第7話
早朝まだ陽が昇る前に、鈴村さんからメールで散歩のお誘いがきた。
お互いどこに住んでいるのかも知らない間柄で、散歩のお誘いという響きは大層奇妙に思われる。しかし、鈴村さんから送られてきたメールの件名が『散歩のお誘い』で、本文にも『これは散歩のお誘いです』というどこか怪しげな文言が記されるばかりであったものだから、用件はまさしく散歩のお誘い以外の何ものでもなかった。
鈴村さんのメールの文章が奇妙であるのはこれまで通りのことで、それ自体はさして気にもならなかったが、今回の散歩のお誘いについては、僕はどうにも乗り気になれなかった。
率直なところ、鈴村さんが僕に求めるものが分からなかったのだ。
あるいは遊園地へのお誘いであれば、一人の知人として彼女に同行し、一緒に苦手なコーヒーカップを回すくらい構いはしないが、散歩だとそうもいかない。どこを散歩する予定なのかは不明ながら、僕と鈴村さんのこれまでの関わりを思い出すにつけても、およそ彼女の提案する散歩とは二者面談と同義に思われた。
散歩中、好奇心旺盛な鈴村さんが僕を質問攻めにするのは間違いなく、それが簡単な質問であればともかくとして、以前のような僕の内省を要求する類のものであったら堪らない。
あるいは、内省の過程で醜態を晒し、彼女に嫌われるのが怖いだけかもしれない。
いずれにせよ、僕は彼女に対し好意的な感情を抱いている一方で、あまり頻繁に出会いたくないとも考えていた。
とはいえ、そのお誘いを断ることは困難である。
一度目の上野公園へのお誘いを受けた瞬間から、鈴村さんは僕にとって知人の立ち位置を確保したのであり、今後はたかが散歩とはいえ、知人に対し不義理を働くことは躊躇われた。
とりあえず、返事をしないままでいることが一番よろしくない。どのような返答をするべきか少し悩んだが、一先ず件名もなしに『いつですか?』とだけ送った。
この日取りを尋ねる文言に秘められた僕の意図は、とにもかくにも鈴村さんのお誘いを断る口実を見つけることにあった。
これまで周囲から遊びに誘われた際は、さも予定が入っている振りをして乗り切ってきた。今回も、具体的な日取りが提案されてしまえば、そこに予定を被せることで容易に鈴村さんの誘いを断ることができるだろうというのが、僕の算段であった。
しかしこのやり口は、おまけで僕が誘われた場合ならばいざ知らず、二者面談を断るためのステップとしては明らかに誤りであった。
一分後にやって来た返信メールには『山本さんはいつなら都合が良いですか?』と記されており、つまるところ、彼女は僕が散歩に乗り気であると受け取ったのである。
考えてみると鈴村さんの解釈は当然で、散歩自体に魅力を感じていないならば、わざわざ日取りを確認する必要もない。あるいは、面と向かっての会話であれば、『いつですか』の五文字に隠された僕の真意が伝わったのかもしれないが、それを無機質なメールに期待することは困難であった。
今さら、やっぱり散歩になんて興味ありません、などと送る勇気はない。僕は仕方なしに、『都合のつく日を改めて連絡します』とだけ送り、スマートフォンの電源を落とした。
今日も大学に行かなければならない。
***
何事もなく一日を終えて、帰宅後すぐにシャワーを浴びると、時刻は八時半であった。そこからのんびりと夕食をとり、就寝準備が整う頃には時刻は十時を回っていた。
今日中に済ませるべき課題等もないため大人しく布団に入るが、普段よりも二時間は早い消灯時間とあって、中々眠気が訪れてくれない。それでも僕は、いつでも眠りにつけるようにと、瞼を閉じて手足を脱力させた。
しかし目を瞑ると脳のキャパシティーに余裕ができるのだろうか、却って色々なことが思い出される。
こんな時、瞼の裏に映し出されるのはいつだって同じ情景。
出来る妄想も毎日一緒。
僕は中学生時代を思い出し、ああすればよかった、こうすればよかったと、悔しさに下唇をかみしめる。
過去の話。ありもしない仮定の話。どれだけ頭を働かせたところで、僕の中学生活が輝きを取り戻すことはあり得ない。それでも、中学三年生時の出来事が僕に与えた影響、その可能性を精査することは避けられないことでもあった。
いっそのこと、今までのことをおさらいするために、遺書でも書いてみようかしらと思い付く。それは案外面白そうな試みで、遺書という実際の行動が介入することにより、僕の中途半端な自殺願望が果たしてどのような変貌を遂げるものやら、少しばかり興味が湧いた。
ふと脳裏によぎるのは、どうせ遺書を書くならば、島崎教諭の実名を出して出来るだけ彼にダメージを与えてやりたいという思い。
しかし一方で、島崎教諭なぞに僕の人生が狂わされたなんて周囲には知られたくない。となると書くべきことは一体何なのだろうか? 少なくとも、自分自身に問題があるから自殺しますだなんて、そのような敗北宣言は間違っても唱えたくなかった。
そう考えると、実際の文章は少しも思いつかないながら、文面の方向性だけははっきりとしてくる。
僕の理想とするところの遺書とはつまり、この世の理不尽に対する怨嗟の声をこれでもかと溢れさせた上で、尚且つそれが単なる負け犬の遠吠えとなり下がらぬように、どこか達観した視線も取り入れなければならないのだ。
