Ⅲ オムレツ VS Omelette

Ⅲ-1

 今日は五時からピアノのレッスンだから、お昼過ぎくらいにうちに来て。

 同じクラスの吉崎恵子のその言葉を律儀に守って、篠原しおりは恵子の家に午後一時頃に着いた。

 門柱のインターフォンのボタンを押してしばらく待ったけれど、一向に反応がない。

 もう一度ボタンを押そうと手を伸ばしかけたとき、玄関のドアが開いて、青年がひょっこりと顔を出した。髪はぼさぼさで、顔色が悪く、ガウンのような丈の長い服を羽織っている。

「どーぞ」

 間の抜けた声で青年はそう言い残し、またドアが閉まった。

 しおりは戸惑った。

 さっきの青年はたぶん恵子の兄だ。

 名前も知らないその青年の存在は、幼なじみである恵子を通じて知っていた。しおりが恵子の家に行くと、必ず青年がいた。いつも彼は居間のソファに寝転がってテレビを見たり、本を読んだりしていた。しおりが青年とまともに会話を交わしたことは、これまで一度もなかった。

 恵子はいないのだろうか。

 門扉にカギはかかっておらず、扉を押すと簡単に開いた。

 しおりは小さな庭を横切って、玄関のドアの前に立った。

 どうしよう。

 帰るにしても、一度声をかけたほうがいいだろう。

 そう思って、ドアを開けて中に入った。

 玄関は花の匂いがした。

 下駄箱の上に置いてある花瓶に、ピンク色の花が差してある。

 しおりは花の名前に詳しくなかったから、何の花かわからなかった。

 恵子の家の玄関には必ず花が活けてあった。

 帰ったら真似してみよう。

 この家に来るたびにしおりはそう思うのだけど、家に帰る頃にはそんなことはすっかり忘れてしまうのだった。

「あのー」

 玄関から、家の中へ呼びかけてみたけど、答えはなかった。

 足元には、さっきの青年が脱いだと思しきサンダルが、ばらばらの方向を向いて脱ぎ捨ててある。

 しおりはそのサンダルをそろえると、靴を脱いで家にあがった。

 すぐ右手にあるリビングの入り口を覗くと、さっき顔をのぞかせた青年がソファに座ってテレビを見ていた。

 しおりに背を向けているのに、青年はまるでしおりが見えているかのように、「どうぞー」と一人掛けのソファを指さした。

 しおりは恐る恐るソファに腰を下ろした。

 青年はパジャマの上に、毛玉のついたよれよれのガウンを羽織っていた。髪の毛は寝癖が付いてあちこち跳ねあがっている。少し神経質そうに見えるけど、繊細な顔立ちだから、もう少しちゃんとすればいいのにと、しおりは思った。

「恵子ならもうすぐ帰ってくるぜ。待っててもらってくれとさ」

 青年はそういって、手元に視線を落とした。

 青年の手には小さなナイフと、木片が握られていた。

 青年はナイフでその木片を削り始めた。

「あんた、篠原の妹だろ。篠原かおりの」

 青年の言葉にかすかな敵意のようなニュアンスを感じて、しおりは身構えた。

「そうだけど」

「篠原かおりね」青年は、木片にふっ、と息を吹きかけた。「俺、これまで八十人くらいの女と知り合ったけどさ、篠原かおりほどいけ好かない女には会ったことがないな」

 青年のいい方があまりにも素っ気なかったから、しおりは怒るタイミングを逸してしまった。しかも不思議なことに、自分の身内の悪口をいわれたのに、腹は立たなかった。

「そう思わないか?」青年がしおりに尋ねた。

「まあ、あんまりいい性格はしてないと思う」

 青年はちらっとしおりを見て、テレビに視線を移した。

「お姉ちゃんと、どこで知り合ったの?」

 今度は青年はしっかりと、しおりの顔を見た。

「どこって。学校に決まってるじゃないか」

「学校って?」

 青年はしおりの姉が通っている高校の名前を挙げた。

「同じ高校なの?」

「もう卒業したけどな」

 高校を卒業しているということは、自分より少なくとも五歳は年上ということだ。目の前にいる青年は五歳よりも、もっと年上に見えた。

「参るよな、まったくさ」

 一瞬、青年が何をいっているのかわからず、しおりは「えっ」と聞き返した。

 青年はテレビ画面に顎を向けた。

「こんな奴を大統領に選ぶなんて、どうかしてるぜ。まったくのところさ」

 テレビ画面にはアメリカの大統領が映っていた。

 画面が切り替わり、中東の国から撤退していく軍隊のニュース映像が映し出された。

「なあ、あんた。あれ見たことある?」

 テレビの画面を見たまま、青年は尋ねた。

「あれって?」

「風の谷のナウシカ」

 一瞬、どう答えていいかわからず、しおりは戸惑った。でも正直に答えた。

「……見た。テレビでだけど」

「あれはすごいよな。そう思わないか?」

 しおりは驚いた。

 自分の周りで、自分よりも年上の人間が、アニメをこんなにも正直に褒めているところを見たことがなかった。アニメなんて子供の見るものだ。それが大人たちの共通認識だと思っていた。

 青年は再び木片を削り始めた。

「これから何十年たっても、ずっと語り継がれるぜ、あれは。もし、いつか世の中に大変なことが起こって、人々が路頭に迷っても、こいつがあればなんとかなる。そんな作品だぜ、あれはさ」

 しおりは青年のいっていることがほとんど理解できなかったけれど、本当にあのアニメのことが好きなんだということは伝わってきた。

「じゃあ、原作は読んだか。漫画の」

 しおりは首を振った。「ううん。読んでない」

「そいつは、人生の十分の一くらい損してるぜ。まったくのところさ」

 人生の十分の一がどの程度重要なものなのか、しおりにはまったくイメージできなかったから何も答えずにいると、青年は木片を持っている方の人差し指をしおりに向けた。

「読め。とにかく読め。本を貸してやってもいいけど、でもそれじゃだめだ。自分でお金を払って、買え。一冊たかだか四百円だ。今、四巻まで出てるから全部買っても千六百円だ。あの内容で、だ。安い。安すぎるぜ」

 そこでふと、我に返ったように、青年は黙り込んで、また木片を削り始めた。

 しおりは青年の話よりも、彼の手元がずっと気になっていた。

 青年の手は、まるで女性の手のようにすらりと細く、そして長かった。爪も、まるで透明なマニキュアを塗っているみたいにつやつやしていた。

 思わず見とれてしまうくらい、美しい手だった。

 青年はまた、ふっ、と木片に息を吹きかけて、しおりの前のテーブルに音を立てずに置いた。

 木片は、小さな犬の形に削られていた。

 青年の美しい手が木の犬からそっと離れて、ガウンのポケットにしまわれた。

「なあ、あんた。お腹空いてないか」

 しおりは昼ご飯を食べたばかりだったから、首を振った。

「そうか。俺、今から昼飯作るんだけど、待ってる間一緒に食べないか」

「でも……」

「オムレツだから、それほどヘヴィじゃないぜ」

 しおりはオムレツが大好物だった。

「じゃあ、少しなら」

「よし。ちょっと待ってな」

 青年は立ち上がって、キッチンに向かった。

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