

「それは、光里ひかりちゃんに彼がいないからだろ?」

本当に口が悪い。

「ほらほら、オーナーは定位置に戻ってください。私と違って、暇だと思いますけど」

平志さんはチェっと舌打ちして、定位置――昔ながらの写真機の脇に置いた、深緑色のベルベットの長椅子――に腰を下ろした。

平志さんはベテランの写真技師だ。ここは昨年まで写真館で、彼が一人で店を切り盛りしていた。しかし時代の流れと共に個人経営の写真館は廃れていき、そろそろ限界というところまできていたらしい。数年ぶりに地元に帰ってきた私が目にしたのは、平志さんが閉店を知らせる紙をドアに張り付けている姿だった。

――お店、閉めちゃうんですか?

 「相田あいだ写真館」は、私にとって思い出の詰まった特別な場所だった。七五三や入学式、成人式……。記念写真は、すべてここで撮っていた。それがなくなってしまうなんて、と私は平志さんと並んでしょんぼりした。

――何かの縁だ、あんた、ここで何か店やらないかい?

 すべては、偶然とあまりに適当な平志さんの思いつきから始まった。でも、今にして思えば、なかなか良い縁だったと思う。海外から戻ってきて、地元でのんびり働きたいと思っていた私にとっては、渡りに船だった。私は店の一部を格安で借りて写真修復師としてスタートを切ることができ、平志さんは店賃と私の売り上げの一部を主な収入として、今まで通り写真機材に囲まれながら過ごせる。少々誤算だったのは、子供のころ陽気なカメラマンだと思っていた平志さんが、割と面倒くさい人だったということくらいだ。

 時計を見上げると、そろそろお昼時だった。平志さんはカップ麺派なので、私は大抵外に出て、好きなものを食べることにしている。今日は商店街のどこまで行こうか。元町にはおしゃれなイタリアンから純和風の蕎麦屋まで、あらゆるジャンルがそろっている。

 ぼんやりお昼のメニューに思いを馳せていた私は、ドアベルの音で我に返った。慌てて入り口に向き直り、いらっしゃいませと声をかける。

「あの、写真が汚れてしまって……元通りになりますか?」

 女性が慌てた様子で、手に持っていた写真をカウンターの上に置いた。インスタントカメラで撮られた写真だ。ところどころ濡れて、泥がはねたような跡もあった。

「電子データに変換して修復もできますが、この写真そのものをきれいに、ということですね?」

 女性は先を促すように、何度も頷いた。私は少し考えてから、彼女に言った。

「できるだけ写真を傷つけずに汚れを落とすよう、最大限努力いたします。でも、写真を完全に元通りにする、魔法のような方法はないんです。多少の汚れは残るかもしれませんが、それでもよろしいですか?」

 女性はややがっかりした様子だったが、多少でもきれいになるのなら、と言った。

「私の不注意で水たまりに落としてしまったので、仕方ありません。でも、大事な写真なんです。できる限りで良いので、お願いします」

 どうやら急ぎの用があるらしく、彼女は連絡先の書いた名刺を置いて、早足で店を出て行った。

 ランチタイムはもう少し先になりそうだ。私は濡れた写真を手に、店の奥に作った作業場に向かった。

じっくり見るまでもなく、インスタントカメラ、有名なポラロイド社のカメラで撮られた写真だとわかった。フィルムと現像液がセットになっているので、その場で現像できるタイプだ。いくつかの種類があるが、これは最も一般に普及している、自己現像方式のフィルムである。撮った画像が浮かび上がる部分に感光剤が塗布されていて、シャッターを押すとここに光が当たる。その後フィルムはカメラの外へ押し出されるが、その際にフィルム下部に内蔵された現像定着液入りの袋が押し潰され、感光した部分に広がる。その後少し待つと、写真が浮かび上がる仕組みだ。過去にブームになったが、その手軽さやデジカメにはない色調から、また小さなブームが来ているらしい。ただ、その構造上、同じ写真をプリントアウトし直すことはできない。それに、汚れを落とす上で一番の問題は、写真全体を水に浸せないことだ。そのまま浸すと、現像液が入っていた袋部分から水が入ってしまう。