中々に難題であった。講義のレポートの方が、調べ学習ができる分、幾らかましかもしれない。
気軽に筆を執ることは許されないと気付いた時、何が遺書だ馬鹿馬鹿しいと、途端に自らの発想が価値を失う。
僕は自嘲的に鼻を鳴らしながら、ふと考えを止めて、机の上においた安物の時計をちらと見た。今まで一度も開放したことのない遮光性に乏しい薄っぺらなカーテンは、月明かりかそれとも街灯かは分からないが、外の光が部屋に侵入するのをそれほど妨げない。うっすらと浮かんで見えた時計の針は、十時半を示していた。
もう時計を見るのは止めよう、僕はそう思った。
時間が経つのが早ければ、くだらない妄想に時間を費やしたという事実が僕を苛む。時間が経つのが遅ければ、眠気が訪れるであろう時刻までの長い道のりが逆算されて、うんざりした気持ちになる。
もう目を開いてはいけない。夜は、何も見てはいけない何も感じてはいけない時間なのだから。
明日は良い日でありますように、などともはや意味を失った祈りを心中で唱えながら、僕はじっとじっと意識を失う瞬間を待ち続けた。
***
僕はどうしてこうなのかと悲しくなる。
これはまずいな、とプラスチックのきしむ音が聞こえるくらいに強く、目覚まし時計を握り締めた。
今日は鈴村さんとのお散歩の日だった。以前出会ったあの駅で、午前十時に待ち合わせ。
現在の時刻は九時二十五分、しかし僕はパジャマのまま自室のベッドに寝転がっていた。
寝坊したわけではない。むしろ目覚まし時計の鳴る前、いつもより一時間以上早い五時頃には目を覚ましていた。先ほどまでは部屋備え付けの回転いすに腰掛けて、呑気に小説なぞを読んでいたのだ。
駅までは自転車で十五分。万全を期して、五分前行動の五分前行動をとったにしても、九時半に自宅を出れば間に合う。僕は九時過ぎに着替え等支度を始める心づもりで読書を続けていた。
少なくともその時点では、待ち合わせ場所に行く意思があったのだ。
しかし、自ら設けた目安であるところの九時が近づくにつれて、僕の心にどうしようもない感情が芽生えてきた。
つまるところ、僕は突然に、鈴村さんとのお散歩に行きたくなくなったのである。より正確に言えば、お散歩に行きたくないのはお誘いを受けたその時から変わらないが、それでも彼女に対する義理を果たすためには誘いに応じなければならないと、一度は固めたはずの決意が揺らぎ始めていた。
僕の意志が弱いのは今日に始まったことではない。例えば朝起きた瞬間は大学に行く気満々であるのに、わずか数十分後には布団にくるまり直しサボタージュを働くようなことも少なくない。それは大学に入学して以来ずっと変わらない。とはいえ、授業をサボったからといって誰に迷惑をかけるわけでもない、問題が僕自身に留まるからこその所業であった。
少なくとも、人付き合いの性質を持つイベントについては、ドタキャンはおろか待ち合わせ場所への遅刻さえ一度も経験のないことであった。
にもかかわらず僕は今、遅刻が視野に入る時刻にあっても、往生際悪く布団にしがみついていた。
別に鈴村さんのことは嫌いではないはずだと、僕は繰り返し繰り返し自身に言い聞かせる。もちろんそれは洗脳じみた自己暗示などではなく、実際に僕は鈴村さんのことをむしろ好いてすらいる。
しかし、好きとか嫌いとか、そのようなことは問題ではなかった。
今日は人に会いたくなかったのだ。
時計の秒針が二回りした。
僕は布団を挟んだ股をパカパカと開け閉めする。
刻限が迫って、しかもそれを破ろうかという悪魔の囁きが聞こえる時は、いつも不思議な感覚に囚われている。下肢だけが独立して宙に浮いているような、にもかかわらず股のあたりに神経が集中しているような、体中が脱力したような、今握力計を握れば二桁にも達しないような、そんな感覚。
サボるにせよ、サボらないにせよ、決断を下した瞬間、この不思議な感覚は消え去ってしまう。それは悲しいことではなかったが、少し寂しくはあった。優柔不断が僕の本質で、情けなく布団にしがみついている間だけ、僕は僕らしくいられるのではないかなんて、そんな訳の分からない考察が脳裏に浮かんだ。
手元の目覚まし時計をじっと凝視したところで、秒針が動きを止めることはない。これが電波時計ならば、いっそアルミホイルで包んでやれば、あるいは時が止まるんじゃないかと、思考が迷路に入り込む。
刻限までの猶予が欲しいのやら、揺れる自らに浸っていたいのやら。
時間よ止まれと、僕は小さく囁いた。
***
十五分の遅刻であった。
何事も経験だとはよく言うが、その経験が活きる場面に偶然巡り合う瞬間までは、慣れない事はすべきでなかった、と後悔ばかりが踊り狂うこともしばしばである。
大体のところ、僕は人を待たせることに不慣れであったのだ。遅刻するくらいならば、いっそ急病を理由にして待ち合わせ場所に足を運ばないほうが、相手の心証はともかくとして、僕の心は余程晴れやかであったのかもしれない。
「そんなには待っていませんよ」
と笑顔で話す鈴村さんが、その心の奥でどれほどの怒りを燃やしているのやら、疑心暗鬼にかられた僕は言葉も上手く話せなくなってしまう。
