第3話 圧倒的な美との距離と緊張
私は、週2回のフラワーアレンジメントクラスに行くのが楽しみで仕方がなかった。沖田さんはいつの間にか私のことを弘二くんと呼ぶようになった。クラスのみんなも下の名前で呼ばれていたので、沖田さんにとってそれは特別なことでも何でもないことかもしれないけれど、私は少し沖田さんとの距離が近づいたようで嬉しかった。
私は家が花屋だということで、ほかの受講生よりは花についての知識があったので、半月も経つと沖田さんのアシスタント的なことするようになった。それはとても光栄なことだった。だがしかし、教材の花を仕分作業中などに、沖田さんが何気に私の肩に手を置こうものなら、私の全神経が手の置かれた肩にばかり集中して、なにも考えられなくなったり、ごくごく普通のボデイタッチにも過敏に反応してしまい簡単なミスを連発してしまったり、注意を促されされて反省をしないといけない時でさえ薔薇の香りに包まれたような甘美な完璧なまでの美をうっとりと眺めてしまっている。私と沖田さんとの距離はより近くなったのだけど、彼の前では本来の自分が発揮できずいるのがもどかしく、無能だと思われたくないと思えば思うほど、それは空回りをして圧倒的な美に打ち負かされ、負のスパイラルに陥ってしまうようだった。
いつだったか、「薔薇について勉強をしようよ」と沖田さんが言って、薔薇で有名な植物園の中にある図書館に私を連れて行ってくれた。そこには薔薇に関しての本がたくさんあった。
「君のお店で扱っているほとんどの高芯咲きの切り花の薔薇がモダンローズのハイブリットテイー。たぶん、赤だとローテローゼかサムライかな。白だとテイネケ。最近ではカップ咲きのイングリッシュローズも人気だね。モダンローズの第一号は1867年に作られたラ・フランス。それ以前はオールドローズ。 薔薇の種類って二万種以上もあるんだよ。すごいね」
と沖田さんは言いながらいろいろ本を出してきて私の前に並べた。"薔薇について勉強をしようよ"と言って連れてこられたけれど、"薔薇の勉強をしなさい"ということだったのか。と確信した。
「詳しいですね。薔薇のこと」
「まだまだ知らないことはいっぱいあるよ。僕は薔薇が好きだから、興味があるものはもっと知りたくなるよね」
その言葉を聞いて、そうじゃないこともあると思った。私は訊こうかどうか暫くためらっていたけれども思い切って沖田さんに質問をした。
「もし、興味のある物があって、それが完璧に美しく非の打ちどころが無いものであったのなら、それについてもっと知りたいと思いますか?知らなくてもいいと思ったことはないですか? その美がそこにあるだけで幸せだとは思いませんか?」
本棚の前で沖田さんは少しおどろいた様子で、私の方を振り返った。今、手に取ろうとした本を棚にもどして、左手を右ひじに添えて体の重心を右足にかけ、斜め上四十五度に視線を移し、右手を顎から口元に持っていき中指で唇をトントントンとノックして、二、三秒考えて、そして左眉を少しあげて涼しげな瞳で私をみつめて言った。
「それは、傷つきたくないってことかな?」
その動作が完璧な美だった。私にとって彼の流れるような美しい姿がそのが答えだったのだ。
彼は逆に私に質問をしたのだけれど、その質問の答えはもう少し後でわかることになるのだが、その時の私には、それは彼の優雅な動作の後ろで流れる美しいショパンの調べのようだった。
「すみません。わかりません。忘れてください、今の質問」
沖田さんはその事には追求はしなかったかわりに、
「弘二くんはどのタイプの薔薇が好き?」
と話題を変えてきた。
「ええっと、そうですね、やっぱり形で言うなら、剣弁高芯咲きです。あの形の薔薇が一番美しいと思います」
「そうだね。あの形、THE薔薇だよね。僕もあの形でなきゃ薔薇じゃない。剣弁高芯咲きにあらずんば薔薇にあらず。って真剣に思ってたころもあったよ。イングリット・バーグマンっていう1940年代の大女優がいたんだけど、その............」
――沖田さんは話を続ける。ああ、この人は本当に薔薇が好きなんだな。と思った。そして私はまた沖田さんの姿にうっとりして暫くの間ショパンの調べを聴いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます