Ⅴ-5

 レコードハンターこと、編集長の姪、田崎めいが僕にいったように、真相は本人にしかわからない。

 だから、僕は伝えられることだけを、『サザンクロス』で啓子さんに伝えた。

 旦那さんはたぶん、左手から右手に、腕時計をつける手を変えている。

 それも、啓子さんのために。

 それを、啓子さんに気付いてほしかった。

 今からでも遅くない。

 啓子さんがそれに気付いたことを、旦那んさんに伝えてみて。

 僕は、田崎めいから教わったことを、そのまま啓子さんにアドバイスした。

 どうやら、めいの推理は正しかったようだ。

 啓子さんにも思い当たる点があったみたいで、めいの推理に納得していた。

 でも、もちろん真相はわからない。

 めいが僕に伝えなかった推理の残り半分。

 それは、本人――啓子さんの旦那さん――中野良一にしかわからないことだった。

 でも、めいが予言した通り、その真相は明らかになった。

 めいの推理から半年後。

 ある結婚披露宴の会場から、それは始まる。


 僕は新郎の友人のひとりとして――正確にいうと、大学時代の友人のひとりとして、結婚披露宴に出席していた。丸テーブルには、新郎側の友人たちが八人座っていた。そのうち半分が大学時代の友人、半分が高校時代の友人だった。

 ちょうど僕の左の席からが新郎の高校時代の友人たちで、僕の左隣の席の男性はもちろん僕とは面識がなかったけど、席に置かれた名前の書かれた紙が僕の目を引いた。その名前に僕は覚えがあった。

 披露宴の間はなかなか声をかける機会がなかった。友人たちはそれぞれのグループで話し、お互いの会話が交わることはなかった。

 機会が訪れたのは、三次会のスナックでだった。

 そこでもたまたま僕の隣に、彼が座った。

 彼とは、いうまでもなく、中野良一である。

 どうやって声をかけようかと僕があれこれと思案していると、良一の方から、僕に声をかけてきた。

「いい時計してますね」

 どうやら、僕が左手にしている腕時計のことをいっているみたいだ。

 僕は腕時計には詳しくなかったから、こういうしかなかった。

「そうですか?」

「それ、昔のシーマスタ―ですよね。たぶん六十年代。もちろん自動巻き。状態もすごくいい」

「でも、ほったらかしにしておくと止まっちゃうんですよ」

「自動巻きとはそういうもんですよ。それもまた味のひとつです」

「そういうもんですか」

「僕は最近、昔の時計もいいかもと思い始めているんです。これまでは最新型ばかりを追いかけてきたんですけどね」

 僕は改めて自分の腕時計を眺めた。

「そういわれてみたら、なんだか味がある気がしてきた」

「そうでしょ」

「実はこれ、亡くなった祖父の形見なんです」

「じゃあ、なおさら大事にしなきゃ」

 そこで、良一は自分のグラスから酒を口に含んで、ゆっくりと飲み下した。そして、グラスをテーブルに置くと、こういった。「腕時計といえば、少し前に、ある質問が流行ったの、知ってますか」

 僕はうなずいた。「あなたの恋人は腕時計をどちらの手にしていますか」

 彼もうなずいた。

 そして、彼は話し始めた。

 それはいくぶん唐突な気がしたけれど、たぶん彼にとってそれが最適なタイミングだったのだろう。

 彼のなかでは、いつか誰かに話して聞かせる準備をずっと整えていたのだろう。

 それがいつになるのか、誰に対してなのか、そのときにならなければ、彼自身にもわからなかっただろうけど。

 もちろん、かなり酒が入っていたことも大きな要因だろう。

 それに、僕が啓子さんと接点があったことを知ったら、彼は決して話さなかっただろう。

 でも、この頃には、もう僕は自分の役割というものを以前よりも少しはきちんと把握できるようになっていた。

 だから、いつかめいがいったように、こうやって僕が真相にたどり着く場面を、僕はとても素直に受け入れることができた。


     *


 その日、良一は自分がかつて通っていた大学の最寄り駅のホームにいた。

 初めて訪問した客先から、会社に戻る途中の、乗り換えのためだった。

 すでに夕方の六時をまわっていた。

 良一は会社に電話を入れた。

 さいわい、その日は特に急いで処理しなければならない案件もなく、上司の勧めもあって、彼はそのまま直帰することになった。

 その駅のホームは両側に線路があった。

 ホームの中央に、ベンチが置かれている。四人掛けの席が背中合わせに、合計八人分のベンチだった。

 次の電車が来るまでまだ時間があったから、良一はベンチに座った。一番端の席だった。ベンチには彼のほかに女性がひとり座っているだけだった。最も彼の席から離れた、彼と背中合わせの席に。