「……本当にごめんなさい」
かすれた声で謝罪の言葉を口にしながら、僕は罪悪感とも恐怖心とも知れぬ内因性の強心剤に悩まされていた。
そんな僕の挙動不審をどう受け取ったのかは定かでないが、鈴村さんは突然に奇妙な提案を切り出した。
「ゲームをしましょう!」
鈴村さんの声は駅構内の人混みにあってもよく通る。
周囲の通行人がぎょっとこちらに眼球を向ける様子に、僕も同じくぎょっとする。
「……何のゲームですか?」
と小声で問い返すと、鈴村さんは神妙な顔をして人差し指を立てた。
「『一人二役ゲーム』です」
「一人二役ゲーム? ……ごめんなさい、聞いたことがないです。有名なんですか?」
「いいえ、無名です。今、思いつきましたから」
「はぁ……何をするゲームなんですか?」
「簡単ですよ。例えば山本さんがプレイヤーだとしたら、山本さんと私の会話を、山本さんが一人でやってのけるというだけです」
そう言って鈴村さんはにこりと笑ったが、僕は少し混乱していた。
「えっと、つまり、僕の独り言を鈴村さんが横で聞いているということですか?」
「少し違いますね。あっ、歩きながら話しましょうか」
「あっ、そうですね」
ゆっくりと歩いて駅を後にしながら、会話を続ける。
「えっと、先ほどの続きですが。もちろん喋るのは山本さん一人ですから、独り言と言えば独り言ですけれど、あくまでも山本さんと私が会話している体でその独り言は繰り広げられなければなりません」
「じゃあ、僕が鈴村さんになりきって、僕と僕の演じる『鈴村さん』の会話を、僕が一人でべらべら喋るってことですか?」
「ええ、そういうことです」
「それはちょっと……」
遠慮したかった。
まず一人二役云々の前に、一人でべらべらと喋り続けること自体が恥ずかしい。
まして、他ならぬ鈴村さんの目の前で『鈴村さん』を演じるというのは、恥ずかしいというよりもむしろ恐ろしい試みであった。なんせ、台本などは存在しない。今この場で僕が『鈴村さん』を演じるためには、彼女の心について、僕が僕なりの解釈を加えなければならない。
上手に演じられなければどうなるのだろうか。鈴村さんは、僕が彼女のことをこれっぽっちも理解していないことに失望するのだろうか。それとも、余人には計りきれない自らの個性に自信を深めるのだろうか。
逆に上手く演じきった場合はどうなるのだろうか。僕の分析力に感心するのだろうか。それとも、ストーカーじみた分析を気持ち悪く感じるのだろうか。
あるいは一つの可能性として、鈴村さんははなから僕に上手な演技などは期待してはいないのかもしれない。そもそもの話、鈴村さんの気持ちについて僕がいくら想像力を働かせたところで、僕が本来抱き得る以上の感情など思いつくはずもない。
つまるところ鈴村さんは、僕の考えを知りたいのかもしれない。
そう考えてみると、一人二役という方式は、案外理にかなったものにも思われる。僕にとって演じやすい即興劇とは、すなわち僕の考えが真っすぐに反映されたものに他ならない。上手いことゲームを遂行しようと流暢な喋りを心掛ければ、そこには僕の真意が僅かばかりは浮かび上がるに違いない。
なるほど考えたものだと、僕は勝手に想像した鈴村さんの思惑に感心していたが、その折にふと気づく。仮に僕の思う通り、鈴村さんが僕の心を知るためにゲームを発案したのだとして、果たしてその計画に乗っかってやる必要はあるのだろうか。
あるいは僕をゲームに誘いたいならば、手本というわけではないが、まず言い出しっぺである鈴村さんが、『僕』と彼女の一人二役を披露すべきではないだろうか。
とはいえ正直なところ、僕は鈴村さんの演じる一人芝居など聞きたくもなかった。劇中に垣間見えるであろう彼女の考えにさほど興味がないのもそうであるが、それ以上に、彼女の演じる『僕』、つまり彼女の思う『僕』がどのような人物であるのか知らされるのが、少し怖かったのだ。とんでもない性悪であるのか、それとも常軌を逸した聖人であるのか。いずれにせよ、それを真正面から聞かされて、平常心を保つ自信などなかった。
今この瞬間心が乱れれば、きっと今日の寝つきは優れたものにはなりえない。
最近は、たかが寝つきとは侮れないほどに夜眠れないことが辛かった。体調に響くのは言うまでもないことながら、近頃は頓にそうであるように、暗闇の中長い時間目を瞑ったまま何も考えずにいられるほど、僕は器用な人間ではない。もちろんそこで生じた思索の時間を何か有意義な考えに充てられるならばいざ知らず、実際に脳裏を埋め尽くすのは、いつも通りの、中学時代に思いを馳せた下らない後悔だけなのだ。
考えてもみれば、これは非常に不思議な現象である。睡眠を妨げるきっかけたるイベントは鈴村さんとの交流であるにも関わらず、実際眠れない間僕が悩まされるのは間違いなく中学時代の思い出なのだ。
鈴村さんが僕にとって取るに足らない存在であるかと言えば、もちろんそのようなことはない。彼女とのあれこれで得られた葛藤は、まさしく僕を悩ませるに足るだけの重みを持っているに違いないのだ。
