人食い魔女と最後の生贄
霧崎圭
その1
深い山々が薄い朝日の中にその身を晒している。
硬い葉の常緑樹を身にまとった山たちは、よく見るとうっすらと白い粉のようなものがかかっていて、もともとの暗い茶色と、木の緑色とで複雑な模様を形作っていた。無論最初からこうだったわけではない。雪が降ったのだ、昨晩のうちに。
――雪が降ると、この地方に長い冬がやってくる。
土地の大半が深く険しい山地であり、厚く冷たい雪に覆われるこの地域の冬は人にはもちろん獣にとっても厳しいものだ。大半のものは土の下や洞穴に潜り、晴れ間でもなければそうそう外に出てこない。
そんな獣すらうろつかない山道を、一つの影が進んでいく。
影は人の女の姿をしていた。肌は絹のようにきめ細かくて白く、髪の毛はくすんだ銀色で腰のあたりまである。目は血のように赤黒く、顔は綺麗に研がれた刃のように鋭く端整な面持ち。彫像のように細くしまった身体に黒い布を身にまとっている。よく見るとそれは黒く汚れたドレスであり、ところどころ擦り切れたり、ほつれたりして影が歩を進めるたびその切れ端がひらひらと舞う。そのさまはまるで風を切る鳥の羽根のようだ。
影は――「彼女」は雪の積もった山道をゆるゆると、しかし確実に足をすすめる。
よく見るとその足に履いているのは見にまとっているドレスと同じ黒いヒールであり、とても山道を進めるようなものではない。しかし、彼女の足取りはそんなことを少しも感じさせないほど確かなものであった。それはこの山という空間から完全に切り離されているようでもあり、あるいは完全に一体化しているようでもある。
いずれにしろ――彼女の外見や一挙一動が、
――この世のものではない、と暗に主張していた。
ふと彼女が足を止める。その目の前には何も無く、人はもちろん獣の影すらない。鳥の鳴き声はおろか草木がこすれる音すらしない。しかし彼女の「感覚」は確かに「何か」を感じ取っていた。
彼女は「感覚」を「何か」を感じた方向へと伸ばしていく。
この山は文字通り彼女のものだった。周囲一体に網のように張り巡らした「感覚」は程度の差こそあれ、その中にあるもの全て明敏に感じ取ることができた――それこそ羽虫一匹まで。
彼女は「感覚」の糸を真っ直ぐに伝っていき――やがてひとつの場所に行き着く。
彼女の「領地」の一番端――そこにある石のほこら。
瞬間、ふっと彼女は笑う。口の端を歪めた皮肉な笑み。まるで自分自身を笑っているようにも見えた。だがそれもすぐに消え冷たい表情に戻る。
ややあって、また彼女は歩きだす。
強く確かな足取りで、彼女の住まう世界の果てへと静かに足を進めていった。
◆
昔々――と言ってもそれほど昔の話でもない。せいぜい百年から二百年前。
この国のとある地方の領主に一人の娘がいた。
娘には上に二人兄弟たちがおり、彼女が小さい頃から仲が悪かったが、領主が年老いて後継者問題が出るとそれは決定的なものとなった。やがて領主が病に伏せると兄弟たちは半ば公然と跡目を巡って争うようになり、娘もそれに巻き込まれた。そのうちについには毒を盛られて、少しずつ弱っていった。
そしてその生命がついに尽きようとしているある日の晩、娘の枕元に悪魔が現れこう告げた。
――お前はもうすぐ死ぬ。それも間違いなく今夜中かそうでなくても後二三日の間に――
――だが、おれと契約すればその生命永らえさせるだけでなく、永遠に続くものにしてやろう。いかなる剣や毒にも傷つけられることの無い身体だ――
――いや、それだけではなくいかなる剣や魔法よりも強い魔力も与えよう――
――無論、タダではない。代償は――
――悪魔が告げた代償は「人を食う」ことだった。成人の男なら約一年、老人や子供ならその半分寿命が延び、その間は絶対に死ぬことはない。それと同時に強い魔力も得る――
娘は当然迷った。そこらの人並みには優しく傷つきやすい少女だった。人の命を理不尽にまで奪ってでも生きたいと思わない――いつもの彼女ならそう答えたかもしれない。けれど、その瞬間理不尽にも命を奪われようとしているのは彼女の方であり、その恐怖に打ち勝つすべを娘は知らなかった。かくて娘は契約を受け入れ、ヒトならざるものとなった。
