Ⅶ-3

 佐伯健二が、妻の行動に不信を抱くようになったのは夏が終わって、ひぐらしが鳴き始めたころだった。

 高台にある一戸建てに移ってきたのが六月だった。それまで住んでいた駅前の賃貸マンションと比べると、周囲の環境は格段に良くなった。夫婦の間にまだ子供はいなかったけど、将来のことを考えると正しい選択だと佐伯は思っていた。

 ひぐらしってほんとうに、カナカナカナって鳴くんだな、初めて聞いたよ――佐伯の言葉に、妻の珠恵は曖昧にうなずいた。古風な名前だけど、夫より二回り近くも若い妻の反応を、ひぐらしがどういうものなのか知らないからだろうと、佐伯は勝手に結論づけた。

 だからといって、佐伯は妻にそのことを改めて確認したりはしなかった。知らなければ知らないで、別に構わない。佐伯が年の離れた妻に求めているのは――仮に求めているものがあるとして――少なくとも、知識や賢さではなかった。

 賑やかな市街地から離れることが、どうやら妻は不満らしいと佐伯は感じていたけれど、それについても特に珠恵の意見は求めなかった。佐伯が決めたことは、動かすことのできない決定事項であるかのように、珠恵に告げただけだった。それに対して、珠恵もはっきりとした不満を表明したことはなかった。

 そんな珠恵が、習い事をしたいといい出した時、佐伯はあまりいい顔をしなかった。珠恵に任せっきりになっている家の中のことがおろそかになるのを嫌ったのだ。仲良くなった近所の奥さんたちと、週に二回、カラオケ教室に通いたいといった珠恵に、とりたてて後ろめたいものを感じ取れなかった佐伯は、珠恵にもある程度自由にできる時間を持たせてやるのも仕方あるまいと、最終的に同意した。子供ができたら、そんな時間は無くなってしまうのだ。今のうちに、せいぜい楽しんでくればいいよ、と佐伯は珠恵にいった。

 最初の一か月は、珠恵の説明通り、夕方の六時に教室を終えて七時には帰宅していた。買い物をしてから帰る場合も、せいぜい七時半には家について、それから夕食の支度をしていた。

 二か月が過ぎた頃、教室で知り合ったほかの奥さんたちと、教室が終わってから、食事に出かけるようになった。ただし、毎回ではなく、二週間に一回ほどの割合だったから、佐伯も特に何もいわなかった。事前にわかっていれば、珠恵は佐伯に予定を伝えて、そんなときは佐伯も会社の同僚や部下たちと飲みに出かけた。

 三か月が過ぎると、珠恵は食事だけではなく、駅前の居酒屋に飲みに行くようになった。佐伯はしばしば珠恵に不平を漏らした。珠恵はそのときは殊勝に佐伯のいい分を聞いていたけれど、その行動はまったく改まらなかった。

 季節は秋になり、ひぐらしの声が絶えて久しいある日、珠恵が一晩帰ってこないことがあった。日付が変わる少し前にメールが届き、盛り上がっているからこのまま朝までカラオケボックスにいる、と伝えてきた。

 それを見た佐伯は、一瞬頭に血がのぼったけれど、考えてみれば、何が何でも今すぐ帰って来いというのも、高校生の娘を持つ親でもあるまいしと自分を納得させて、そのときは珠恵の好きにさせた。そこに自分自身のプライドが微妙に絡んでいることに、佐伯自身は気づいていなかった。

 その頃になると、佐伯は他の男の存在を疑い始めていた。でも、そのことを正面切って珠恵に問いただすことができずにいた。普段の珠恵の様子には、それまでと違ったところは一切なかった。ただしそれはあくまでも佐伯の見たところ、だ。珠恵と結婚するまで、女性と付き合ったことがなかった佐伯にとっては、どのような判断も自分の頭の中で想定した仮説に基づくしかなかった。

 結婚している身なのだから、軽率な行動は慎んでほしいという佐伯の言葉に、珠恵は同意した。今回は特別で、これからは決してこんなことはしない、と。ただし、週に一回くらいは友達と飲みに行くのを許してほしい、と珠恵は付け加えた。

 佐伯がそれに対して口を開く前に、珠恵はこう主張した。あなただって、週に一度くらいの割合で同僚や後輩たちと飲みに行っているではないか、と。それに、子供ができたらそんな時間は無くなってしまうのだから、今のうちに楽しめといったのはあなたではないか、と。

 それに対して佐伯は、はっきりと反論することができなかった。

 結局、珠恵の外出は週に二回の割合で、それが一年ほど続いた。子供は一向にできる気配はなかった。

 二回目のひぐらしの声を聞き、秋が訪れる頃、突然珠恵が出ていった。しばらく留守にするけれど、心配しないでください――とだけ書かれた書置きを残して。

 どうすればいいのか、佐伯は途方に暮れた。相談できそうな人間はひとりも頭に浮かばなかった。親や友達などの身近な人間であればあるほど、プライドが邪魔をして、今の状況を打ち明ける勇気が出なかった。かといって、警察沙汰にするようなことだとも思えなかった。

 丸一日考えた結果、とりあえず佐伯は警察に連絡することにした。

 佐伯が想像していた通り、成人した人間が自分の意志で家を出たことが明らかな場合、警察はほとんど動いてはくれなかった。行方不明の届け出を出すかどうかを問われ、さらに一日考えた結果、届けは出さないことにした。

 このまま待っていれば、いつか必ず帰ってくるだろう。でも、それは何の根拠もない思い込みに過ぎなかった。

 珠恵が姿を消してから一か月後、佐伯の家に電話がかかってきた。

 日本の航空会社からだった。

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