にもかかわらず、僕の思考が中学の思い出にしか向かわないのは、結局のところ、僕は心の奥底で諦めているのかもしれない。
つまり、僕を悩ませる人生の挫折、それは人間関係に留まらず、大学のレポートであまり高い評価を得られなかったり、あるいはうっかり電車に乗り過ごしたり、考え得るおよそ全ての失敗が、中学時代の悪夢に起因しているような気がして、それら一つ一つの出来事に対する葛藤は、輝ける中学時代を取り戻せない内は、どうあがいたところで根本から解消されることはないのだと諦念しているのだ。
我ながら、しつこいと言うべきか、恨みがましいと言うべきか。
僕という人間は、ひょっとして、中学時代の出来事などは関係なしに、本来ろくでもない人間なのではないかと、ふと考えてしまう。
それは非常にまずい考えで、その論を突き詰めていけば、虚ろな自尊心さえ失った僕は、もはや生きる資格を失ってしまう。
苦しまずに死ねるのならば、それも悪くはないのかもしれない。しかし、ここでいう苦しみには、肉体のみならず精神に対する苦痛も当然含まれるのである。仮に無為に散らした僕の命が、まさしくあの島崎教諭関係なしに、もとから散って当然の矮小なものであっただなんて、そのような事実を突きつけられることは、恐らく考えうる中で最も手におえない苦痛であるに違いない。
だからこそ僕は、ほどほどに高潔な人間であらねばならないのだ。そして尚且つ、高潔がゆえに島崎教諭の存在に苦しめられた、生を楽しめない不幸者でなければならないのだ。
あるいは、ただ悲劇のヒロインぶりたいだけなのだろうか。
これは危険な思考であった。
僕は深くため息を吐いて、考えることを止めた。これほどまでに実際的な意味の込められたため息は、ひょっとして初めてかもしれなかった。
そういえば、今は鈴村さんと会話中であったのだ。随分黙り込んでしまったと、僕が彼女の顔をちらりと見やると、彼女もまた僕の顔をじっと見つめていた。
目が合った瞬間に、鈴村さんが口を開く。
「考え事は終わりましたか?」
「あっ、ごめんなさい」
僕が慌てて謝ると、鈴村さんは笑いながら「いいえ」と首を振る。
「お気になさらず。意外に思われるかもしれませんが、例えば人と一緒にいるときであっても、必要ならば黙想して然るべきだと私は考えているんです。もちろん初対面の相手を前にして考え込んでばかりいるようでは、会話、というよりも広い意味での交流に滞りが出てしまうでしょうから、あまり好ましくはないでしょうけれど。ただ私と山本さんの仲ですから、考えなければならないことがあるならば、そのためにしっかりと自身の内面を見つめ直すことは、お互いにとって有益なことだと思います」
「はぁ……ありがとうございます」
僕と鈴村さんが果たして無言の空間を二人で楽しめるほどに親しい仲であるものだろうかと、何となしに腑に落ちない感覚を覚えていると、僕の不満を感じ取ったのか、鈴村さんは小首を傾げ、年下の少年に意地悪するかのような挑発的な笑みを僕に向けた。
「私と山本さんの仲とは一体何ぞや、って思いましたね?」
「いえ、そんなことは……」
「いいんですよ、正直に仰ってくれて。確かに、私と山本さんの間柄に名前を付けるのは難しい気もします。最も簡単な言葉は『友達』や、あるいは『知人』でしょうか? でも私の経験に照らして考えると、ただの友達と本音で語り合おうとは思いませんし、知人なんて言わずもがなですね。
……それとも『親友』はどうでしょうか? 言いたいことを思う存分ぶつけあえる気の置けない関係、という意味ではある種適切であるようにも思えますが……どうでしょうね。私個人の感覚としては、山本さんを親友と呼ぶのは少し違和感があります」
そう言って、鈴村さんは目をつむった。
そもそも親友という言葉自体が、僕にとっては霞みのようで実体を持たないものだから、果たして鈴村さんの抱いた違和感がどのような感情であるのかは見当もつかない。
しかし、違和感がある、という感想それ自体については、僕も同意見である。
それが鈴村さんの抱く違和感と同質のものかは分からないが、僕も彼女のことを親友だとは思えなかった。さらに言うならば、僕は彼女のことを友人と呼ぶことにすら抵抗を覚えていた。
「確かに僕も、鈴村さんのことを親友だとは思えません。……あと、少し言いにくいことではありますけれど、僕は鈴村さんのことを友人だとも思っていません」
我ながらとんでもない台詞だと思う。このようなことを鈴村さん本人に伝えたところでいったい誰が得をするというのか。彼女は落胆するかもしれないし、僕は罪悪感に首を絞められるだけのことである。
言わなきゃよかった。
僕が早くも後悔していると、鈴村さんはキョトンと目を丸くした。
「それは、なんというか、手厳しいと言いますか、衝撃的と言いますか……そのようなことを面と向かって言われたのは初めてなので、何とお返しすれば良いのやら悩ましくもありますが……」
「すいません……」
「いいえ、構いませんよ。正直にお話ししてくれたことは、嬉しくもありますから。……ただ、一つお聞かせ願いたいのは、山本さんはどうして私のことを友人だとは思わない、あるいは思えないんですか?」