 私はゴム手袋をはめ、ぬるま湯を張ったトレイにタオルを浸し、固く絞った。乾きかけてこびりついていた泥を、写真の表面を傷つけないよう濡れタオルでそっと落としていく。汚れてからまだあまり時間が経っていなかったらしく、目に見える汚れはほとんどなくなった。

 汚れを落とし終えたら、タオルで水気をふき取る。最後に、写真を洗濯バサミで挟み、吊るした。急速に乾燥させると写真が反ってしまうこともあるので、自然乾燥だ。

「大事そうにしていたから誰が写ってるのかと思ったら、ただの風景だな」

 後ろから私の作業を眺めていた平志さんが、首をひねって言った。

「しかもここ、外人墓地だろ? こんなところで撮ったら、ゾッとしないものが写りそうじゃねえか」

 横浜外国人墓地は、この店のある商店街から坂を上った先にある。その起源は江戸時代、ペリー来航まで遡る。ペリー二度目の来航の際、彼が率いる艦隊の一員として来日した、若いアメリカ人水兵が亡くなった。ペリーは彼の埋葬地とアメリカ人用墓地を、「海の見える地」という条件付きで要求したという。今では墓地というより観光地のようになっていて、敷地内には資料館も作られている。墓参りに訪れる人はあまりいないかもしれない。

 撮影場所はその墓地の中らしく、左右に墓石が並んでいた。日本の墓地とは違い、十字架を立てた墓や、聖書の一節が刻まれた丈の低い墓石など、墓によって様々だ。キリスト教では、決まった墓石の形は特にないと、どこかで聞いたことがあった。

「でもほら、手前に影が二つ、写ってますよ。これ、人が二人いたってことじゃないですか?」

 写真の下部に、黒い影が並んでいる。その脇には、かわいらしい薄紫色の朝顔が咲いていた。

確かに、ちょっと気になる写真ではある。しかし、預かった写真について詮索をするのは、お客様に失礼だろう。この写真があのお客様にとって替えのきかない大切なものであり、私は写真の修復を粛々と進める。それ以上のことは必要ない。

 私は頭を切り替え、今度こそランチに出かけることにした。


 店の外に出ると、分厚い雲が見えた。そういえば、夕方から雨だと天気予報で言っていた。今の気分はパンを買って港の見える丘公園で食べたいところだが、天気は保つだろうか。

私のお気に入りのパン屋さん、「熊の手ベーカリー」は、山手の方へ延びる坂の途中にある。商店街のジュエリーショップの向かい、イタリアンレストランと靴屋さんの間の道を入り、上った先だ。ドールハウスのような可愛いらしいお花屋さん、レザークラフトの工房の前を通り、この先にお店なんてあるのだろうか、と不安になってくるあたりで、ようやくお店のロゴが入った控え目な旗が、道の脇に見えてくる。

ドアを引くと、途端にパンの焼けた香ばしい匂いがした。

「あら、相田さんのとこの。いらっしゃい」

ちょうど焼き立てのピザを並べていた店員さんが、振り向いて言った。人気店なので当然お客さんの数も多いが、こうして覚えてもらえると、常連だと認めてもらえたみたいで嬉しい。

この店のパンはなんでも美味しいと思うが、私のイチ押しはベーグルだ。お店の代名詞「熊の手ベーグル」は、その名の通り熊のように大きくて、焦げ茶色だ。黒パンに使われるライ麦に小麦を混ぜた生地はほどよい弾力で、噛みしめるほどに穀物の風味が口の中に広がる。一個食べるとお腹いっぱいになるが、ついつい食べ過ぎてしまうのだ。

私はベーグルとバゲットのサンドイッチを一つずつ、明日の朝食用にフォカッチャを一つトレイに載せて、レジに持って行った。

「ご一緒に、キャロットケーキはどう?」

「うう……食べたいですけど、また今度で」

 レジのところにある冷蔵ケースに並ぶキャロットケーキも、この店の人気商品だ。ニンジンの甘みとシナモンが癖になるし、上に乗ったクリームチーズは爽やかなのにクリーミーで、これまた食べ過ぎの危険大である。さすがに毎週食べていたら確実に太る。今回は泣く泣く断った。

 パンを手に幸せな気分で坂を上っていると、ついにぽつぽつと来た。このまま降り続くなら、駆け下りて店に戻るべきだったと思う。でもこの時の私は空腹で判断力が鈍っていたらしく、走って公園に行くことを選択した。とりあえず港の見える丘公園に着けば、雨宿りできる屋根付きのベンチがある。

 公園の入り口に差し掛かったころには、雨はぼとぼとと大きな雫になっていた。私はお腹にパンを抱えて守りながら、ベンチを目指した。

 ベンチには、先客がいた。この天気で奇特な人がいるものだと、自分のことを棚に上げて思う。見た目から、そこそこ若い男性だろう。こちらに背中を向けているので、実際のところはわからないが、隣に熊の手ベーカリーの袋が置かれているのを目にして、悪い人ではないと判断する。

 ともあれ、私はベンチのある屋根の下にたどり着いて、一息ついた。羽織ってきたカーディガンはところどころ濡れて、水玉模様だ。髪も湿っている気がする。

 私は先客の男性から少し離れたベンチに、パンの入った袋を置いた。幸い、風はなくベンチまで雨は降りこんでいないようだ。腰を下ろし、何気なく男性の顔を見た。

「あ……」

 思わず声を上げた私を振り返った彼は、今まさにサンドイッチを食べようと口を開けたところだった。

くら……智景ちかげくん?」

 開けた口をいったん閉じた彼は、こくりと頷いた。

 洲倉くんは、高校時代の同級生だ。一年生の時、同じクラスになった。私にとっては強い印象を受けたクラスメイトだったが、彼の方は私のことなんて覚えていないかもしれない。私は慌てて、口を開いた。

「えっと、私、高一の時――」

あやさん」

 その一言だけで、彼が私の顔と名前を記憶してくれていたことがわかった。思い返してみれば、高校の時もこんな風に言葉少なな人だった。そのくせ素っ気ないようにも聞こえないから、不思議だ。

「高校卒業して以来だから、十年ぶりくらい? こっちに戻ってたんだ」

洲倉くんはまたこくりと頷き、都内の芸大を卒業して、また地元に戻ったのだと言った。芸大の写真学科に進んだことは、私も噂で聞いていた。高校当時から、彼は全国コンクールで賞が取れるほど写真の才能があり、注目されていたのだ。

「写真、今も撮ってるの?」

「時々」

 プロのカメラマンなのかと尋ねれば、一応、という答えが返ってきた。

「あとは、写真博物館の学芸員」

「……写真、博物館?」

 聞き慣れない言葉を繰り返すと、山手にそのような博物館があるとのことだった。洲倉くんは今日、その学芸員として働いていて、今は昼休憩中だという。

 洲倉くんは説明を終えると、私をちらりと見た。眼鏡の奥の澄んだ目が、そっちはどうなのか、と問いかけているようだった。私はできるだけさらりと、笑みを浮かべて言った。

「実は私もね、写真関係の仕事をしてるの。元町商店街の、『相田写真館』を一部借りて、写真修復師をやってます」

 何か言いたげに洲倉くんの口が動いたように見えて、私は先回りして言った。

「……音楽は、もうやめたんだ」

 そう、という返事があった。それから、私がベンチに置いた袋を見て、言った。

「それ、食べないの?」

「あ、そうだね。ごめん、お昼の邪魔しちゃって」

「……別に」

 へらりと笑う私に短く答えると、洲倉くんは今度こそサンドイッチをほお張った。私もバゲットサンドにかぶりつく。レタスがシャキッと良い音を立てた。

 私は黙々とパンを咀嚼しながら、ベンチから見える景色に目をやった。天気が良ければ、日の光を浴びて輝く海とゆったり進むコンテナ船を見下ろすことができるが、今日はあいにくすべてにもやがかかっている。雲の上から透かし見ているかのようだった。

