呪いは解けたが――
「子どもたちは宿題をしに帰らせました」
ほとりたちは、庭のイチョウがよく見える部屋に通された。
孫たちは近所に住んでいるらしく、帰ったようだった。
大きな黒檀の机を挟み、磯部とほとりたちは向かい合う。
「蘭子さんから、私があの人を呪っていたことを聞いたのですね?」
そう言う磯部に、いえ、それと、貴方が願掛けをした社の神様からなんですけどね、とほとりは思っていた。
間近で見た磯部は、なるほど、この男なら、神様を騙して、箱に詰めるくらいのことは出来そうだな、という感じの見るからに頭の回転の速そうな男だった。
鬼検事で有名だったというが、ちょっとわかる気がする、とほとりは思う。
自らお茶を出してくれたあと、磯部は語り出す。
「私たちは、産まれる前からの許嫁でした。
でも、途中で変にこじれてはまずいので、結婚するまでは会わないようにと言われていました。
後から考えれば、それはいいことだったのか、悪いことだったのか。
蘭子さんは他の人を好きになり、結局、私の家との約束は
破談になってから、彼女に会いにいった私に、蘭子さんはさぞ、驚かれたことでしょう。
顔を見たこともない、名ばかりの許嫁。
解消した方が私も喜ぶと思っていたのでしょうから。
でも、私は蘭子さんを知っていました。
蘭子さんに会うなと言われてはいましたが。
当時、私は子どもでしたが。
自分の将来の妻がどのような人なのか、気になって仕方がなく――。
まあ、何事もハッキリさせないと気が済まない性分なのでね」
とそこで、磯部は太一の方を見て、笑った。
太一は磯部のそういう気性をよくわかっているようで、苦笑いを返していた。
「気のいい叔父から、蘭子さんのことを訊き出し、蘭子さんを遠くから眺めていました。
ああ、私はあの人と一緒になるのだ。
一緒になって、子どもをもうけ、二人で、ゆっくり年をとっていくのだと思っていました。
それが突然、破談になり。
私は目の前が真っ暗になりました。
それは、口をきいたこともない彼女を本気で愛していたからなのか。
思い描いていた確かな未来が、突然、消えてしまったことへの戸惑いだったのか。
自分でもよくわかりませんが。
私は彼女に対して怒り、家の近くの、昔からご利益があると言われている山の上の神社に願掛けに行きました」
願掛けと言いますか、呪いです、と磯部は自分で認め、そう言った。
「そして、私の呪いをかけた箱を彼女に渡しました。
彼女は、私が思い描いていた幸福な家庭を壊しました。
その家庭の中の家族は、私の中では既に、命を持っていたのに。
だから、その彼女が、これから他の男と作るであろう家庭が上手くいかないように、私は呪いをかけたのです」
神様は磯部の隣りに座り、その話を聞いていた。
「でも、よかったです」
と磯部は言った。
「蘭子さんは幸せに暮らしてらっしゃるんですね」
ほっとした顔をした磯部は、
「ありがとうございます。
教えてくださって」
とほとりたちに頭を下げてきた。
「私は、それで気が済んで、もう蘭子さんを追うまいと思いました。
既に、一度、人生が破綻したような気持ちになっていた私は、もう結婚もすまいと思っていたのですが。
結局、上役の薦めで、結婚しました。
当時は結婚しなければ、社会的な信用が得られない時代でしたので。
でも、結婚して、子どもが生まれ、孫が出来、幸せだな、と思うたびに、あのとき、蘭子さんを呪ったことが気になっていました。
私の願掛けなどに、なんの効力もないでしょうが。
他人にそこまで呪われていると思うだけで、不快でしたでしょうからね。
いつか謝りたいと思ってはいたんですが。
余計な話を掘り返さない方がいいかとも思ったり。
でも、まあ、あんな箱、とうに捨てているだろう。
……そう思っていたんですが」
磯部は、何処か懐かしげに、そして、申し訳なさそうに、テーブルの上の箱を見る。
つるんとした、これといって、特徴のない木の箱だ。
ほとりは思う。
