13.

     ***


 オーブンミトンをはずして、シナモンロールをひとつ手に取った。

 焼き上がりは、真ん中がせり上がるようにぷっくりと膨れていて、同じように見えていた十二個の渦巻きは、その膨らみ方に個性が表れていた。

 まったく別の顔をした渦巻きの中から、少女はひとつを手に取った。

 すぐにサエにも勧めて、一緒に焼け具合を確かめるように促す。

 せーので口に入れた。

 サエはかぶりつき、少女は渦巻きの一番外側を一口分だけちぎって口に入れた。

 シナモンの香りでいっぱいになるのだと思っていた。それ以外は忘れるくらいに強い芳香が体いっぱいに広がるのだと思っていた。

 しかし少女は今、必死に他の匂いを思い出そうとしていた。

 幼馴染みの家の匂いだった。

 古ぼけた食堂でサエと一緒にシナモンロールを口にしたはずなのに、少女はどうしてか幼馴染みの家のリビングに迷い込んでいた。

「あなたの思い出の料理を食べたからよ」

 サエに事情を説明されてぐるりと室内を見回すと、ああやっぱりと少女は頷いた。それは確かに自分の中にある、あの日の記憶だった。

「私のシナモンロールのレシピは、そこの本に載っていたものよ」

 少女はリビングの床に散らばった本の内の一冊を指差した。ちょうど小さな男の子がパラパラとめくっていたところだった。

「あら、ずいぶん懐かしいものを出してきたのねえ」

 キッチンから二人の様子をうかがっていた少年の母親が声をかけた。

 尋ねられてもいないのに、昔はいろいろ作ったのよなどと饒舌に語る。それを聞いて、少年の手が止まった。母の言葉に気をとられただけではない。そのページにあった写真に目を奪われたからだった。

 天板の上に綺麗に並べられた白と焦げ茶色の渦巻きが、たまらなく魅力的に見えたのだ。

「おかあさん! パン作れるの? 僕、このパン――」

 彼の小さな手が、シナモンロールのページを指していた。

 どこまで母親の耳に届いたかわからない。ただ彼がどんな顔で言ったかは母の目にはっきりと映っていたはずだった。

 だからだろうか。

 少年の母親は困ったように笑って言った。

「作れたけど、最近は…………ね」

 そのあとに一瞬だけ視線がある方向を向いたのを少年は見逃さなかった。

 茶色い引き戸の向こうの部屋を見たのだ。その戸の向こうにいる、寝たきりの祖母を見たのだ。

 少年の顔から期待の色は消えた。

 それどころか、彼は申し訳なさそうな顔をして、そっと本を閉じていた。

「へえ、そうなんだ」

 つとめて興味がないという風に振る舞って、少年は本を閉まった。

 母親はごめんねと言いながら、壁の時計を見た。そして慌ただしくパートへと出かけていった。

「私はそれをそばで見ていた。だけどヤマトは何も言わなかったわ。おばさんにも私にも、ただへらへら笑って見せるだけ」

 そんな彼を見るのが嫌だったと少女は言った。

「目標もプライドも自分もない、どうしようもないやつなんて言ったけど、本当は違うのよ。ヤマトは優しいからなんでも譲ってしまうの」

 相手が悲しまないように。嫌な気持ちにならないように。負担をかけないように。そのためにはどうしたらいいのかを考える。

 だから彼は我が儘を言うどころかささやかな希望を口にすることもなかった。

「まわりのみんなは『あいつは空気が読めるいいヤツだ』なんて言っていたけど、私は好きじゃなかった。だって、みんなが褒めれば褒めるほど、どんどんヤマトが見えなくなってしまったんだもの」

 だから少女はシナモンロールを作った。

 うまくできるまで何度も何度も作り続けた。

 作ったところで何の意味もないのかもしれない。だが、あの日彼が引っ込めてしまった彼の意思をなかったことにはしたくなかった。

 彼のために練習してきたシナモンロール。

 何も変わらないかもしれない。

 だけど作ることで、渡すことで、何か変えられるかもしれない、変えてみたいと少女が強く望んで作ったシナモンロール。

 だからこそ、サエに任せるのではなく、最後にもう一度、自分の手で作りたいと願ったのだ。

「だけど結局、渡せなかったんだけどね」

 少女は寂しそうに笑った。

 なんとか体裁を保っていた笑顔は次第に笑顔とは呼べない顔つきになっていった。

 もう駄目だ。

 そう悟った彼女は我慢をやめて、声を上げて泣いた。

 そんな少女をサエはそっと抱きしめた。


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