薔薇香る憂鬱 ~アーリーディズ~

佐賀瀬 智

第1話 出会い

 私は小さな町の小さな花屋の一人息子で、小さい頃から両親の手伝い、店の手伝いをしていた。毎日花に囲まれての生活は私に美というものを教えてくれたと思う。そして花屋という美しい華やかな仕事の裏方は、結構肉体労働だということも知っている。


 高校生活も終わりに近づき大学に進学が決まった3月の上旬、父が病気で倒れてしまい家業の花屋を続けていくことが困難になった。今の世の中、大学を出たところでアドバンテージなどないかな。と思った私は、父の花屋を継ぐことを決心し大学進学は諦めた。そのかわり、店を母と二人で切り盛りしながら、しっかりとした花の知識を習得するために、フラワーアレンジメントのイブニング6ヶ月コースに通うことにした。


 それは私の小さな町から電車で30分ほどの、とある市の中心のふれあいカルチャーセンターという古いビルの2階の一室で開かれていた。受講生は私の他に7人、どうやら私が最後の一人だったようだ。私は小走りに教室に入った。

「今日から受講の方ですね。では、こちらにお名前をお願いします」

 と言ったその人を見て私は、はっと息を飲んだ。

「印鑑もお願いしますね。ここに......」

 線の細い華奢な手、指先、色白でうっすらとピンクの頬の細面の顔立ち、ライトブラウンの軽くウェイブのかかった髪、どことなくデイヴィッド・ボウイに似た植物的な美しい男性が、左の眉を少しだけ上げて涼しげな瞳で何かを言っているのだけれど、それは遥か遠くで言っているようで、私の耳には入ってこなかった。なぜなら、圧倒的な美がそこにいたからだ。圧倒的な美を目の前にして私の聴覚はおかしくなってしまったようだ。

「印鑑、持ってませんか? ではサインでもいいですよ。今どき印鑑何て意味がないけれど、一応決まりですので」

 私はハッと我にかえり、印鑑など持っていないのに鞄の中をごそごそさがしたり、彼と目が合うと、意識的にそらしてしまったり、私の行動は挙動不審者のようだったに違いない。返事もせずに自分の名前 寺内弘二 と彼に言われたところの欄に書いて、印鑑のところには上の欄の2、3人がそうしているように、名字の寺内と書いて丸で囲んだ。

 私は一番前の右端の席に座った。後ろに座っている会社帰りのOL風の二人が、「講師さん、超イケメンじゃん」と小声で言っている。この繊細な、まるで神秘の森の中の湖縁に咲く植物のような美しさを放つ人を、イケメンなどという下世話な言葉でディスクライブした二人を私は軽蔑した。


「みなさん、こんばんは。数あるフラワーアレンジメントの教室があるなか、この沖田フラワーアレンジメント教室を選んでくれてありがとうございます。私がこれから6ヶ月の間、講師を勤める沖田です。よろしくお願いします」

 小さくもなく、大きくもなくやわらかい流れるような声でその美しい講師、沖田さんは言った。

「それでは、皆さん自己紹介をしていただきましょう。きみからお願いします」

 と沖田さんは私の方に手のひらを向けて促した。私は最初は緊張してモゴモゴと自分の名前と年齢を言うのが精一杯だったけれど、その後、大学を諦め父親の花屋を継いだこと、花屋の仕事のことなど自分でもびっくりするくらいに自分のことをベラベラとしゃべっていた。喋り終えると、

 「君の好きな花は何?」

 と沖田さんが訊ねたので

 「......たぶん......薔薇です」

 と答えた。

「そう」沖田さんは教卓に肘をついて「僕も薔薇が好き」

 と私をじっと見て言った。上品に少しだけ左右の形の違った目でみつめられ、私はドキドキした。それはたぶん美しいものに出会ったとき、それは物でも花でも、それは男女も関係なく、美という観点だけでとらえた場合に起こる興奮、喜び。それは、朝の花市場で仕入れの時、めずらしい美しい花に出会った時の興奮と同じものだと私はその時思った。けれど、その美しき人と同じ花が好きだということ、沖田さんは薔薇が好きだと言っただけなのに、その言葉の裏の意味を探している自分がいた。その時から私の好きな花は薔薇ではなく、絶対的に薔薇になった。


 それが私と沖田さんとの出会いだった。 


 

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