 さらに残念なことに、雨が止む気配はなかった。先ほどのような大粒ではないが、しとしとと静かに降り続いている。店まで走って戻るほかないだろう。

「彩野さん、まだ時間ある?」

 几帳面にサンドイッチの入っていた袋を折りたたみながら、洲倉くんが言った。私は腕時計を見て、少しなら、と首を傾げつつ答える。

「じゃあ、見に来る? 写真博物館」

ベンチに立てかけてあった傘を手に、洲倉くんが立ち上がった。


小さく入り組んだ路地を、時には上り、時には階段を降り、私たちは歩いていた。洲倉くんのさす傘は大きく、二人入ってもどちらかの肩が濡れることはなかった。

港の見える丘公園の前にある通りを少し行った先から、外人墓地の向かいにある、横浜地方気象台の方へ折れた。そのあたりまではわかったが、それ以降は未開の地だった。土地勘があるので大体このへんかな、という感覚はあるが、帰りのために道を覚えるのに精いっぱいだった。

「こんな場所、あったんだ。知らなかった……」

 こんもりとした森の中、突如現れた二階建てのレンガ造り。塀はひび割れ、蔦が絡まっている。ところどころ補修した跡は見えるが、建てられたのはかなり昔のようだ。

「ここが博物館になったのは、五年前だから。明治時代にイギリスから来日した写真技師が住んでいて、その後も子孫が別荘代わりに維持してたんだけど、それも大変になって手放したって」

 明治と聞いて、それならばこの見た目でも仕方ないと思った。むしろ、よく残っていたなあと思う。

 入り口は白いドアが開け放たれていた。ドアの内側にあたる部分に、料金表があった。大人三百円、子供百五十円。入ってすぐのところに、舟を漕いでいるおじいさんが座っていて、恐らくそこが受付なのだろうが、洲倉くんは唇に人差し指を当て、静かに通り過ぎるよう、私に指示した。無料で良い、ということだろうか。

「そんなに時間ないし、誘ったのは僕だから」

 洲倉くんは傘の水を払い、傘立てに置くと、奥の部屋へと私を促した。

 その部屋には、カメラが並んでいた。赤いじゅうたんに金の縁のショーケースが置かれ、その中に守られるようにして飾られている。部屋の入り口にあるのは、現代のカメラ。一眼レフ、と呼ばれるものだ。今日のお客様が使ったという、インスタントカメラもある。それぞれのカメラの横に、そのカメラで撮られた写真も展示されていた。

「もしかして、段々時代をさかのぼっていくの?」

 私が小声で尋ねると、そうだと洲倉くんは言った。

 部屋の奥に向かうにつれ、カラーからモノクロへ、鮮明な像は濃淡がぼやけていく。一見してカメラとわかる形から、最終的にただの四角い箱に丸い穴を開けただけのものに変わった。

「これが、世界最古の写真とされている、『ル・グラの窓からの眺め』のコピー」

 一八二七年に、フランスのニエプスという名の発明家が撮ったものだと説明が書かれていた。

 しかし、かろうじて屋根のような像が黒く見えるばかりで、風景そのままを切り取ったようには見えない。焼かれて黒くなった、金属の板という感じだ。

 でも、この発明が生まれて、世界は確実に変わった。

「この瞬間から人類は、時を止める技術を手にしたのね」

「……まあ、大げさに言えば」

 私は素直に思ったままを発言したというのに、洲倉くんはすっと視線をそらした。学生時代”ポエマー”とよくからかわれたが、またやってしまったらしい。

「こ、この支持体は、金属を使ってるの?」

 一応写真を扱う者の端くれとして、少しは専門的なことを聞いておこうと、私は言った。

 写真には、古いものも最新のものも、支持体と呼ばれる層がある。写真は層構造になっていて、基底部にある最も厚みのある層が支持体だ。支持体の上にはバインダーというゼラチンや卵白などの層があり、ここに画像を形成するための材料が含まれている。広く浅く学んだ私の知識によれば、支持体には金属やガラスのほか、布や紙も使われていたはずだ。ちなみに、現代のネガフィルムは、プラスチックが支持体である。

洲倉くんの目が、きらりと光ったような気がした。

「これは、ピューターが使われているんだ。大雑把に分類すると金属だけど、日本語では白蠟しろめといって、スズを主成分とする低融点金属のこと。でも、感光性が低いから、支持体としてはあまり広まらなかった」

