第9話 頰
その日は結局光の君を見つけることは叶わなかった。
あのあと警察官に保護された蝶子は、父からこっぴどく叱られることになった。
言いつけを守らず危険な目に合ったとなれば当然だろう。
ただ恭介は男が普通の人間ではなかったとか、切られて灰になったという部分には懐疑的であった。
医者という職業上、それは無理もないことなのかもしれない。
父の部屋から解放されると、そこには隼人が立っていた。
「隼人……どうしたの。何か用?」
「はい。ちょっとお話が」
隼人はなにかもの言いたげな表情だった。
「まさかあなたまで私にお説教しようっていうんじゃないでしょうね?私今日は色々あって疲れてるのよ」
隼人は不満そうな顔をした。
「どうして一人でお出かけになったりするんです。それじゃお守りすることもできない」
「しょうがないじゃない。皆私を置いて出て行ってしまったんですもの」
蝶子はそれに、と付け加えた。
「あれは普通の人ではなかったわ。木刀程度じゃ倒せなかった」
「俺にはお嬢さんを守れないと、そうおっしゃりたいんですか」
隼人は真剣な目で蝶子に食い下がった。
「あなたが弱いとは思ってないわ。でも、普通の人じゃ勝てないと言ってるの」
「じゃあ、それを倒したのは何者なんです」
蝶子は隼人の質問に言葉を詰まらせた。
「……わからないわ」
彼女はあの時仰ぎ見た金色の瞳を思い返した。
名前くらい聞いておけばよかったと、そのとき初めて思ったのだった。
少女は右手を顎に当ててしばし考えを巡らせる。
そのとき、隼人がはっとした顔をした。
「お嬢さん、その腕は……」
「え?」
蝶子は自分の右手首を見ると、あざができていることに気づいた。
「これは…多分あの男に手首をつかまれたときにできたんだわ……」
蝶子の腕には赤紫色に指の跡がついてしまっていた。
「ちょっとこちらへ来てください」
蝶子は彼に大人しく従い、ついていく。
そこは、邸宅内にある隼人の部屋だった。
「ここに来るのは久しぶりだわ……」
少女はきょろきょろと部屋を見回した。
六畳ほどのこじんまりした和室で、家具の配置自体は昔とあまり変わっていない。
ただ難しそうな参考書の類が本棚にぎっしりと詰まっていた。
「ちゃんと勉強してるのね……すごい」
隼人は特にそれに対しては答えなかった。
「ここに座って下さい」
隼人に促され、蝶子は素直に座布団の上に正座した。
「腕を出して下さい」
そう言うと隼人は手際よく湿布を貼り、包帯を巻いていく。
「ちょっと大げさじゃない?これくらいなら何もしなくても治るわよ」
「お嬢さんの腕に少しでも傷が残ったら大変でしょう」
「そうかしら……」
蝶子は包帯を巻く隼人の骨ばった指を見ながら、意識が朦朧としてくるのを感じた。
「ちょっと休んでいいかしら……?すごく眠いの……」
「え?」
隼人が驚くのをよそに、蝶子はこくりこくりと船を漕ぎ始めた。
「お嬢さん、ここで寝たらダメです」
隼人は慌てて少女を起こそうとするが、蝶子はゆらゆらと横になってしまう。
(明日こそ光の君を見つけなきゃ……)
その言葉を胸の中で反芻しながら、彼女はあっという間に寝息を立て始めた。
その横で唖然とする隼人になす術はない。
彼はしばらくして、はあ…と大きくため息をついた。
そして、つぶやく。
「男の部屋でこんなことして……何をされても文句は言えませんよ……」
無防備に眠る蝶子に、その言葉は届かない。
隼人は彼女の白い桃のような頬に、ゆっくりと手を伸ばした。
そのとき蝶子がわずかに声を出し、身じろぐ。
青年は触れるか触れないかのところでぴたりと手を止めた。
その手はしばらく静止すると、やがてゆるゆると彼の懐に戻された。
隼人は無言のまま押入れから布団を引っ張り出すと、蝶子の身体にそっと被せた。
「明日、旦那様が気付く前に起こしに来ます」
もちろん返事はない。
隼人は部屋の明かりを消すと、自室から去って行った。
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