 その女性がふと顔を上げて、彼の方を見た。

 お互いの視線がぶつかって、ふたりははじめてお互いのことに気がついた。

 女性が先に口を開いた。「やっぱり。良ちゃんだったか」

「何してんの、こんなとこで」良一はいった。

「何って、電車待ってるのよ」彼女がいった。「ねぇ、久しぶりに会って、いきなりそれはないんじゃない」

「ごめん。そりゃそうだ」

「そっちに行っていいかしら」

「もちろん」

 彼女は立ち上がると、ベンチを回り込んで良一の右側の席に座ろうとした。

 良一は、「ごめん、俺がそっち側にいく」といって立ち上がると、彼女の右側の席に座った。

「元気……そうだな、あいかわらず」

「どうも、ありがとう」少し大げさな感じで彼女は答えた。「結構、様になってるわよ、スーツ」

 良一は自分の着ているものを見下ろした。まるで、自分がスーツを着ていたことなんかすっかり忘れていたみたいに。

「どうも、ありがとう」良一は、先ほどの彼女の言葉をまねて、いった。そして、彼女の左手の指輪に目をとめた。

 彼女は良一の視線に気づいて微笑んだ。

「結婚するの。来月」

「そっか……。会社の人?」

「ううん。違うけど、あなたの知らない人」

「ふうん」

 良一は、右手で片肘をついた。スーツの袖口から、良一の右手の腕時計がのぞいた。

「今何時?」彼女が尋ねた。

「えっ、ああ」良一は腕時計に視線を落とした。「ええっと、六時十分」

「そっちは?」ふたたび彼女が尋ねる。

「?」

「結婚」

「してる。もうすぐ一年になる」

「啓子?」

 彼女の問いに、良一は少しひるんだ。

「知ってたのか」思わず、良一は咎めるような口調になった。

「知らないわよ」

 良一は彼女の顔を見た。

 彼女は唇の端を持ち上げた。「私の推理が聞きたい?」

「うん」

「事実の断片その1。あなたは、あいかわらず女の子の右側に座る癖が直ってない。

 事実の断片その2。あなたは、昔、左手に腕時計をしていたのに、今は右手にしている。

 推理。

 私が仮に左利きの女の子だとします。左利きだから、私は右手に腕時計をしています。

 あなたは必ず私の右側にいます。

 あなたが左手に腕時計をしていると――」

 ここで彼女は、自分の右腕を男の左腕に近づけた

「カチカチ。お互いの腕時計が邪魔になるでしょ。私の右手の時計と、あたなの左手の時計が当たっちゃう。だからあなたは右手に腕時計をするようになった。

 そして私が知っている左利きの女の子は啓子だけ。どう?」

 良一は少し考えてから、いった。「そんなことぐらいで腕時計の位置を変えるかな」

「あなたならやるわ。私は知ってる」

「たとえそうだとしても、相手は君の知らない左利きの女の子かもしれない」

「もし私の知らない子だったら、私が結婚の話をしたときに、あなたもしたはずよ。違う?」

 そこでようやく良一は降参した。

「違わない。その通りだよ。探偵になったら?」

 彼女は、その言葉を無視した。

 ふたりはしばらく黙り込んだ。

 やがて、ふたりが座っている背後の線路に電車が入ってきた。

 彼女が待っていたほうの電車だった。

「乗らないの?」と良一が尋ねた。

「別に急いでないから」と彼女は答えた。

 今度は二人が座っている側の線に電車が入ってきて、停車した。扉が開く。良一が待っていた電車だ。

「乗らないの?」と彼女が尋ねた。

「別に急いでないから」と良一が答えた。

 扉が閉まり、電車は行ってしまった。

「あの喫茶店、まだあるのね」

 彼女は、ホームから線路を隔てて見えている、古びた喫茶店を眺めていた。

「よく行ったな。コーヒーはまずかったけど」

「あら、でもあそこのサンドイッチはおいしいって、いっつもばくばく食べてたじゃない」

「いや、サンドイッチがおいしいのは南側の『ハッピイ』だよ」

「いいえ、あそこよ」

「そうかなぁ」

 ふたたび、ちょっとした沈黙が訪れた。

「ちがう。『ハッピイ』だよ。絶対」良一がいった。

 彼女は、あきれ顔で良一を見ていたけど、やがてくすくすと笑い出した。つられて、良一も笑った。

「思うんだけど」彼女がいった。「たぶん私たち、いつもこんなくだらないことで喧嘩してたのよね」

