Ⅵ カレンに捧ぐ
Ⅵ-1
もういつの頃からか、忘れてしまった。
それが始まったのは。
一人暮らしの部屋に電話のベルが鳴る。
たいていそれは夜中だった。
十二時。もしくは一時。
固定電話の受話器を取って、耳に当てる。
何も聞こえない。
こちらからも、何もいわない。
問いかけても、反応がないことがわかっているから。
たまに、ほんのかすかに、吐息のようなものが聞こえることがある。
でもそれは、ただの気のせいかもしれない。
受話器を耳に当てたまま、じっと耳を澄ませる。
目を閉じて、暗闇の中、カチリと通話が途切れるまで、じっと耳を澄ませ続ける。
*
「はい、これ。おまけ」
僕の皿うどんの横に、ぎょうざ二人前がどん、と置かれた。
「すみません、いつも」
「なにいってんだい。あんたのおかげでこうやってまた商売を続けられるようになったんだ。そんくらい、何でもないってことよ」そういって、店の主人は杏仁豆腐をテーブルに置いた。「お嬢ちゃんには、これ、おまけだ」
「かたじけない」
向かいに座っている田崎めいが、ぺこりと頭を下げた。
「じゃあ、ゆっくりしてってくんな」
厨房に戻っていく店主の後ろ姿を見ていると、めいがいった。
「ずいぶんと気に入られたもんだな、小清水くん」
僕は店内を見渡した。
僕たちが店に入ったときは、年配の夫婦がひと組と、中年の男性がひとり。土曜日の午後一時にしては客の入りは少なかった。
注文を終えて、料理を待っているあいだに、客が徐々に増え始めた。
客がひとり、またひとりと、店内に入ってくる。
彼らが入ってくるたびに、僕は入り口に目を向けた。
「うん、まあ。僕の記事がきっかけになったのなら、嬉しい限りだよ」
数か月前、沿線情報誌の取材でこの店を取り上げさせてもらった。
隠れた名店、というコーナーだ。
いい店なのに、あまり知られていない。そんな店を紹介するコーナーだった。
この店はまさにそんな店だった。
僕がこの町に住み始めた大学生の頃からここは既にあった。学生の頃はよく来たけれど、最近はめっきり足が遠のいていた。今回、隠れた名店の候補を考えていた時に、ふと思い浮かんだのだ。
店の名物である、ちゃんぽんと皿うどんの味は絶品だった。単品の料理も、どれもおいしかった。奇抜なメニューはなかったけれど、家庭的な中華料理をメインに、オーソドックスな品々を丁寧に作っていた。
店は六十歳くらいの夫婦がふたりだけで切り盛りしていた。
今回の取材で話を聞くと、開店して四十年が経っていた。それだけ長く続いている店は、この近くでは少なかった。
味は間違いないけれど、駅から離れた、少しわかりにくい場所にあったから、決して繁盛しているとはいえなかった。実際、取材の数日後に店主から聞いたところによると、もう店をたたもうか、と夫婦で話していたそうだ。
取材の下見で、僕が久しぶりに店を訪れたときも、夜の七時だというのに、客はまばらだった。
久しぶりのちゃんぽんを楽しみながら、僕は思案していた。
記事には、その店のキャッチフレーズを載せることになっていて、それを考えなければならなかった。
味は確かに良い。でも、それだけじゃ、弱い。
何かヒントになるようなものはないかと、店内を見渡してみたけれど、めぼしいものは特になかった。
いつの間にか客が増えて、ほぼ満員になっていた。
この店に、こんなにもたくさん客がいるのを見たことはない気がした。
客たちはほとんどが常連客のようだった。
店主の奥さんと話し込んでいる客もいた。
今日は珍しく混んでるねぇ、と客がいうと、こんなの久しぶりだよ、と奥さんが笑いながら答えている。
そんな客たちの姿を眺めていた僕は、あることに気がついた。
そして、キャッチフレーズが決まった。
誰もスマホを見ない店――それが、僕がこの店に付けたキャッチフレーズだった。
客の年齢層が高いということが大きいのだけど、その日、満席の店内の客たちは誰一人として、スマートフォンを見ていなかった。
スポーツ新聞を広げる人、ぼんやりとたばこをくゆらせる人(この店は禁煙席がないのだ)、カバーもない年季の入った文庫本を読んでいる人、ビールを酌み交わしながら話し込んでいる人たち。
まるで、学生の頃に戻ったみたいだ。
カウンター席の側の棚に、大きなラジカセが置いてあって、そこから、ラジオが流れていた。ダブルカセットテープの年代物だ。
数日後、僕は店主夫婦にインタビューをして、記事を書いた。
「もちろんキミの記事の効果もいくらかはあるだろう」ちまちまとゆで鶏とキュウリのごまだれを食べていためいがいった。「でも、ボクの見立ては違うんだ」
客がまた一組、店に入ってきた。僕はそちらに目をやった。若いカップルだった。
「どういうこと?」
「キミはほんとうに気づいていないんだな」
僕は首をかしげた。
「じゃあ、説明してあげよう」
杏仁豆腐をスプーンですくって、つるんと吸い込むと、めいは語り始めた。
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