第8話 鬼
蝶子はじっと待つことができず、ぐるぐると家の中を歩き回った。
もし光の君に何かあったらどうしよう……
その言葉ばかりが頭の中を幾度も巡っていた。
ビビは歩き回る蝶子を不思議そうに見ている。
しかし蝶子はふと足を止めた。
(私も自分の足で探しに行きたい。一人でも人が多い方が、早く見つかる可能性が高いはず)
一度そう思い始めると、衝動を抑えることができなかった。
蝶子はハルさんに部屋に戻ると嘘をつき、裏口からこっそりと抜け出した。
袴に履き替え、手には護身用の木刀を握り締めていた。
辺りに人気はあまりなかったが、警察官の姿が時折見られた。
源太郎らが通報したのかもしれない。
こんな時間に木刀を持った少女が一人で徘徊していたら、間違いなく怪しまれる。
蝶子は警察官に見つからないよう細心の注意を払いながらも光子を探した。
その後小一時間程歩き回ったが、光子の姿は見つからなかった。
少し休憩しようと木にもたれると、そのまましゃがみこんだ。
(今頃光の君は何事もなかったように家に帰ってきていたりしないかしら。そうだったらいいのに)
自分の苦労が徒労だったことを、明日ちょっと怒りながら光子に伝える場面を蝶子は想像した。
光の君はごめんごめん、といいながらあの笑顔をまた見せてくれる……きっとそうに違いない。
蝶子はそう思いたかった。
そのとき、人影が近づいてくるのを感じた蝶子は、木の陰に隠れた。
早く通り過ぎてほしい、そう思いながら息を殺した。
その男はふらふらとした足取りで、目は虚ろ。
よく見ると着ている着物の前面が血でべったりと汚れていた。
蝶子は慌てて木の陰から飛び出した。
「あなた、そのケガは……!」
その人の目は蝶子を捉えると、無言でこちらに歩み寄ってきた。
「………?」
少女はそこで初めて男の様子が普通とは違うことに気づく。
その男はケガをしていない。
――誰かの返り血だ。
それに気づいた蝶子は今までに感じたことのない恐怖を感じた。
男は足取りを速めると、彼女を腕で絡め取ろうとした。
蝶子はその腕を間一髪でかいくぐると、一目散に逃げ出した。
しかし男は案外足も早く、蝶子が隠れてもその場所がまるで分かるかのように追ってきた。
こんなときに限って人の姿を見つけることができず、誰かに助けを求めることもできなかった。
蝶子は恐怖に煽られ、めちゃくちゃに逃げ回った。
するといつしか知らない細道へと入り込み、とうとう行き止まりへと追い込まれた。
少女は木刀を前面に構え、戦うことを決意した。
手はわなわなと震えていたが、木刀を硬く握り締めることしかできなかった。
蝶子は相手が間合いに入るのを見計らい、力いっぱい木刀を振り抜く。
その一撃は見事に相手の鎖骨辺りを捉え、バキッという音がした。
もしかすると骨が折れたかもしれない、蝶子はそう思った。
しかし男は一旦歩みを止めたものの、再び蝶子に近づいてくる。
驚いた蝶子は二撃、三撃と相手を叩くが、まるで痛みを感じていないようだった。
木刀で戦っても勝てない。
そう思った蝶子は決死の思いで男の脇をすり抜けようとした。
しかし男はその瞬間を見逃さず、ものすごい力で蝶子の腕を掴んだ。
手首を強引に引っ張ると、もう一方の手で少女の華奢な肩を力一杯壁に押し付けた。
「痛っ……!」
手首と背面に鋭い痛みが走る。
男の顔を正面から間近で見ると、目は充血し、理性を失っているようだった。
その姿は少女にとって恐怖以外の何者でもなかった。
男は彼女の首筋めがけて鋭く尖った歯を立てようと、口を開けた。
そのときだった、後ろに人影が見えたのは。
「……助けて!」
少女は最後の力を振り絞って叫んだ。
その人物はさっと刀を抜くと、男を一刀のもとに切り伏せた。
すると不思議なことに倒れた男の身体はさらさらと灰のようになる。
やがて男は原型をとどめない姿となり、あとには血糊がついた着物だけが残されていた。
「俺に助けを乞うとは、面白い」
蝶子を助けた人物は低い声でそう言った。
彼は着流しに長い外套を羽織った不思議な姿だった。
そして星明かりで照らされた瞳は、金色だ。
夜風で黒髪がさらさらとなびいている。
蝶子はへなへなとその場に座り込むと、息も絶え絶えにお礼を言った。
「ありがとうございます……おかげで助かりました」
「別に。ただの気まぐれだ」
男はつまらなそうにそう言うと、少女に背を向けた。
蝶子は彼にどこかで会ったことがある気がしたが、確信が持てなかった。
そしてそれ以上何も言えないまま、少女は彼が去っていくのを黙って見つめていた。
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