突然の告白に鈴村さんも戸惑っているのだろう、いつもの陽気が鳴りを潜め、かくれんぼをしているみたいに、吐息に言葉を乗せるような、不安な声で尋ねる。
「……それは」
どうしてだろう、と僕が答えを見いだせずにいると、鈴村さんはぎゅっと目を瞑り、小さく二回首を横に振った。
「いえ、この聞き方はあまり公平でありませんでしたね。そもそも私たちの関係に『友達』という名をつけるのは適切でないと話したのは、私の方が先でしたから。……おかしな言い方ですけれど、私が山本さんを友達というカテゴリーに当てはめるべきではないと考えているのは確かですが、だからと言って、山本さんに友情を感じていないわけではないんです。つまり、友達という言葉の一般的な定義を考えれば、山本さんは少なくとも私にとっては友達です。
ただ、私はいわゆる普通の友達に、本音でものを言い合うような明け透けな関係を求めてはいません。別に彼らのことを軽んじているというわけではありませんよ? でも、表面上どれだけ仲良く振舞っていたにしても、本心を曝け出してしまえば、相手を不愉快にさせる一面を誰だって一つくらいは持っていると思うんです。
そういった弱みやエゴのようなものを受け入れ合える関係こそが友達なんだと、当然のように言ってのける人もたくさんいます。でも、私はそうは思いません。繰り返すようですが、人間誰しも心の内ではろくでもない思想の一つや二つ持っているはずなんです。
もちろん、真っ当に築けた友人関係であるならば、そのような心の毒を受け入れ合うことも、確かに可能なんだと思います。でも、それはあくまでも可能か不可能かの話でしかありません。その毒は、どこまで行っても毒でしかないんです。友達だからそれを受け入れてくださいなんて、そんなの、ただ相手に我慢を強いることと本質的には何ら変わりないじゃありませんか。
それこそが人間関係に付随してしかるべき苦しみなのだと悟ったように言う人もいますが、私には受け入れがたいことです。自分で生み出した毒くらいは自分で消化してこそ、理想の友人関係が築けるのだと、私は信じています。だから、強みも弱みも見せ合えるような相手は、私にとって、もう、友達とは呼べないんです。友達だからこそ、手放しに称賛し合えるような関係を構築したいんです。
……偉そうなことを申しましたけれど、じゃあ今こうして、山本さんに好き放題意見をぶつけているのはどうなんだという話ですよね。だからこそ悩ましいんです。そもそも私と山本さんの関係は、最初から、ある程度は本音で語り合うことを前提としたものであったように思います。まあ、要するに、土台から私の思う友達の基準からは外れてしまっていたんですね。
ただ先ほどお話ししたように、私は山本さんに対して友情と呼べる感情を抱いています。友達ではないが、友情は感じている。じゃあ親友なのかと言えば、それも違和感がある。どうでしょう? 私にとっての山本さんは、どのような立場にいると思いますか?」
喋り疲れたのだろうか、鈴村さんはそう言って、突然僕に質問を振った。
それにしても、厄介な問いだと思う。そもそも鈴村さんの語った友達の定義は鈴村さん独自のもので、僕はその考え方を共有することができない。
もちろん彼女の言わんとせんことは分かる。端的に言えば、お互い嫌なところを見せずにいた方が、関係を維持するために必要な広い意味での気遣いが少なくて済む分、より理想的な友人関係を築けるだろう、とただそれだけの話であるのだ。
とはいえ、それを理解して尚、僕は鈴村さんと同じ壁にぶつかっていた。
「鈴村さんが僕に抱く友情は、他の友人の方々に抱いているものと、同じものなんですか?」
「……全く同じだとは言えないように思います。ただそれは山本さんだけが特殊というわけではなくて、ひとえに友人と言っても、結ばれた関係性は相手によって様々ですから。同性か異性か、同い年かそうでないか、あるいは少し品のない話ですが、例えば私よりも学力に優れているかそれとも劣っているか。
個性という便利な言葉がありますけれど、箇条書きにしていけばきりがないほどに、絶対的にも、そして相対的にも、人間一人ひとり異なった特性を持っています。彼ら全員に全く同じ感情を向けるのは少し難しいことです。なので、最初の質問に戻りますが、私が山本さんに感じている友情は、他の友人らに向けているものとは別の感情です」
「その、僕に向けている感情に、友情以外の名前を付けることはできないんですか?」
「別の名前ですか? そうですね……きちんと考えれば色々と思いつきそうではありますけれど、出来ることなら、今と変わらず友情という言葉に縋っていたい気もします」
『友達』という言葉の厳密性にこだわった鈴村さんらしからぬ発言である。
「どうしてですか?」
僕がそう首を傾げると、鈴村さんははにかみながら、右手で前髪を分けた。
「なんと言いましょうか、私と山本さんの関係って、少しドライというか、例え嫌味を言い合ったにしてもお互い受け流してしまえそうな、どこか感情が欠落したような一面を持っていますよね? だから本来であれば、そこに友情という言葉を当てはめるのは不自然にも思われるんです。でも、私は山本さんと一緒にいるとき凄く楽しいですし、この気持ちを無機質な言葉で言い表してしまうのは、少し寂しい気がして。だから、友情というどこか暖かみのある表現に頼ってしまいたくなるんです」
