くらげの夢

冴草

くらげの夢

 最近眠れないんだ、と相談した相手が悪かったのかもしれない。原田は大学の後輩で、少々変わった女だった。朝五時、サークルの先輩が住むアパートの一室には酔いつぶれた有象無象が転がっていて、うち二人は死んでいるのかと思うくらい身じろぎしなかった。起きているのは自分と原田だけ。こいつら、生きてんのかな、と呟くと、原田は身じろぎしない奴らの口元に手の甲を近づけて、くすくす笑いだした。

 「息してますよ。残念でしたね」

 何がだろうか。


 不眠の気は高校の時分からあったのだけれど、あの頃のそれは単に夜更かしが習慣化した以上のものではなかった。大学に入って三年、睡眠不足は段々と酷くなり、加速度的に精神状態も悪化していった。今では自覚できるくらいには不安定だ。周りに相談しても埒が明かないし、心療内科にも数回かかったが、睡眠薬などではなく効き目の緩やかな漢方薬を処方されただけだった。医者はやたらとカウンセリングしたがった。でも、僕の求めているのは会話ではなく、何人も介在しない静かな眠りなのだ。漢方も初めは効いたが、次第に効果が感じられなくなっていった。近頃は寝酒で対処していたが、それも限界だ。今では明け方から二時間寝られれば良い方である。

 疲れは抜けないし、もうずっと脳もむずがゆかったが、それでも今日サークルの飲み会に参加したのは期待していたからだ 。みんなでわいわい飲んで騒いで、疲れきってしまえば、床に雑魚寝であってもぐっすり眠れるのではないか、と。だがアテが外れ、原田と二人きり、夜と朝の境目で向き合う羽目に陥っている。

 原田がこっちを見て、何事か話しかけてきた。こっちはぼんやりしていた上、彼女は小声なので聞き取れない。もう一度頼む、と指を立てて促す。彼女の首は、そよ風に吹かれるゴム風船のようだ。まだ酔っているのか。

 「知ってますか、って訊いたんですよ。戦時中の米軍の研究なんですけどね。自分をくらげだとイメージして、身体の緊張を解くよう指導していたんですよ」

 「……なんだそれ」

 またおかしな事を言い出した。普段から原田はこうだ。他の人にもするのか知らないが、嘘か本当かわからない事を言って絡んでくる。実際何度か騙された。しかし今日の彼女は、真顔に戻って言い募る。

 「本当ですよ。試してみればいいじゃないですか」

 思わぬ語気の強さにちょっと困ってしまう。いつもは嘘かと疑われても、あまり頑固に言い返すような奴ではないのだが、どうも真剣に見えるので、じゃあ、どうすればいいの、と問うてみる。すると彼女は横になってみてくださいと答えた。

 薄っぺらなラグに寝転がる。すると何を思ったか、原田も隣に転がった。二十センチの距離に。

 「え、いや」

 慌てて身を起こそうとするが、手首を掴んで引いてくる。仕方なしに再び寝転がると、彼女は先程より抑えた声で囁いた。

 「仰向けに寝て、目を閉じて。深く呼吸してください」

 すっかり困惑してしまって彼女の顔を見るが、アルコールで潤む瞳が正面から見つめ返してくる。次第になんだかどきどきしてきたのでやめた。言われたとおり目を閉じて、ゆっくり息を吸って吐く。そんなに美人でもなければ好みでもない、いつもは変人としか思わないのに。こうなると、ちょっと心を乱されてしまう。あまり見ることのない表情を作っているらしい事もあるのだろうか、部屋が暗いせいだろうか。昨晩のうちに閉め忘れたカーテンの外は暗い藍色で、室内を照らしてくれる灯りなどは全くない。複数人のいびきと朝刊を配達するバイクのエンジン音、案外近い距離にいる彼女の息遣いだけが、空間を控えめに飾り付けていた。

 「あなたは、椅子の上ででろりと垂れ下がる、一匹の、くらげです。手足は触手に、胴は襞に、全身はゼリーに――」

 耳元の声に従っていると、本当に身体の力が抜けてくる。頭が徐々に痺れ始めた。数ヶ月ぶりの感覚は、堰き止められていたかのように一度に溢れ、意識を押し流そうとする。激しい流れだった。何をしても好くならなかったのに、こんな風に声を聞いて、うっすらと体温を感じて、たったそれだけで喪われたはずの眠気を喚び戻せるとは思ってもみなかった。

 最後の意思で、勝手に閉じようとする瞼を無理やり開けると、隣で何事か囁き続ける後輩も、床に転がる死屍累々の光景も、すべてぼやけて輝いていた。自分の身体も白濁した光に包まれているように感じられた。全ての輪郭は軟らかく融け崩れ、床にだらしなく拡がり咲く僕はくらげ、海の青と瓜二つの虚空がぐるりを囲む。


 長い夢を見ていたのかもしれなかった。くらげの僕は、人間になる夢を長く見すぎたのかも。疲れ切ってしまったのだ、きっと。でもようやく、一時だけでも波間に還ることができる。もうなにもわからない。今は右側に、名前があったはずのゼラチンのひんやりと、先に海に戻った者達の寝息を感じ、やがて遠くなってゆく嘶きの向こうに、焦がれていた潮騒の音を聴いていた。

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