 少し早口で説明する彼を見て、写真が本当に好きなのだと思った。

 次の部屋には、国内の古い写真が展示されていた。日本人が撮影した最初の写真は、島津斉彬の肖像で、一八五七年のことだった。ピューターを支持体とする「ヘリオグラフ」ではなく、「ダゲレオタイプ」という技術で撮られたものだ。銀メッキをした銅板を感光材料として使うことで、露光時間が大幅に縮まった。

このころ、イギリスでは既に現代に通じる「ネガポジ法」が生まれていた。つまり、一つのネガから、焼き増しができるようになったということだ。

「写真の進化って、早いんだね」

 あの影を切り取ったような風景写真から五十年以内に、人の顔が判別できるだけの鮮明な写真が登場している。

「そういえば、彩野さんは日本初の写真館がどこにできたか、知ってる?」

「どこだろう……? 外国の技術だから、出島があった長崎とか?」

「横浜だよ。ただし、それはアメリカ人写真師が開業したものだった。横浜港が開港して、写真技師もアメリカから来たんだ。日本人による写真館が誕生したのは、彩野さんの言った長崎と、横浜がほぼ同時期。だから横浜は、商業写真発祥の地、といわれている」

「へえ、そうなんだ……」

 次々と耳に入ってくる新しい知識に、いつしか私は夢中になっていた。鼻筋の通った横顔と、考えるときに少し口を尖らせる癖を盗み見ながら。

 できるならばしばらく話を聞いていたかったが、昼休憩はそろそろ終わりだ。私はお礼と一緒に、楽しかったと伝えた。

「なんか、高校の時を思い出しちゃった。図書室で、一回だけ写真の話したよね」

 私は浮き立った気分で言ったが、洲倉くんは戸惑うように視線をさまよわせた。途端に、楽しかった気持ちがしぼんでいくのがわかった。慌てて、ごめん、と口にする。

「そんな昔の、しかもたった一回のことなんて、覚えてるわけないよね。気にしないで――」

「違う」

 まくし立てる私に、洲倉くんは今日聞いた中で一番大きな声で言った。

「そうじゃなくて、その、覚えてないのは確かだけど、本当なら忘れてないはずで……」

 洲倉くんは必死な様子で、何かを伝えようとしていた。上げた顔とまともに目が合って、ドキリとする。

「記憶が、ところどころ、ないんだ。二年前に、高いところから落ちて、頭を打ったせいで」

 それはつまり、一般的に言うところの。

「記憶喪失……?」

 申し訳なさそうに、洲倉くんは頷いた。

「ほかのところは、大丈夫だったの?」

 見たところ、手足に不自由はなさそうだった。

「今のところ、問題ない」

 それは良かったと笑顔を見せると、洲倉くんは少しほっとした様子だった。気にしないで、と再度言ったが、またごめんと謝られてしまった。彼のせいではないのに、と私は歯がゆい気持ちになる。

「……帰り道、わかる? あと、傘を――」

大丈夫と答えて、私は出入口へと向かった。受付のおじいさんはまだ舟を漕いでいて、私はその横を通り過ぎた後で、小さく呟いた。

「もう、一生思い出してもらえないのかな……」

 それはちょっと、悲しいかもしれない、と鼻の奥がつんとした。


 一度だけ、図書室で話したあの日。外は雨が降っていて、たぶん年明けだった。先生の都合で自習になって、図書室で勉強しても良いとお達しがあり、私は一人で図書室に向かった。はじめは真面目に問題集を解いていたが、そのうち飽きてしまって、私はぶらぶらと本を眺めながら棚の間を歩いていた。その時ふと、テーブルの端に開いて置かれた本が、目に入った。

 本は大判で、つやつやした紙に印刷されていた。何が書かれているのだろう。気になって近づくと、そこには文字ではなく写真が載っていた。モノクロの、やたらと輪郭のはっきりした写真だった。何か、特殊な加工をしているのだろうか。どこかに説明書きがないかと探していると、後ろから話しかけられた。

――その写真、気になる?

