恋するプータロー
多良はじき
第1話 夢とか理想とか
都会のOLに憧れ、駅前にビルが犇めき合うような場所で仕事をするのが夢だった。ようやくありきたりな夢を叶え、そんな夢にも嫌気が刺して結婚という名の寿退社に逃げたのは37歳の頃だった。
人生の折り返し地点に立って思ったのは、私は一体何の為に生きているのだろうという事だ。目標もなく、ただぼんやりとレールの上をひたすら歩き続ける。レースさえ踏み外さなければ、きっと幸せで充実して生活が待っているのだとずっと信じていた。
なのに、何故何度もレールを踏み外してしまうのだろう私は。
20歳。就職氷河期真っ只中の私は、真っ青な顔に買ったばかりのリクルートスーツで街をふらつき歩く日々が続いていた。
履歴書なんて、一体何枚書いた事だろう。履歴書用の写真なんて、一体何枚焼き増ししただろうか。きっと数えても虚しくなる程だ。
書類選考だけで落とされる日々が続き、何とか運よく面接に繋がった所ですら集団面接では面接官に目すら合わせて貰える事も無かった。
集団面接では、ひときわ綺麗な女性が必ず一人いた。まるで、何処かのモデル事務所で派遣でもして用意したかの如く不自然に綺麗な人ばかりだった。
面接官も、綺麗な女性にしか質問すら投げかけないのだ。「結局、顔かよ」と、うなだれるような顔でトボトボと帰る私。
ああ、私がもっと綺麗だったなら面接も楽なんだろうな。整形でもしようかしら。でも、顔変えて就職決まった所で私は嬉しいと思うのだろうか。働きたいと思うのだろうか。
やっぱり、東京とか大きな都会に出て、有名な大学に行って就職活動しないと就職なんて出来ないのかな?
小さな田んぼの中にひっそりと建っているような田舎の短大じゃ、就職は厳しいのかな?
でも、私が入学した地元の公立短大は地元の就職なら下手な大学行くよりも強いと評判だった。
おまけに国公立の短大は、地元民は学費が驚く程安い。当時、家のローンだけで一杯一杯だった佐藤家には「東京に出る」とか「有名な大学に行く(私立大学)」という選択肢は全くといっていい程無かった。
「別に、夢があってなりたい仕事があるなら大学に行ってもいいけどね、別にないんでしょう?だったら、何も高いお金を出してね・・・。」という母のセリフを聞いて、国公立の大学か短大しか選択肢はなかったし、ましてや一人暮らしなんてしようものなら仕送りせずに自分でバイトして全部賄う自信がなければ都心の学校に行く事など出来なかった。
都会には行きたいけど、都会に行って私は一体何者になりたいのだろうか?思い浮かばないなら、別に地元で実家から通える範囲の所で国公立の学校を目指せばいいじゃん。そうすれば、親孝行にもなるし・・・。
私が地元の国公立の短大を目指したのは、その位だった。学校に入って何か学びたい事があった訳でも、やりたい事があった訳でもない。
都会には出たかったけど、出た所で何がやりたいかと聞かれると別に何にもなりたくなかったのだ。
私が当時なりたかったもの。あの頃の自分は、「親が喜ぶような企業で、普通に就職して5年位したら社内恋愛して寿退社して専業主婦になる。」といった事だった。
でも、今振り返るとこんな考えをしている女性を一体どの企業が雇いたいと思うのだろうかとしか考えられない。
企業は、自分の会社に積極的に貢献したいと考えている人を積極的に雇いたいと思うものである。
それを、最初から結婚の腰掛け程度にしか仕事を考えていなかった私なんか何処も雇いたいと思う訳がない。
それでも、当時の私は「私、何で就職決まらないんだろう」と悶々とした気持ちを抱きながら求人票のチェックばかりを繰り返していた。
周囲が就職を決めていく中、すっかり焦った私は「もう仕方ないから、ここでいいや」と学校推薦枠のある小さな企業に就職する。
田んぼの中にひっそりと建つ小さな印刷会社で、正直私が理想をしていたような「都会にビルが立ち並ぶ場所のオフィシャルレディ」には似ても似つかなかった。
「仕方ない、就職出来たらそれでいいんだよ・・・。うん・・・。」自分で自分に納得し、ようやく3月の短大卒業ギリギリに合格した企業で、私は何とわずか1ヶ月後に地獄を見る事になった。
「あのう、君。もう明日から来なくていいよ。」と、就職して僅か1ヶ月後の平日の夜に社長室に呼び出された私は、社長から聞き捨てならない台詞を目の当たりにした。
「えっ、どういう意味ですか?」と改めて聞き直す私。