そう言って、鈴村さんは恥ずかしそうに頬を紅くした。
言っている彼女も恥ずかしかろうが、聞かされる僕としても同じくらいに恥ずかしくなる台詞であった。頬が熱くなるのを感じる。
「そうですか」
「ええ、そうです」
と意味のない相槌を打ってから、僕たちの間にしばしの沈黙が流れた。
そういえば、特段意識もしないまま鈴村さんの隣を歩いていたが、彼女はどこに向かおうとしているのだろうか。南に向かっているようであるが、まさかこのまま僕の暮らす学生宿舎に向かうわけでもあるまい。
あるいは散歩というくらいだし、特に目的地を設定するでもなく、歩きやすい道を歩いていくことこそが肝要であるのかもしれない。
ふと気づいたが、今日の鈴村さんは前回出会った時よりも背が低い。
ヒールではないからだ。
考えてみれば至極当たり前のことで、これから歩き回ろうというのにわざわざ歩き難い靴を選択する理由もない。しかしそれにしても、スニーカーを履いた鈴村さんは、思っていたよりもずっと一歩が大きくて、十五分も歩いていれば良い汗がかけそうであった。
しばらく無言で歩いていたところ、鈴村さんは突然こちらに顔を向けて、
「何か思いつきました?」
と微笑んで見せた。
何かとはつまり、僕たち二人の関係を適切に表す言葉は何かということである。
正直なところ、鈴村さんの歩幅に気を取られるあまり、その話題についてはすっかりと失念していた。何も思いついてなどいない。
とはいえ、ぼーっとしていましたと正直に答えるのも少し悔しかったため、無理やりに言葉を捻り出す。
「……メル友、とかはどうですか?」
「メル友ですか? えっと、それはどういう理由で?」
「鈴村さんにとっての僕は、確かに親しみを感じる相手ではありますが、同時に、本質的にはどこの誰ともしれない匿名の存在で、だからこそ、本音をそれほど遠慮なくぶつけられるのかな、と思うんです」
「ああ、そういうことですか。今こうして顔を突き合わせているにもかかわらず、メル友、メール友達とはどういう意味かと思いましたが……そういえば、本音を語るならば匿名で、というのは私自身が言ったことでしたね」
そう言って鈴村さんは、考えをまとめているのだろうか、少し上を見つめながら再び黙り込む。
鈴村さんの思考を邪魔することは本意でないが、これだけは言っておかなければならないと、僕は慌てて付け加えた。
「もちろん、以前仰っていた懺悔室の話は当てはまらないと思いますよ。だって、僕は神父様という柄ではありませんから」
「そうですか? 山本さんなら、案外、法衣と聖書だって似合うかもしれませんよ? まあ、逆の立場、私がシスターというのもあり得ない話ですし、罪の告白という考え方は、少なくとも友情に代わる言葉としてはあまり適切でないでしょうね」
鈴村さんはそこまで言うと、小さく息継ぎをした後に、ゆっくりと続ける。
「メル友という喩えは、確かに私たちの関係、その一面を正しく言い表しているようにも思えます。でも、少し我が儘かもしれませんが、ちょっと喩えが喩えにすぎると言いますか、やっぱり直接会って直接言葉を交わす、顔も名前も知った相手に対してメル友というのは、それだ、と手を打つことはできませんね。……ごめんなさい」
「いえ、そんな。ただの思い付きですから」
申し訳なさそうに眉を下げる鈴村さんに、僕はどこか言い訳じみた慰めの言葉をかけた。
またもや沈黙が走る。
今日の鈴村さんは、彼女自身が最初に宣言した通り、ただ会話を繋げるためだけの言葉を口にするつもりはない様子であった。
しばらく無言で歩き続ける。休日だからだろうか、駅に続く車道はいつもよりも少しだけ空いている気がする。だからと言って、辺りが静寂に包まれるようなことはもちろんないが、腹部を揺らす車の振動がほんの僅かに弱まるだけで、僕はこの道に歓迎されているかのような気持ちがして、嬉しかった。
今、鈴村さんは何を考えているのだろうか。まさか僕同様に、道の混み具合に思いを馳せているようなことはないであろう。
横目でちらりと鈴村さんの顔を見れば、彼女はじっと中空を見つめていた。きっと、考え事をするときは空を見上げるのが、彼女の流儀であるのだろう。いつだって下を向いて考え込む僕とは大違いだ。
ふと思うのは、鈴村さんの頬にかかった髪の毛は、今日もまたとても綺麗だということ。短髪の僕が気にしたところで何の甲斐もないが、一体どんなシャンプーを使えばあれほどにさらさらと流れるのだろうかと、不思議でたまらなかった。
鈴村さんの髪に潜む神秘を見つめ続けている折に、鈴村さんはふとこちらに視線をやって、にこりと笑った。
「色々と考えてはみましたが、なかなかこれだという表現は見つかりませんね。なので、『私にとっての山本さん』という議題については、今後の課題ということでよろしいですか?」
今後があるのかとぼんやり考えながら、「はい」と小さく返事をすると、鈴村さんは尚も明るい声で続ける。
「よかった。まあそれはさておき、最初の話に戻りましょう。山本さんはどうして私のことを友達だとは思えないんですか?」
そう問い直されて、友達がどうとかいう話題は、僕の不用意な発言に端を発していたのを思い出す。
そしてその答えは、鈴村さんの話を聞いているうちに、僕の中でしっかりと固まっていた。
しかし正直なところ、あまり答えたいとは思えなかった。
というのも、その理由は大したものではないのだ。少なくとも鈴村さんが抱いていた悩みとは比較にならないほどに、ありふれた、あるいはどこかで聞いたような、今更考察を加える価値もないような理由であった。
加えて言うならば、少なくとも鈴村さんにとっては不愉快な話になる。
しかし、鈴村さんは本心を語ってくれたのだ。僕だけが、つまらない理由だから、不愉快な話だから、と口をつぐんでしまうのは、あまり公平なこととは思われない。
僕は鈴村さんを楽しませるために話すのではない、ただ自分の意見を口にするだけなのだと、決心を固めた。
「結局僕が斜に構えているというだけのことなんです」
そう切り出すと、鈴村さんは「というと?」と素早く先を促す。
「一人は寂しい、だなんて世の中は簡単に言ってくれます。でも僕の場合は、『一人を存分に楽しめているか』と問われれば威勢よく頷くことはできませんが、少なくとも『一人でいる時と複数人でいる時、どちらが気楽か』と聞いてくれれば、一人でいる方が楽だと、自信を持って言えるんです。
慰めではありませんけれど、あえてそのことを好意的に捉えるならば、一人でも生きていけるということは、僕の長所でもあると思います。ただ、そのせいでしょうか? 色々な人が友達だなんだ、飲み会だなんだと騒いでいると、意味もなく反感を覚えてしまって……。
別に、本心ではそういった交友関係に参加したくて、でもそれが叶わないから妬んでいるとかそういう話ではないですよ? 人によって色々と趣味があるのは当然で、僕にとっては友人関係の中で得られる享楽よりも、一人黙々と本や漫画を読むことで得られる喜びの方が勝っているのは、それ自体は特段悲しむべきこととも思いませんから。
そう、色々な人がいて、その中でも僕は一人が好きな人間だと、ただそれだけで話は終わるはずなんです……。でもどうしてでしょうか、人付き合いを好む人間と、好まない人間、両者には優劣なんてないのだと理屈では分かっているつもりなのに、本当は僕のように一人で生きる人間の方が強い人間なんじゃないかって、そう思いたくなってしまうんです。
ひょっとしたら、僕の中でコンプレックスがあって、本心の本心では、友達と楽しく遊んでいる人たちを羨望しているのかもしれません。あるいは、僕がお一人様向きの人間であるのは間違いないにしても、人付き合いを楽しめる人たちに、その人付き合いが楽しいことだと宣言されてしまうと、相手はどうやったって複数人ですから、僕の中で勝手に多数決を取ってしまって、勝手に負けた気持ちになって、それは違うだろうと異議を唱えたくなるのかもしれません。
そういった人たちに対する僕の反論は、人間関係そのものを否定することで完成するような、どこか稚拙な感情論です。要するに、友達は良いものだ、と楽しげに話す人たちに向けて、貴方たちの語る『友達』は上っ面だ、空虚だ、そんなものは『本当の友達』ではない、と心の中で見下すんです。そうして、薄っぺらな人間関係に頼らなければ生きていけない人間よりも、一人で生きる僕の方がずっと強い人間なのだと、自分を慰めるんです。
……じゃあ僕の思う『本当の友達』とは何かといえば、これが何ともお笑い種で、どんな欠点も、嫌な感情も、全てひっくるめて受け入れてくれる、理想の、と言えば聞こえは良いですが、その正体は僕に対してだけ都合の良い人形のようなものです。
そして僕はその『本当の友達』たる人間の条件を頭の中に箇条書きして、それを満たさない人物に対しては、この人はせいぜい『知人』が良いところだろうと、心の中でどこか距離を置くわけです。
……つまり、どうして僕が鈴村さんを友達とは思わないか、という最初の質問に戻ると、鈴村さんが僕の思う『本当の友達』の条件を満たしていなかったから友達ではないのだ、というお答えになりますね。もちろん、その条件全てを満たす人間なんて、世界中見渡したって見つかりっこないんでしょうけれど」
僕はそこまで話した後に、大きく一つ息を吐きだしてから、
「すみません」
と謝罪の言葉を口にした。
「……どうして謝るんですか?」
「だって、僕が見下そうとしている友人関係は、まさしく鈴村さんがこれまで築いてきた人間関係を指しているでしょうから。だから……すみません」
鈴村さんは、しばらくの間、言葉を口にしなかった。
怒らせただろうか。それとも、失望させただろうか。いずれにせよ、僕の言葉が鈴村さんの生き方を否定する性質を持っていたのは間違いなく、彼女はきっと傷ついただろう。
だから嫌なんだ、と思った。
僕のような歪んだ人間が思いをそのまま口にしてしまえば、意味もなく人を傷つけ、無用な軋轢を生み、最終的には僕自身が立ち直れなくなってしまう。