――そこから殺戮が始まった。
彼女は、城の人間を、自らを殺そうとした兄弟を、ことごとく「食らい」、自らを殺そうとした兵士たちや、付近の村や町の住民もことごとく返り討ちにした。彼女の行く手には殺戮と悲鳴の炎が煌々と燃え上がり、それはどんどん燃え広がっていって、あとに黒い瓦礫と灰だけを残していった。やがて国一つを滅ぼしかねないほどの炎となった彼女を人々はこう呼んだ――「人喰い魔女」、と
さて、いかなる剣や魔法を持ってしても魔女を止められず、都まで攻め上られそうになった国王は一計を案じた。国中の魔術師たちを集めると、魔女を都への進行方向にある山脈へと誘導し、そこに結界を張って閉じ込めたのである。これによって結界から外に出ることができなくなった魔女は、人を「食う」ことができずそのまま朽ち果てることになるはずだった。
――だが魔女が結界のうちに閉じ込められてから何十年も経ったころ、あることが判明した。
魔女の肉体が朽ち果てたとき、その内に蓄えた魔力が呪いとなって放出され――周囲一体を汚染する可能性が出てきたのである。呪いで汚染された土地はありとあらゆる命が死に絶え、住むことができなくなる。そして魔女が閉じ込められている土地の近くには決して多くはないものの人が住んでいた。
結界もあくまで魔女個人を閉じ込めておくためのものであり、汚れた魔力の塊である呪いに対して完全に機能するかは分からない。ありとあらゆる対策が議論されたが、いずれにしても呪いを完全に防ぐことは難しいのではないかという結論に達した。そのうち誰かが言った。
――魔女が死ぬのがダメなのなら死なないようにすればいい。
山々に囲まれ土地も決して肥沃とは言えず、冬になると餓死者すら出ることすらある土地で、「口減らし」として魔女を生かし続けるための「生贄」を差し出すという選択肢が出てくるのは何の不思議もなかった。かくして毎年冬が近づくと近隣の村々から一人ずつ生贄が出されるようになり、それが何十年にも渡って続き、いつしか伝統と化していった。
そして今年もまた――その季節がやってきた。
◆
――寒い!?
薄い布を目の前におろしたような暗闇の中で、リンは目を覚ますないなや跳ね起きた。身体にかかっていた布がずり落ち、鋭い冷気が直に全身に突き刺さる。慌てて布を手に取り身体に巻き付けた。多少マシにはなったが、歯の根はまるで噛み合わずガチガチと音を立てる。
寒さに震えながら、周囲を見回す。少しずつ目が慣れ、目の前の薄い布が剥がれていく。
石造りの広間だった。足元には大きさがまちまちな石レンガが敷き詰められ、一定間隔で細い石の柱が立ち、その間をアーチ上の梁で繋いでいる。造りは決して良いとは言えず、とりあえず建てたという感じで、お世辞にも手入れが行き届いているとは言いがたい。そんな広間の中央にある小高い台の上にリンは寝かされていた。見ると台のあちこちには不思議な文様が彫ってある。見る人が見れば分かるのだろうが学の無いリンには意味が分からない。それでも、ここがどんな場所かは分かった。
(――祭壇)
右の足首に目を向ける。そこには鉄の輪がはまっていて、リンからそれほど離れていないところの石レンガに打ち付けられた金具と、鉄の鎖によってつながっている。リンが足首を少し動かすと、チャラチャラと音を立てた。金属と金属がこすれる、無機質な高い音。
(……来ちゃったんだ)
音が身体の中を通り抜けるのを感じながら、リンは何もない空間を見つめた。自分でも驚くほどなんの感情も湧かなかった。来てしまえば――いざ目の前に死がせまれば――何かしら強い感情が湧くと思った。もっとみっともなく泣きわめいたりするものだと思っていた。それなのに、昨晩の村の集まり――「生贄」を送り出す前に行われる儀式だ――の間と対して心持ちが変わらなかった。ただただ平らな原っぱに一人で立っているようで、そこには草が揺れるほどの風すら吹いていなかった。そしてそれは今に始まったことではなく――ここ数ヶ月の間ずっとリンが心の中に飼っている光景だった。