いや~、これだけ意志の強い人が怨念を込めたせいか。
願いを叶えるどころか、神様までこの箱に捕まってしまってたみたいなんですけどね、と。
「たぶん、蘭子さんは蘭子さんで、貴方に申し訳ないと思っていて。
それで、この呪いの箱を手放さなかったんだと思います」
黙って箱を見つめる磯部に、ほとりは言った。
「それで、この箱を社に戻しに行きたいんですが、その願掛けした場所を教えていただけますでしょうか?」
「お手をわずらわせてはいけないので、私が戻しに行きましょうか?」
と言う磯部に、
「いえ、ついでですから」
と言い、その場所を教えてもらった。
なんかあっさり判明したぞ、と几帳面な磯部の字が書かれた白いメモ用紙を見つめていると、ちょうど、磯部の妻、
五人目の孫が産まれたので、昼間は娘のところに手伝いに行っているという。
佐登子は、蘭子とは似ても似つかないふっくらとした普通の女性だったが。
働き者で頼もしい奥さんといった感じだ。
「これ、持ってってくださいよ」
と佐登子は、ほとりたちに、たくさんの柿や羊羹などをくれた。
別れ際、磯部は太一に、
「いろいろと世話になったな。
今度、なにか困ったことがあったら、言ってきなさい。
もう引退してしまった老人ではあるが、なにか私で力になれることがあったら、手を貸そう」
と言っていた。
太一は喜んで、ありがとうございますっ、と磯部の手を握っていた。
磯部は法曹界では、ずいぶん力のある人物らしかった。
「いいぞ、ほとり。
今回の代金はチャラにしてやる」
と機嫌良く言ってくる。
現金だなーと苦笑いした。
夫妻と、宿題すんだーと言って戻ってきた孫たちに見送られ、ほとりたちは、磯部の家を後にした。
ほとりが振り返りながら、子どもたちに手を振っていると、横で神様が言ってきた。
「なにか、私は馬鹿みたいだな」
と。
「あの
私は長い間、なにをしていたのだ」
なんの役にも立っていない、と律儀に蘭子をというか、離れを呪っていた神様は憤慨しておられる。
っていうか、役に立ちたかったんですか? 神様。
まあ、神様だしな、と苦笑いしていると、ふと、繭が言う。
「……呪いってなんなんだろうね」
なにか考えている風な顔だった。
さあな、と素っ気なく、環が言う。
「まあ、呪うだけで、スッキリさせる効果があるってことだろ」
「そうかもね。
じゃあ、今度から誰かが呪ってきても叶えなくていいですよ、神様」
とほとりが言うと、太一が、
「そうだな。
そこに居る神様とかいう奴に、言っとけ。
和亮が行っても聞かないようにと。
まあ、あいつの場合、呪っただけで、スッキリとかしないけどな。
絶対、現在進行形で呪ってるから」
と恐ろしいことを言ってくる。
一応、何年かは夫だったので、よくわかっていますとも……。
その前は友人だったしな、と思ったとき、子どもたちの声が聞こえてきた。
「縁側にちっちゃい人が居るよー」
えっ? とほとりは振り返る。
「居ないじゃん」
と揉めている声も聞こえた。
磯部たちもそちらを見ていたが、なにかの見間違いだろうという風に笑っていた。
「ノブナガ様がついてきてたんじゃないのか?」
と環が言う。
「だったら、連れて帰らないといけないかしらね」
と言いながらも、まあ、勝手についてきたのなら、勝手について帰るだろう、と思いながら、ほとりはそのまま枯れ葉を踏みしめ、山を下りる。
「ほんとに居たんだってー、白い人ー」
と小さな男の子の声がする。
「さきちゃんが持ってるみたいな……」
やがて、そんな子どもたちの声は遠ざかり、しかも、なんだかわからないが揉めている太一と繭の声にかき消されていく。
「えーっ。
見せてよ、すごい男前とかいうほとりさんの前の旦那ーっ」
「男同士で、写真なぞ持ち歩くか、気色の悪いっ」
「あるでしょ、スマホに写真とかー」
なんの話をしてるんだ、と思いながら、チラと環を見たが、環はそちらを見ていたはずなのに、視線をふいとそらしてしまった。
