蜜を吸う家族

伊東へいざん

第1話 鬼ノ子実験村

 西洋には(revenge is sweet)という諺があるそうだ。世の中には至る所に復讐の蜜の玉露が犇めいている。そうした蜜を吸い漁る家族があった。


 日本国憲法第三十一条に「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」とある。それまで認められていた復讐は、明治六年(1873年)二月七日に「復讐ヲ嚴禁ス」太政官布告第三十七号で出されて以来、禁止となった。根拠は、復讐即ち私的報復或いは自力救済を容認すると、実力行使を請け負う私的機関が蔓延り、復讐の連鎖が起こる。復讐が強者の特権となり、社会秩序の維持が難しくなるため、私人の介入を排するというものだ。

 お陰様で、世論はすっかり暴力全否定の風潮だ。それはやっちゃったもの勝ちにはならないか…加害者にとって有利に働かないか…刑を受けた加害者はそれでリセットだが、被害者は必ずしもそうはならない。被害者や被害者遺族は本当に加害者の更生を願っているのか…憎しみと慈悲の間で生き地獄を彷徨ってはいないのか…


 過疎高齢化に歯止めが効かなくなった豪雪の秋田県のある集落に、雪対策の実験村「鬼ノ子実験村」が建設された。雪景色は絶景であると同時にそこに住む者にとっては死と背中合わせでもある。豪雪地帯の一戸建ては毎年除雪に莫大な経費が掛かり、一冬で一年の生活設計を大きく疲弊させる。雪による隣家とのトラブルや、除雪費、暖房費による負担が生活を圧迫している。何故、雪対策が足踏み状態なのか…そこには除雪産業に群がる族議員の闇もある。


 そうした最中、角館-鷹巣間を走る単線・秋田内陸線沿線の鬼ノ子村地域の自治体が立ち上がり、実験集落が建設されて一年が経っていた。ここは数年前に建造された火葬船によって景気が回復し、全国からの移住者も年々増加傾向にある。

邪魔者だった雪を資源とする地下貯蔵水路が整備されて以来、早朝に除雪ドーザで寄せられる雪が民家の出入り口に堆く積まれることもなくなった。実験村には、量販店や病院、郵便局、保育園、小学校、役所、介護施設、公民館などがサークル状に隣接され、中央はイベント広場となっていた。広場地下の貯蔵水路は、雪や雨や地下水を水源とし、生活用水や冷暖房などに利用され、余剰水は火葬船が係留する鬼ノ子川へと循環していた。


 実験村の一角にある八階建てのマンションに、東京から四人家族が引っ越してきた。小説家の子之神ねのかみ竜、妻の妖子、長女のかごめ、長男の雷斗だった。長女のかごめは高校一年生で弟の雷斗は中学一年生になる。家族は常に父親の小説の舞台が引っ越し先になり、そこで家族に起こる全てが小説の題材になった。


 子之神竜が小説の舞台としてこの実験村に引っ越して来たのは、ある撮影で知り合った地元出身俳優の松橋龍三の一言だった。


「私の田舎はネタの宝庫かもしれないですよ、竜さん」


 その言葉で子之神竜は現地取材に一か月ほど費やしていた。龍三の言葉は確かだった。そして舞台の拠点を鬼ノ子実験村に決めたのである。


 一家は実験村の前に立った。入口に巨大な秋田杉の鳥居がそびえ、両サイドに阿吽の狛犬ならぬツキノワグマのチェンソーアートが立っていた。子之神家は一礼して鳥居をくぐった。最初に目に入ってきたのは、中央広場の市だった。鬼ノ子村は五の付く日が市日となっており、それまでは鬼ノ子神社の境内で開かれていたが、高齢者のためにマンションの広場で開催されるようになった。


「コロッセウムみたいね」


 妻の言葉が耳に入ったかどうか、マンションや公共施設などがサークル状に建つ光景を見る子之神竜の表情はにんまりとなっていた。


「私たちが通う学校はどこにあるの?」

「あの単線の終点にあるよ」

「廃線になりそうじゃない?」

「そしたらバスか単車だな」

「私は免許持ってるけど、雷斗はまだ取れないよ」

「じゃ、馬でも買ってやるか?」

「ボクは八代将軍かい!」

「おまえらの通う中学も高校も結構な蜜が渦巻いてるぞ」


 竜が言う蜜とは、いじめや堕落した教師によるスクールセクハラのことだ。「いじめ」という尤もらしい曖昧模糊な言葉を、文科省は2013(平成25)年度以降、『いじめ防止対策推進法』の規定により「一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているもの」と定義している。尤もらしい文章だが、今実際に起こっている事象には、かなりの距離感がある。殴る、蹴る、金銭の恐喝、または鹿十シカト、悪い噂などで精神的に追い詰め、服従させて支配する。時に、いじり、悪ふざけなどで無抵抗な標的をいたぶり、憂さを晴らすなどの行為を指摘しているのか…しかしそこには、やられた側にしか分からない、表に出ない、明文化できない加害者の隠蔽テクニックが駆使されている。


 教室内弱者にとっては権力、担任教師にとっては能力と映るスクールカーストなる上下関係が存在するという。異性からの評価の高い生徒が比較的カースト上位に君臨し、担任からの信頼も厚い。いや、そうしなければ担任すら標的になる可能性がある。そこで担任はスクールカーストを利用して表面的に穏便な教室運営を保とうとする。

 教室内弱者にとって、登校して席に着くことは当然であり、“登校しない”こともそこから“逃げる”ことも選択肢として与えられていない。更に「いじめ」の標的となれば、耐えがたい屈辱の中で何年も過ごすことを強いられることになる。例え生徒が登校拒否や家庭内籠城で緊急避難しても、保護者との意思の疎通、保護者からの理解を得ることはかなり困難であり、時間が掛かる。“自殺”願望が同居する中、保護者の対応如何によって標的生徒の運命が決まる。

 スクールカースト下では、標的が転校や自殺で消えても、標的の予備要員には事欠かない。次の順位が標的になるだけだ。教室内弱者は自分の番がやって来るまで「いじめ」に対して黙認し、現実逃避する。


 竜は一か月の現地取材で、かごめを通わせる高校も雷斗を通わせる中学校もそれらの要素がぎっしり詰まったであることを突き止めていた。


「おまえらには退屈しない学校だぞ」

「お父さんの蜜はないの?」

「ほら、このマンション…かなり蜜の匂いがしないか?」


 竜の目に映る建築一年足らずの新築マンションは、煩悩渦巻く魅力的な廃墟そのものだった。家族は竜の新たな小説の舞台に至福の予感を期待し、コロッセウムの空を見上げた。


〈第2話「蒼空の目」につづく〉

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