Ⅶ-2

 僕が佐伯健二と会ったのは、空港事務所総務課の脇に設けられた来客用スペースでだった。応接用のソファとローテーブルが置かれていて、衝立で仕切られている。僕たちはテーブルを挟んで、ソファに座った。

 佐伯は五十歳前後、事務職ではなく、どちらかというと技術系の仕事、それも専門的な技能を必要とする仕事を長く続けてきた、そんな感じだった。仕事帰りらしく、スーツを着ていたけれど、四六時中スーツを着ている人間というよりは、仕事中はワークウェアを着ているような雰囲気を漂わせていた。

 自己紹介のあと、僕は立ち上がって、佐伯にスーツケースを渡した。佐伯も立ち上がって、スーツケースの持ち手を握りしめた。

「どうも、わざわざ届けていただいてすみません」

 そういって、佐伯は頭を下げた。頭頂部がかなり薄くなっている。

「いえ、こちらこそ。もしかしたら、僕が間違えて持っていたのかもしれませんし」

 僕の言葉に、佐伯は首を振った。

「いや。あれは、かなり抜けたところがあったから、たぶんあいつが間違えたんでしょう」佐伯はスーツケースを見下ろした。「それに、お聞きになっていると思いますが、こちらにはおたくのスーツケースがあるかどうか、確認できないんです。まったく、申し訳ない」

 そういって、佐伯はまた、深々と頭を下げた。

「しかも、これから先、いつ確認が取れるかどうかもわからない次第で。ですので、スーツケースとその中身については、できる限り弁償させていただきます。本当に申し訳ない」

 頭を下げ続ける佐伯に、僕はいった。

「あの、とりあえず座りませんか」


「立ち入ったことを聞くようで恐縮なんですけど」

 僕のその言葉を予測していたように、佐伯はうなずいた。「はい」

「確認が取れない、ということは、奥さんと連絡が取れないということなんでしょうか」

「たいへん情けない話なんですが」佐伯はため息をついた。「ええ。そうです。家内とはもう一か月近く連絡が取れない状態が続いています」

「あの、奥さんに何か――」

「いや。事件とか、そういうんじゃないんです。これまたお恥ずかしい話ですが、書置きらしいものもあって、どうやら自分の意志で出ていったようで……」

 なんと答えていいかわからず、佐伯と僕は黙り込んでしまった。重苦しい沈黙を佐伯が破った。

「それで、小清水さんのスーツケースと、中身のことなんですが……」

「大したものは入っていません。ですから、特に弁償してもらう必要はないです」

「いや、しかし――」

「それより、いくつかお伺いしたいことが」

 佐伯は怪訝な顔でうなずいた。「なんでしょう」

「スーツケースの暗証番号なんですけど」僕はいった。「このスーツケースは僕のものと全く同じ形です。だから、中を開けるまで、僕は取り違えに気がつきませんでした。実は、この奥さんのスーツケースには鍵がかかっていたんです」

 そこでいったん僕は言葉を切った。佐伯は理解したしるしに、うなずいた。

 僕は続けた。「僕は自分のスーツケースの暗証番号で、奥さんのスーツケースを開けることができた。もちろん、最初の設定から、暗証番号は変えています。四桁の数字です。つまり、僕の暗証番号と、奥さんの暗証番号は同じだったんです。もちろん偶然の一致です。それ以外には考えられない。四桁の数字の組み合わせがどれくらいあるのか知りませんけど、あり得なくはない。お伺いしたいのは、暗証番号について、奥さんは何かおっしゃってませんでしたか?」

 しばらく佐伯は眉間にしわを寄せてじっとテーブルの上を見つめていたけれど、やがて顔を上げて僕を見た。

「いや。実は、私は家内がこのスーツケースを持っていること自体、今回初めて知ったんです」

「そうですか」僕はうなずいた。「もうひとつ。スーツケースの中に、奥さんの名前と連絡先が書かれたタグが入っていました。奥さんは航空券を現金で購入されていたので、もしこのタグがなかったら、佐伯さんに連絡は取れなかったんです」

 僕はスーツケースを指さした。

「タグは外ポケットに入れてあります。見てもらってもいいですか」

 佐伯はスーツケースの外側のポケットから、透明のケースに入ったタグを取り出した。

「名前と連絡先が書いてあると思うんですけど」僕はいった。「筆跡が違いますよね」

 またもや眉間にしわを寄せて、佐伯はタグをじっと見つめた。

「確かに。連絡先の方は家内の字ですが……名前の方は、家内の字とは違うみたいだ。それに旧姓の苗字を消して、今の苗字を書き足してる。つまり、最初は結婚前に書いたということですか」

 そういって、顔を上げた佐伯の眉間のしわはさらに深くなっていた。

「小清水さん、もしかして」佐伯は恐る恐る、僕に尋ねた「あなた……家内と面識があるんですか」

 僕は首を振った。

「ありません」

 僕は続けた。

「ありませんけど、もしかしたら、僕の知っている人が、奥さんと知り合いなのかもしれません」

 僕はさらに続けた。

「そして、その僕の知り合いとは、ずっと連絡が取れない状態が続いています」

 佐伯が何かいいかけたけど、その前に僕は付け加えた。

「ただ、それは今回の奥さんの件とは関係ないです。たぶん、ですけど」

「私にはよくわからないのですが……」

「長い話になります」僕はいった。「でも、その前に。もし、差し支えがなければですけど、佐伯さんのお話をお伺いしてもいいでしょうか」

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