……うむ。
可愛くないな……。
しかし、問題は、このあとの報告だよな、とほとりは思う。
呪いは解けた。
だが、依頼の主眼は、嫁と揉めることなく、旅に出ることだった。
……いやそれ、どうしろと言うんだ、と思いながらも、ほとりたちは、環の車で、問題の神様の社に移動した。
「ほう。
小綺麗になっておるな」
と神様は感心したように、山の上のその小さな社を見る。
紅葉した木々に囲まれた神様の社は参道もなにも綺麗に刈り込まれており、掃き清められていた。
「戦後の余裕がないときより、近年の方が地域の人がこういうこときちんとやってるのかもしれないな」
そう呟いた環が、さあ、戻ってください、というように、神様を振り返っていたが。
しばらく黙ってその社を見ていた神様は、
「……なんか綺麗過ぎて落ちつかんな」
と言い出した。
「やっぱり、あんたが散らかしてたんじゃないのか? あの家」
と胡散臭げに環が呟く。
確かに……。
今此処が、綺麗になっているのも、この神様が居なくなったからなんじゃ、とほとりが思っていると、神様はおもむろに、ほとりの手にあった箱を開け、中に足を突っ込もうとした。
「こらっ、待てっ。
なんのために此処まで来たと思ってるんだっ」
と環が神様の首根っこをつかもうとしたが、神様なので、無駄だった。
神様は、もう呪いも、磯部のこだわりも消え失せた箱に、しゅるんと入っていってしまう。
「箱ごと置いて帰ってやるっ」
と環は、本当にそれを社に置きに行こうとしていたが、ほとりは、そんな環をなだめて言った。
「まあまあ、こうなったら、最後まで付き合ってもらいましょうよ」
なにしに来たんだ、とブツブツ言いながらだが、環は箱を紙袋に戻していた。
「しょうがない。
帰るぞ」
と言ったあとで、環は太一に、
「世話になったな」
と言っていた。
この礼は必ず、と環は言ったが、
「いや、いいと言ったろ。
俺は磯部さんと繋がりが出来ただけで充分だ」
と太一は言っていた。
いや、新幹線代くらいは払うけどね、と思いながら、ほとりが繭に、
「繭は?
お店、いいの?」
と訊くと、繭は、
「ああ、そうだね。
お茶飲みに来た大沢さんに任せてきちゃったからね」
としれっと言ってくる。
「……散髪屋は今、どうなってるわけ?」
「あそこ、奥さんも居るから大丈夫だよー」
繭は、本当か? と思うようなことを言い、笑っている。
「そうだ。
ほとりさん、僕にはお礼はないのー?」
と言った繭は、
「あ、じゃあ、お礼は、この調査に付き合ってた時間、うちの店、開けてたときの売り上げ分くらいでいいからさ」
と言ってきた。
それを聞いた環が、
「じゃあ、一円たりとも払わなくていいな」
と言う。
「あっ、なに言ってるんだよー。
高校生が帰る時間になったら、いつも満席だよ、うちー」
ウハウハだよー、と言いながら、さっさと車に戻ろうとする環に、繭はついて行った。
やれやれ、という顔で繭たちを見ていた太一は、
「じゃあ、俺は此処で」
と言い、バス停に行こうとする。
「送ってくわ、駅まで」
そう言ったが、太一は、
「いや、反対方向だし、これ以上、このやかましい中に居たくない」
と言ってくる。
そのとき、ほとりのスマホが鳴り出した。
『ほとりさんー。
今日も田舎は暇ですかー?』
……未來だ。
ほとりは、無言で、太一にスマホを渡す。
『今から、マザーグースの実に行くところなんですよー。
今日、先生、急に出張になったんで、暇なんですー。
今度、最果てに住む、ほとりさんにも買ってってあげますねー。
新幹線に乗って』
はははは、と笑う未來に太一が言った。
「俺のも買っとけよ」
ええっ!? 先生っ?
と未來が叫ぶのが聞こえてくる。
……莫迦め。
わざわざ、からかいにかけてくるからだ、と思いながら、ほとりは太一の手にあるスマホを切った。
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