ふと自分を包んでいる布に目をやる。毛布のように上等なものではないが、かといって寒さを全く防げないほど薄いものでもない。昨晩リンが寝ているうちに運んできたが、寒さがひどかったので夜のうちに死なないようにかけておいたのだろう。多少温まってきたものの相変わらず寒い身体を震わせながら、布の機能の中途半端さがまるで今の自分の立場を示しているようだと思った。死にはしないが、かといって全く大事に思われているわけでもない。ただ死ぬまでは、生かされている。
そうしているとふと、自分の周りの空気が変わったのを感じた。
相変わらず周囲は薄暗い闇が張り付いている。けれどその中に流れる目に見えない流れのようなものが突然変わったのをリンは感じ取った。そしてその違和感が少しずつ濃くなってきていている。思わず背筋がのび、身体が固くなる。何かが、近づいてきている。
リンは布の下の身体を静かに震わせながら、それが来るのを待つ。
やがて目の前の薄暗闇から「それ」は姿を表した。
「それ」を最初に見た瞬間、リンが連想したのは大きな鳥だった。春になると彼女の住む村に現れては道端の虫をついばんでいる、つややかな羽を持った黒い鳥。それを何倍も大きくして人の姿に似せたようだった。ただしこちらは薄暗い中でもはっきりと分かるような銀色の長い髪を生やし、赤い目が静かに輝いていた。
リンの眼の前にいる「それ」はどういうわけだか暗闇の中でもはっきりと姿が見え、石畳の床をこちらの方に向かって歩いてきているのに足音がほとんどしなかった。よく見ると風も無いのに来ている黒いドレスがほんの少しだけなびいている。地面ではなく宙を歩いている、そんな風にリンには見えた。
「それ」はやがてリンのすぐ目の前で歩みを止めた。近くで見たそれの肌は蝋のように白く、怜悧な顔立ちをしていた。リンは布の下で、少し息を呑む。
(――魔女だ)
かつて悪魔に魂を売り、国を一つ滅ぼしかけたもの。
何百何千もの人間を「食らい」、その生命で永遠の命と魔力を手にしたもの。
そしてこの土地に閉じ込められ、今は生贄で細々と生きながらえるもの。
小さい頃からおとぎ話として聞いてきた存在が、圧倒的な質感を持って眼の前にいることに、ひどく現実感が湧かなかった。けれど目の前の人物の一挙一動から放たれる人のものではない空気が、リンに現実を突きつけてくる。
すなわち――この女の人は間違いなく「魔女」であり、
自分は彼女への生贄となるためにここまで来たのだと。
「――あなたが」
魔女が口を開いた。冷たく乾いた、抑揚のない声。
「あなたが――今年の生贄?」
リンは首をすばやく二回縦に振った。寒いのに口の中が夏に畑作業をしたあとのように乾いている。
魔女は少しの間目を細めてリンを近くから眺め回すと、再び口を開いた。
「今年はずいぶん若い娘――というか子供なのね」
魔女は手をリンの頬に伸ばす。手は雪のように冷たく、触れられたところからじわじわと冷気が染み込んで行くようだ。
「ここ数年はずっと老いぼればかりだったのに――見たところ五体満足の子供だし、とうとう差し出す人間すらいなくなったのかしら?」
「――名乗り、でたんです」
リンは魔女を見据えながら言った。考えてきたとおりの言葉を、ちゃんとそれらしく聞こえるように吐き出していく。
「――弟がいるんです。生まれたときから足があんまり良くなくて、畑とかも手伝えなくて――それでもお父さんとお母さんがいるうちは良かったんだけど、ちょっと前に亡くなって村に身内もわたし以外いなくなって――で、ちょうど今年はうちの村から「生贄」を出す番で――」
魔女はしゃがみながら黙って聞いていた。リンは続ける。
「村には適当な人がいなくて弟が差し出されるのは間違いなくって――生贄を出した家からには領主様から報奨金が出るから、それを使えば遠くの街のお医者さんにかかれるんです。それで――」