社長は淡々とした顔で「だから、もう決まったんですよ。佐藤さんね、もう会社来なくていいから。君は1ヶ月しかまだ勤めてないけどね、ちゃんと2ヶ月分の給料は渡すから。」。
何がなんだかさっぱりわからなくて、心の整理がつかなかった。
それでも私は何を思ったのか「わかりました。明日からもう来ません。」と伝えて踵を返した。すぐさま同じフロアで仕事を教えてくれていた木村さんに「すみません。」と伝えるとみんな優しい顔で励ましてくれた。
「でもね、あなたも遅刻スレスレに会社に来ていたのも良くなかったみたい。社長はきっと、あなたのやる気を見抜いていたんじゃないかなと思う。仕事自体は真面目にしてくれていたけどね、でもまさかこんなに何も出来ないなんて思わなかったし。
あと、社長はもしかすると『もう一度、チャンスを下さい。明日から頑張って仕事に来ますので。』といったセリフが欲しかったんじゃないかな。」
木村さんは、きっと私の心の内を全て見抜いていたんだと思う。その中で、私の社会に対する甘さや考えを指摘してくれたのだ。
あれから10年以上経った今、当時の木村さんと同じ年齢になってようやく自分も当時の自身の甘さを理解する事ができるようになった。
しかし、あの頃はまだ私も20歳。「何で私、こんな事言われなきゃいけないのだろう。他に就職先もないから、仕方なく此処に来たのに。」なんて失礼な事を平気で考えていた程だ。
親友の由紀子にリストラされた事をすぐさま伝えると「えっ、何で『もう一度働かせてください』って事をお願いできなかったの?」と、木村さんと同じような事を言われたものだ。
それでも、当時の私は何を思ったのか「何でそんな事言われてまで、あんな会社に私が働かないといけない訳?だって、こんな酷い事言われたんだよ?
そんな思いまでして、わざわざそんな企業に従事する必要なんてないと思う。
私はもっと、私を切った企業よりも大きな所で絶対に勤めるんだから!」という私を見て、ふうとため息をつく由紀子の姿がそこにあった。
リストラされた私は、すぐさま退職先から貰った2ヶ月分の給料を全部パソコン教室に投資した。
当時の私は、まだ20歳。中途とはいえ、年齢も若いしチャンスなんて沢山あると鷹をくくっていた。お金は投資した分だけ、大きなチャンスが絶対に巡って来ると信じていた。
勿論、実家暮らしとはいえ遊ぶお金も貯金も欲しかった私は、学校に通いながらバイトを始める事を決意する。
母には「やっぱり、あんたには就職は無理だったのよ。チラシに100均のオープニングスタッフのバイト求人募集があるから、行ってみたら?
100均なら、レジも楽そうだしあんたでも出来るんじゃないの。」と言われた。
就職した時は、手を叩いて喜んでいた母。リストラが決まった途端に、母は顔を真っ青にして「何でそんな酷い事を言われなきゃいけないんだい!」と一緒になって怒ってくれた。
その反面「やっぱり、あんたには就職は無理だったのかもしれない・・・。だって、あんた周囲に気配りもできないし、本当に何も出来ないんだもの・・・。」と肩を落とした。母を落胆させてしまった事は後悔しているが、毎度母が私に言う「あんたは何をやっても無理」という言葉が大嫌いだった。
その後、私はバイトしながらパソコン教室で資格を取得した。
バイト先では、全員新人同士で和気藹々できて楽しくて「このままバイト生活でも、別に生活に支障もきたさないから続けようかな」と思った矢先、勤め先の業績が悪化してバイト時間が削られてしまった。
今まで週5日、8時間労働が可能だったのに、週5日、5時間勤務へと変わり入るお金がグッと減った。
実家暮らしだし、特にお金が減っても問題なかった癖に「正社員時代と同じ位のお金が欲しい」と思った私は、100均のバイトと並行して電気屋でアルバイトを始めた。
朝9時から13時まで100均で働き、14時から夜の0時までぶっ続けで電気屋でアルバイト。
電気屋のバイトは、レジとトイレ掃除。時々友達がバイト先に顔を出しては「頑張ってね」と言って一つ物を買って様子を見に来てくれた。
正直、こんな姿なんて誰にも見られたくなかったし消えてしまいたい位だった。
やがて、2つのバイトWワーク時代ですっかり体が痩せこけ38キロになってしまった私は「このままじゃ本気で死んでしまう」と身の危険を感じ、本気で就職を考えるようになった。
人の念とは不思議なもので、タイミングよくハローワークから1通の手紙が届いたのだ。
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