第17話或る日記帳の記憶

くずおれた家屋の奥に潜むおまえの名をもう思い出せない。揺らぐ記号としての変名をいくたびも変えるうちに我が身を忘れて何者でもなく草木のうちに埋もれていくまで、古今東西のあらゆる書物を積み上げ、その塔のうちに見出したのは地獄だったのか、今となってはわからない。一縷いちるのぞみというものがあるとすれば、おまえの遺した日記に幾度も記されたイニシャルの意味するところが私の幼名だったことだけで、ありし日の記憶だけがおまえの糧となっていたのかと、もはやその骨を前にたしかめることもできずに佇む。おまえの好きな林檎を母が煮立ててパンに塗り、紅茶とともに干した日、さざめく木漏れ日のうちでおまえが微笑んでいたことを覚えている。おまえの膝でまどろむ猫も、今ごろふたたびおまえにじゃれついているのだろう。そうして忘却の彼方へと去ってしまわぬように日記帳を抱きとめる。両腕から崩れてゆく頁をかき集め、おまえのいくつもの名の隣に、つたない猫の絵を描き添えて、壊れかけた錠を慎重な手つきで閉じる。失われてゆく日々、変貌してゆく己の姿を書き留めようとした姿を脳裏に描くとき、おまえはもはや孤独ではない。幼い日の姿をその容貌の口元に残したまま、最後の一行を書き記したおまえは永い眠りについたのだろう。朽ちたペンを拾い上げると、そこにふわりと蝶が止まる。彷徨う魂の行き先を告げるため、私はそっとおまえの初めの名を唇に乗せる。

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