 私がびくりと肩を震わせたからだろう、洲倉くんは驚かせてごめんと謝った。

――ううん、こっちこそ、勝手に見てごめん。きれいな写真だな、と思って。

 私の言葉に、洲倉くんは微笑んだような気がした。それから、この写真はこういった技法で撮られて、と説明してくれた、と思う。申し訳ないが、その内容は覚えていない。

 ただ、最後に話していたことだけは覚えている。

――この写真を撮ったカメラマンは、色覚に異常があるんだ。赤い色がくすんで見えるから、“本当の赤”がどんな色か知らない。――僕と同じなんだ。

 私は突然のカミングアウトに、そうなんだ、とだけ答えた。洲倉くんはまた少し笑って、

――家族以外に話したことなかったのに、不思議だな。

 と言った。

 それは、私は特別ということですか、と聞けたなら、恋が始まっていたのかもしれない。でも、続きは何もなかった。セピア色の、きれいな思い出になって、私の記憶の箱にしまわれた。そして私以外の手では、もう二度と開くことはないかもしれない。

 そう思うと、やっぱり悲しいなあと、私は坂を下りながら思った。救いは、まだ霧雨がしとしと降っていることだった。


 公園までの道と、霧雨の中。雨に濡れて体が冷えたせいか、私は風邪をひいてしまった。熱が出て、喉が腫れ、体がだるい。典型的な症状だ。平志さんに仕事を休むことを連絡すると、早めに病院に行けと言われた。

 昨年こっちに戻ってきて、少し熱っぽいくらいのことはあったが、ここまでしっかり風邪をひいたのは初めてだ。私は体を引きずるようにして、山手にある病院に行った。「藪中やぶなか医院」という名がやぶ医者っぽくて少々不安だが、一番近い内科がそこなので、仕方ない。

 病院はそれなりに繁盛しているらしく、三十分ほど待たされて診察室に呼ばれた。

「あ、彩野さんだ。久しぶりー」

 ひらひらと手を振ってきた白衣姿に、私は本気で風邪による幻覚を見ているのかと思った。

「洲倉くん……?」

 洲倉智景には、写真の才能以外にも、普通の人とは違う要素があった。彼は一卵性双生児で、兄弟は同じ高校に通っていた。智景は弟。兄が、今目の前にいるはるだ。そういえば、彼らのお父さんは医者だと聞いた気がする。

「少し前に、智景と会ったんでしょ? そのうち会えるかと思ってたけど、こういう再会の仕方はちょっと意外だったなあ」

 にこにこと喋る彼は、見ての通り弟と全く性格が違う。誰かが写真に引っ掛けて、智陽がポジで智景がネガだ、などと言っていたけれど、うまい表現だと思う。

「はい、今日は熱と喉の腫れ、倦怠感と。じゃあまず口を開けて喉を――」

「チェンジ」

「……はい?」

「チェンジでお願いします」

 言い訳をするならば、私は熱に浮かされたせいで、妙にハイなテンションだった。普段は――病院に来る以上、具合は悪いだろうがそれでも――こんなことは言わない。

「いや、そんなホストクラブみたいなシステムないし、そもそも今日は俺しかいない日で――」

「ホストみたいな見た目してるくせに!」

「見た目関係ないし! っていうか俺悪くないのに怒られてて理不尽!」

 ヒートアップしかけたその時、私の肩に冷やりとした手が置かれた。恐る恐る手の方を振り向くと、いかにもベテランの看護師さんが、笑顔で言った。

「先生は患者さんたちにいつも男前で優しいって言われてるじゃないですか」

 看護師さんはさらに笑顔を深め、私の肩には力が込められた。

「患者さんはまだ、たーっくさんお待ちです。お分かりですね?」

「……はい、すみませんでした」

 そうして私たちは、看護師さんの監視の下、ただの医者と患者として会話をした。高校の同級生に口の中を覗かれ、聴診器で心音を聞かれるのはなかなかに複雑な気分だったが、たぶんあちらも気まずかっただろう。

 病院でのやり取りのせいでいったん熱は上がった気はするが、もらった薬を飲んで休んでいたら、一日でほぼ治ってしまった。とりあえず、洲倉兄はやぶ医者ではなかった。

 