こんな時にまで自分の心を心配しているのかと、僕は自身の身勝手に驚かされた。あるいは中学時代、島崎教諭にぶつけられた「お前は自分勝手な奴だ」という言葉は、まさしく正鵠を射たものであったのだろうか。
本当に笑えないことである。
島崎教諭の言葉が正しかったとすれば、この数年間、僕が思い悩んできたものは一体なんであったのか。僕の感じた苦しみは本来ただの幻で、あるいは本当は、僕こそが島崎教諭やクラスメイトらを苦しめていた諸悪の根源であったのか。
そんなはずはない。
そんなはずはないのだと、これまで何度もしてきたように、島崎教諭の理不尽を、そしてクラスメイトや両親の無関心を、善意と悪意の両面から検証し直してみるのだが、たった一つ自身の根本的な欠点を見出してしまうと、もはや彼らのくれた悪意が、まさしく僕という悪しき存在に向けられた真っ当な処遇であるように思えてしまう。
額に酷く粘り気のある汗が伝うのを感じた。
視界にノイズが雑じる。
車の音が段々と遠くなっていく。
それは非常に懐かしい感覚であった。
***
「山本さん!」
どうやらそれは、四度目の呼びかけであったらしい。
網戸をナイフで引き裂いたかのように、素早くノイズが晴れていく。
「はい」
存外しっかりした声で僕が返事をすると、鈴村さんは心配そうに目を細めながら、僕の顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか? 少し呆然とされていたようですけれど。どこかで座って休みましょうか?」
「はい、あっ、いえ、大丈夫です。ちょっと考え事のようなものをしていただけですから。お気になさらず」
「……きつくなったらすぐに言ってくださいね。たかが散歩です。体調が優れないようでしたら無理をする必要なんて少しもありませんから」
「はい。ありがとうございます。でも、本当に大丈夫ですから」
尚も心配そうな表情でこちらを見つめる鈴村さんに、僕は努めて笑顔を向けてはみたが、その笑顔がどこか引きつったものであることは、鏡に頼らずとも明らかであった。
僕の顔を検分するかのようにじっと見つめた後に、鈴村さんは素早く切り出した。
「今日はもうお開きにいたしましょう」
「えっ?」
余りにも早い決断に驚かされる。
「繰り返すようですけれど、たかが散歩、たかがお喋りです。続きはいつでも、どこでもできますから。……山本さんの家はこの先の寮でしょう?」
気づけば、すぐ傍には日ごろ使うスーパーマーケットがあって、僕の暮らす学生宿舎までは歩いても五分とかからない距離にあった。
どこに住んでいるのか、住所まで教えたことはないが、大学の名前、学生宿舎に住んでいること、そして最寄りの駅。これだけの情報が揃えば、少しネットで調べただけでも、僕の住処など簡単に割り出せただろう。あるいは、鈴村さんはこの辺りの道に明るい様子であるし、ひょっとしたらあの学生宿舎に知人でもいるのかもしれない。
「駅までは自転車でいらしたんですよね? 置きっぱなしだと、超過料金など、何かまずいことはありますか?」
「いえ、月極なので……」
「では、寮までお送りしますから、今日のところは真っすぐ帰宅してください」
「……すみません」
「謝るようなことではありません。体調不良は誰にでもあることですから」
そう話す鈴村さんの歩幅は、先ほどよりもずっと狭くなっていた。僕を気遣ってのことだろう。
改めて見れば、鈴村さんのスニーカーは汚れ一つなく真新しさを感じさせる。左右対称に固く結ばれた靴紐がどこか泣いているような気さえして、僕はまた、酷い罪悪感に襲われていた。
***
帰宅してすぐ、シンクの上に備え付けられた水跡だらけの鏡に顔を映してみたところ、それはもうどうしようもない表情をしていた。
鈴村さんが心配するわけだとすぐさま腑に落ちた。
蒼ざめるとはかくありなんといった様子で、普段は存在を主張してやまない頬の赤らみがすっかりと姿を消している。
最近は寒くなってきた。帰ったらしっかりと温かくして休むように。
鈴村さんにはそう厳命されたが、困ったことに眠気が訪れない。頭が働く限り、きっと、ただひたすらにどうしようもない考えばかりが脳内を埋め尽くすのだろう。
肉体と精神その別を問わず、眠らずに休む方法などはあるのだろうかと疑問に思われる。いっそのこと、見栄で購入したきり書店の袋から取り出してすらいないような難解な哲学書たちに力を借りて、無駄な思考の余地を封殺した方が、休めるかどうかはともかくとして幾らかは気が楽になるのかもしれない。
ひょっとして、世の読書家たちは皆同様の理由で書物に手を伸ばすのだろうかと、失礼な考えまでもが脳裏をよぎる。
もう何も考えたくはなかった。
睡眠薬が欲しいな、と思った。
お医者様に症状を聞かれたときに何と答えればよいのだろうか。夜眠れません、生きることにどこか不安を感じてしまいます、睡眠薬を使って自殺する方法はありますか?
何を答えても、今の僕にとってはどこか芝居じみた、つまるところ自身を慰めるために他人の同情の言葉を引き出すような、卑怯な張りぼてに感じられてしまう。
本当に手に負えないことだと思った。
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