3.

「考えて見つかるものなら、この店に立ち寄ったりしないでしょ」

 今までだんまりを決めていた篁が独り言のように言った。

 彼の言葉は正論であることが多かったが、そのものの言い方にサエはカチンとくる。慣れているはずの自分でさえそう思うのだから、会ったばかりの人間ならばいっそう気を悪くするのではないかと客人の様子をうかがった。

 しかし意外なことに彼女は、篁の言葉に同調しそれもそうねと頷いていた。

「やっぱりあなたに頼るしかないのかしら」

 そう言ってサエを見る。

 少し不服そうではあったが、それは、サエに対する不満というわけではなく、自分の手で解決できないことへの苛立ちなのだという。

「でも、餅は餅屋って言うしね。よし。サエさんとやら。その自慢のおもてなしで私を満足させてちょうだい」

 女はいたずらな笑みを浮かべた。

 その顔を見たとき、サエは誰かに似ていると思った。

 咄嗟にカウンター席に目を向けた。

 一瞬目が合ったはずなのに、篁は我関せずといった風に、無言のまま視線をそらす。

 サエは女と篁の間で視線をいったりきたりさせながら、なんとも言えない不安を感じていた。

 だが怯むわけにはいかないのだ。

「ま、負けないんだから!」

 緩んでいたエプロンの腰紐をきつく結び直し気合いを入れた。

 さらに自らを奮い立たせるには決まり文句が役に立つ。まるで自分に暗示をかけるかのように、いつもより何割増しかの笑顔も添えてサエはポーズを決めた。

「ようこそ、三途の川のホトリ食堂へ! まだまだ続くなが~い旅路に備えて、お腹いっぱい、心いっぱいに満たされていってね!」

 見事にやりきったはずだったが。

「そんなのもあるのね。わー、かわいー」

 ぱちぱちと乾いた拍手が食堂内に響いた。

 その音に隠れて篁が必死に笑いをこらえている気配が伝わってくる。

「た、篁さん! ぼーっとしてないで、いつものあれ! はやく用意してよ!」

 サエは恥ずかしさと腹立たしさで顔を真っ赤にしながら篁に八つ当たりする。

 篁はニヤニヤと笑いながらサエの言葉に従った。

 鞄の中から一枚の書類を取り出し、女の前に差し出す。テーブルの上でふわりと飛びそうになった紙の端を押さえるような手つきで、ペンを置く。一目で良い物だとわかる漆黒のボディはもとより、その持ち主の所作のさりげない美しさに、女はほうっと短く感嘆の声を上げた。

「あなたはオーナーさん?」

「ただの客だよ」

「そうは見えないけれど」

「確かに『ただの客』という表現では嘘になるかもね。でもオーナーなんかじゃない。ここは確かにサエちゃんの店だよ。そして俺は頼りになる常連客というところかな」

 そして特別な役割を担った客なのだと篁は続けた。

 トントンと指先で叩いて書類を示し、説明は必要かと問う。

 女はさっと目を通し問題ないと返したが、少し間をあけてから「信じられない」とか「さすがは死後の世界ね」などと続けて呟いた。

「これでいいかしら?」

 女は署名欄にサインして篁に返した。

「ああ。ここからはサエちゃんの仕事」

 微笑みながらそう言って書類を手に取る。

 篁が書類に不備がないことを確認するや否や、一枚の紙切れはぱちんと弾けて消えてしまった。紙は消えたが名前は残っていた。整った綺麗な字で書かれた女の名前がふうわりと宙に浮いていた。

 ひらひらと、誰かの吐息に流されることもなく目当ての場所を目指して進む。その名前がばらばらに解け、文字でなくただの細い線となってしまう前にサエは読み上げた。

「えっと……苗字が『めぐみ』さん?」

「名前みたいな苗字に、苗字みたいな名前で、ちぐはぐでしょ」

 女は呆れた顔で笑みをこぼす。だが嫌いじゃないのだと付け加えて、文字の行方を目で追った。

 何本もの黒い線に分かれた彼女の名前は、ゆらりゆらりと揺れながら、食堂の壁に貼られた八枚の短冊へとたどり着いた。

「私の死とともに、名前までもが消えてしまうという儀式なのかしら」

 恵は遠くを見つめるようなうっすらとした眼差しで自分の名前だったものを眺めていた。もしも彼女の言う通りだとしたら、己の名前が黄ばんだ短冊に染みこんでいく様子を、人はどんな気持ちで見届けるのだろう。

 彼女の憂いを打ち消すように、サエは満面の笑みを見せた。

「違うよ! これは、美味しい物を食べるための儀式!」

 腕まくりをして、黒い線が新たな文字となって再生するのを待っている。

 何も書かれていなかったはずの短冊には、間もなくして八つの料理の名が記された。それらが何のことなのか、恵にはすぐ理解できた。自身が親しみのある料理の名前ばかりだった。

「ふうん。さっきの書類、『記憶を覗く許可』というのはこういうことだったのね。それで、このあとは一体何をしてくれるのかしら」

 隣に並んだサエに視線を落とす。

 サエは真剣な顔つきで短冊と向き合っていた。しかしよく見れば、その眼差しはキラキラと輝き、喜びと期待に充ち満ちている。

 輝く瞳が一枚の短冊に釘付けになった。

 枝に成った甘い果実に手を伸ばすように、サエはやわらかな手つきで一枚の短冊に触れた。

 一文字目に指先が触れる。

 ぺりっと文字の端が剥がれた。

 紙に染みこんだインクであるはずの『文字』が、短冊から見事に分離したのだ。

 サエはその文字を剥がすなり、口に放り込むとゴクリと飲み込んだ。

 その様子を見守っていた恵は引きつった笑いを見せる。

「いくら不思議なことが起きてもおかしくない場所だからって、この光景はさすがに驚くわね」

 恵がそう言うとサエは笑顔を返した。

「こうすると、なんでも作れちゃうんだ」

 いっそう表情を明るくさせて、サエは自慢気に言った。

「……何をしてくれるのか、楽しみにしてるわよ」

 つられて笑った恵だが、瞳の奥には本人も気づかぬような、わずかな戸惑いの色があった。


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