 風邪は治ったはずなのだが、私はどうにも仕事に集中できなかった。お客様が来れば雑念は追い払われるのだが、パソコンで作業をしていたりするとだめだ。いつの間にか手を止めて、店のドアの方を何度も見てしまう。

「光里ちゃん、まだ治ってないんじゃないか?」

 いつもと違う様子の私を見て、平志さんが心配そうにしていた。もう熱もないので大丈夫、と答えるが、やっぱり落ち着きがなく、結局心配させている気がする。

 理由はわかっていたのだが、平志さんには話しづらかったし、自分でもうまく説明がつかなかった。

 洲倉くんと再会した時のことを、つい思い出してしまう。雨の降る公園、傘に入れてもらったこと、写真博物館で展示を眺めたこと。アルバムをめくるように、記憶をたどる。あの日からそれがずっと、続いていた。

 そして、私は期待していた。彼がこの店に、立ち寄ってくれるんじゃないか。プロの写真家が私を頼ることなんてないだろうけれど、買い物か何かのついでに寄ってくれたら。恥ずかしながら、そわそわしているのはそんな妄想のせいだ。

ドアベルの音がして、私は反射的にいらっしゃいませと声を出した。笑顔を浮かべ、顔を上げた私は口を開けて固まった。

「洲倉くん……」

 私を見て、彼はにこりと笑った。弟の智景はこんな風に笑わない。第一、目の前の人物は眼鏡をかけていない。

「じゃない方か……」

 私は小さな声で呟いたつもりだったが、聞こえてしまったらしい。ひどい、と抗議を受けた。前回と言い今回と言い、文句は言うが本気で怒らないあたり、気のいいひとだと思う。ただ、私が待っていたのは違う方だった、というだけだ。

「智景と対応が違いすぎるでしょ。せっかく差し入れ持ってきたのに……」

 智陽くんがちらつかせたのが「熊の手ベーカリー」の袋だとわかり、私は身を乗り出した。

「ああ、それはキャロットケーキ!」

 思わず手を伸ばした私を見て、智陽くんは勝ち誇ったように笑みを浮かべた。踊らされているようで悔しい。でも、キャロットケーキは食べたい。

「それだけ食い意地が張ってるなら、もう治ったみたいだね」

「……まあ、おかげさまで」

 風邪をひいていた私の様子を気にして、見に来てくれたのか。さすがに応対がひどかったと、反省した。

 智陽くんはすでに平志さんと楽しそうに話していて、私は謝るタイミングを逃してしまった。平志さんはハル坊、と気安い感じで呼んでいるから、昔から面識があったのだろう。

 実は甘いものが大好きな平志さんは、いそいそとコーヒーを淹れに給湯室に向かった。まだ営業時間内なのだが、ともやもやしていると、再びドアベルが鳴った。

 今度こそ、お客様だった。一週間前、インスタントカメラで撮られた写真を持ち込んだ、あの女性だ。

「お待ちしておりました、城ケじょうがさき様」

「私の名前、どうして……」

 先週名刺をいただいたので、と答えると、城ケ崎様は恥ずかしそうに笑った。

「そうだったわ。急いでいたから、連絡先代わりに名刺をお渡ししたんですよね。あの時は気が動転していて、すみませんでした」

 丁寧に頭を下げる所作は、洗練されていた。名刺には秘書課と書かれていたから、仕事で身についたのかもしれない。服装もスーツが決まっていて、隙がなかった。こちらが本当の彼女なのだ。

「こちらが洗浄処理をしたものです。いかがでしょう」

 私は透明のビニールに包んだ写真を、城ケ崎様の前に置いた。写真の縁の白い部分には泥汚れが残ってしまったが、写真部分はそれなりにきれいになったはずだ。

 しかし、それはあくまでも私の自己満足であって、お客様が満足されなければ意味がない。私はいつまでたっても慣れない緊張の中、城ケ崎様の反応を待った。

「これ、袋から出して直接触っても大丈夫ですか?」

「ええ、もう完全に乾いていますから、大丈夫ですよ」

 袋から、まるでガラス細工を扱うような手つきで、城ケ崎様は写真を取り出した。そして、手前に写った二つの影に触れた。

「あなたは魔法のように元通りにはできないっておっしゃったけれど……」

 心なしか潤んだ目で、城ケ崎様は言った。

「私にとっては、あなたがここでお店を開いてくれていたこと自体が、魔法のような幸運でした。そうでなければ、この写真は、もっとみすぼらしくなっていたかもしれない。まあそれも、私にはお似合いかもしれないけどね」