「名乗り出た、と。お麗しいこと」
魔女は冷ややかに言った。そして「まあどうでもいいけど」と言って立ち上がる。
「心配要らないわ、痛みは一切ないから――私がこうして手をあなたの胸に当てて「食べたい」と思うだけ――それだけであなたの身体はこの世界から綺麗さっぱり無くなる――」
そう言って魔女はリンの胸に向かって白い手をまっすぐ伸ばしてきた。リンは思わず目をきつく閉める。
「恨まないでね、私だって死にたくは――」
暗闇の向こうからまるで調子の変わらない魔女の声が響く。リンは食われる瞬間を待った。
一秒。
二秒。
三秒。
四秒。
――何も起きない。リンはこわごわ目を開いた。
目の前には相変わらず魔女がおり、リンに向かって右手を伸ばしていた。ただその顔には明らかに動揺の色が張り付いていて、凍った瞳はここではないどこか遠くを見ているようだった。思考が完全に停止してしまったその表情には先程までの神秘的な雰囲気が嘘のように消えていてリンは思わず目をパチクリさせる。
(なんか――)
――自分とそう年の変わらない女の子に見える、とリンは思ってしまった。絶対にそんなはずはないのに。
そんなふうにしてリンが魔女を見つめていると、瞬間魔女は我に返ったのか先程までと同じ冷たい表情に戻った。ただそれまでとは違ってどこか無理に表情を繕っているように見えた。いかにも冷酷に見えるような、人を寄り付かせないような表情を顔に強引に貼り付けている。そんな風に。
「――興が削げたわ」
そう言って魔女は目をそらすと、リンから背を向け自分がもと来た方向へとずんずんと歩いていった。その速さはほこらの中に入ってきたときよりもずっと足早で、あっという間にその姿は薄暗闇へと消えた。あとに呆けた顔をしたリンだけが一人だけ残される。ほこらに冷たくて乾いた風が吹き込んだ。
それからいくら待っても魔女は戻っては来なかった。
ほこらの外から荒れ狂う風の音が聞こえる。
魔女がほこらを去ってからすでに何時間も経過していた。昼間でも薄暗いほこらの中はすでに闇に染められ、身体の奥深くまで突き刺してくるような冷気に支配されている。時折細かい雪のかけらが中に吹き込んでくる。どうやら外は猛吹雪らしい。
リンは布を肩の上までかぶる。周囲の視界は一面黒く塗りつぶされ、自分の眼の前に手を持ってきても見えるか見えないかという状態だ。身体は芯まで冷え切って手足の感覚すらなくなりつつあり、徐々に思考にももやがかかりつつある。前後左右のない暗闇の中でぷかぷかと浮かんでいる、そんな感覚に囚われつつあった。
そんな状態のリンがふと前方に目を向けると、うっすらと光が見えた。最初は見間違いかと思ったがそれは少しずつ大きくなってこちらのほうに近づいてくる。リンは身構えることもできず、それをただぼんやりと見つめ続ける。やがて光はリンの前で止まり、その中にいる人の姿を映し出す。――魔女だ。
魔女はリンの姿を一瞥すると、パチンと一回指を鳴らした。次の瞬間パキンと言う高い音がリンの足元から響く。リンが恐る恐る手を伸ばすと足首の鉄輪が外れていた。
「動ける?」
リンは首を縦に振る。かろうじてという感じだったが全く動けないというわけではない。それを見た魔女がもう一度指を鳴らすとドサリという音を立てて何かがリンの上に落ちてきた。どうやら毛布のようだ。
「それをかぶっていきなさい。少しは温かいでしょうから」
「――えっと――」
「ここにいたらまず間違いなく氷漬けよ。凍えながら死ぬのは嫌でしょ」
魔女はさっさと歩き出した。リンがわけが分からずその場に釘付けになっていると後ろを振り返る。
「早く来なさい。あとで苦しみもなく私に食われて死ぬのとどっちがいい?」
リンはその場で少しだけ考える。どうやら選択肢はあまりない。
ややあって毛布を頭からかぶり、光の射すほうへと足を踏み出した。
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