「たぶんね。あのさ、学校の近くに行った?」

「いいえ」

「さっき、久しぶりに学校の近くを通ったら、あのザクロの木、まだあったよ」

「ざくろ?」

「ほら、正門を下りていったところの家の角にザクロの木があってさ。君が今までザクロなんて食べたことないっていうから、俺、壁によじ登ってザクロの実をとったじゃない」

「そうだっけ」

「覚えてない?」

「うーん。ああ、そういえば……。うん。たしかにあったわね」

 彼女は、自分の足元をじっと見つめている。

「あのころはそんなこと思いもしなかったけど、いろんなことをどんどん忘れていっちゃうのね。そして忘れたことはたぶんもう二度と帰ってこないのよね」

「そうだろうな」

「うん」

「いろんなことがあったな」

「うん」

 今度の沈黙は、これまでとは違ってふたりに緊張を強いなかった。

 やがて、彼女が話し始めた。

「私ね、昔は目をつむってても、あなたの手を握るだけでそれが誰だかわかる自信があったんだけどな」

「試してみる?」

 良一が、右手を彼女の前に差し出した。彼女は、良一の手に自分の手を伸ばしかけたけど、良一の右手の腕時計に目が止まり、その手を引っ込めた。

「やっぱり、やめとく」

「そっか」

 良一も手を引っ込めて、右手の腕時計を見つめた。

「変かな。右手に腕時計するの」

「啓子にそうしてって、いわれたの?」

「いや、違う」

「あなたらしいわよ。あなたは他人に結構冷たいけど……」

 良一は笑った。「みんなからよくいわれたな。でも、自分ではそんなことはないと思ってたし、自分でいうのもなんだけど、俺って結構心根の優しい人間だと思うんだけどな」

「特定の人にはすごく優しいんだけどね。すごくすごく優しいのよ。ちょっと哀れなくらい。もしかしたら、どこかで収支バランスをとってるんじゃない?」

「そうかな」

「だって、結婚するっていった後、開口一番おめでとうっていってくれなかったのは、あなただけよ」

「ああ、いや、それは……」

 今度は彼女が笑った。「いいのよ。あなたにあっさりそういわれたら、どうしようかと思っちゃった」

 良一がなにかいいかける前に、彼女がいった。

「ごめん、忘れて」

 ふたたび、彼女の側の電車が近づいてきた。

「もう行くわ」彼女がいった。

「うん」

「会えてよかった」

「俺もだ。元気で」

「あなたもね」

 ふたりは立ち上がって、彼女のいた方のベンチの前に回り込んだ。

「ひとつ聞いていいかな」彼女がいった。

「ああ」

「あなたが腕時計を右手にしてて、その理由を啓子は知ってる?」

「さあ。どうかな……」良一は正直に答えた。

 彼女はしばらく無言で良一を見ていたけれど、「さよなら」とだけいって、電車に乗り込んだ。

 電車が去っていくと、良一はまた、ふたりが座っていた方のベンチに腰かけた。

 良一が待っていた路線の電車が入ってきたけれど、今回も良一は乗らなかった。

 しばらく良一はベンチに座り続けた。

 やがて、スマートフォンを取り出すと、電話をかけた。

「ああ、ごめん。今、大丈夫?――いや、別にたいしたことじゃなないんだ。仕事が早めに終わったから、今日これから直帰することになった――うん。そっちは? もし出れるんだったら、今日どっかで食べて帰ろうか?――そっか。わかった」

 良一は線路の向こう側の喫茶店の灯りをぼんやりと眺めた。そして、スピーカーからの相手の声に答えた。

「ああ、うん――別に何かあったわけじゃないんだ。ほんとに、大したことは何もないんだ――まあ、それはちょっと」

 良一はためらいがちに口を開いた。

「すっごくしょうもないことなんだ。ほんと、忙しかったらいいんだよ。今日、帰ってからでも――じゃあ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 良一は足元に視線を落とした。

「腕時計なんだけど」

 良一は目を閉じた。

「うん。俺さ、腕時計、いつもどっちの手につけてるか、知ってる?」

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