 彼女が何について語っているのか、私にはわからなかった。けれど、この写真に詰まった“事情”は、美しいものだけではないのだということは、わかった。

 

営業時間を終えた私は、お待ちかねのキャロットケーキを堪能していた。智陽くんは何事か考えているのか、やけに静かだ。平志さんはといえば、お腹が満たされたからか半分目が閉じている。

「彩野さんってさ、智景のこと好きなの?」

 唐突に、智陽くんが言った。私は危うくキャロットケーキをのどに詰まらせそうになり、目を白黒させた。

「な、何を、どうしてそんな」

 しどろもどろの私を見て、ふうん、と智陽くんは意地悪気に目を細める。

「やめておいた方がいいと思うけど」

 お言葉だが、私はまだ認めたつもりはない。そう反論しても良かったのだが、彼が自分の弟のことをそんな風に言う理由が、気になった。

「やめておいた方がって、どうして?」

 智陽くんは手にしていたフォークを皿に置くと、記憶喪失のことは聞いたかと、私に尋ねた。

「確か、高いところから落ちて、頭を打ったって……」

「そう。でも、落ちたのは事故じゃない。智景はね、誰かに突き落とされたんだ。犯人はまだ、捕まっていない。だから、あまり近づきすぎると危ないかもしれないよ?」

「そんな……危ないって、また狙われるかもしれないってこと?」

「智景がもし、事件の日のことを思い出したら、犯人が誰かもわかるはずだからね。その前に……」

 私が日本を離れている間に、そんな大事件が起きていたなんて、全然知らなかった。智景くんは淡々としていたけれど、きっと今も不安なはずだ。記憶がないことも、何者かに狙われているかもしれないことも、私だったら怖くて家にずっとこもっているだろう。

 考え込んでいる私に、智陽くんがことさら明るい声で言った。

「ねえ彩野さん、さっきの、あの写真だけど」

「あの写真って、城ケ崎様にお返しした写真のこと?」

「写ってた場所って、外人墓地の中だったよね。しかも、午前中」

 午前中、それも早朝に写されたということは、朝顔が咲いていることからわかる。でも、なぜ午前中であることを強調するのか、わからなかった。

「だって、あそこは関係者でもない限り、午前中は入れないはずだよ」

「あ、言われてみれば」

私は道案内用に置いてある観光マップを持ってきて、外人墓地のところを確認した。資料館は午前中も開いているが、彼の言う通り、墓地は十二時からしか入れない。

「名刺を見る限り関係者ではなさそうだけど、無理矢理侵入する理由なんて……」

「誰にも見られたくなかった、とか」

どういう意味かと問う私に、智陽くんはパンフレットの写真を指差して言った。

「キリスト教のお墓にはこういう十字架が立てられているけど、十字架は日本人にとっては、違う機会で目にすることの方が多いよね」

「……もしかして、結婚式?」

 智陽くんはにっこりして、頷いた。

 私はもう一度、あの写真を思い返してみる。手前に、寄り添う二つの影。朝日を受けて、お墓の十字架が、影を落としている。

 神父さんも、参列者もいない。指輪だって、きっとない。

「許されざる恋だった、ってこと?」

 影だけで、ひっそりと上げた結婚式。その唯一の証が、あの写真。だから彼女は、あんなにも――。

「写真って、すごいよね。シャッタースピードは一瞬なのに、その中にそれだけの物語が詰まってるんだ」

 智陽くんはそう言って、自分のキャロットケーキの最後の一口を、私の口に押し込んだ。美味しい。でも少し、しょっぱい。

「……だから私は、写真が好きなの」

 ケーキをごくりと飲み込み、私は言った。

「智景も昔、同じようなこと言ってたよ」

 なぜだか懐かしむみたいに、智陽くんは言った。

 何かが始まりそうな気がする、そんな春の終わりの夜だった。

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