3-9.


 荒川は爆睡していた。めっちゃイビキかいてた。


 女子らしさの欠片もなくフガフガ言っている。ベンチの上に両膝を立てて、日除けのヘルメットを片手て抑えながらもう片方の腕を地面へダラン。せっかくの細身スタイル台無しの大分豪快な寝相だった。


 さてどうしたものか――俺は考える。


 これまでされたことを考えれば、その腹いせにここで叩き起こしてやってもいいような気もするけど、不必要に彼女の感情を湧き立てるようなことをしてさらなる事態の混乱を招くのもあまり賢明ではない。


 悩んだ末、俺は普通に待つことにした。


 起きるまで待つ。目を覚ましてくれるのを気長に待つ。起きぬなら起きるまで待とう荒川輪子だ。


 この際だから、荒川愛用のロードバイクの姿をじっくり拝見させてもらうことにした。とは言ってもやはり俺は専門知識を持ち合わせていないので、ここのパーツがどうとか、このパーツとこのパーツの組み合わせがこうで性能が如何みたいな感想を持つことはできない。わかるのは、この自転車が荒川の愛用自転車の内のひとつのであり――彼女が愛してやまない家族のひとりということくらいだ。


 高校入学当初に彼女が乗っていたものは現在走行不能のため、これはその前までに乗っていたモノだという――と、そんなことをしていたら。


 愛車に近づく怪しい人物の気配を感じ取ったのか、後ろで荒川が目を覚まし――たと思って振り返った瞬間に胸倉を掴まれた。早い。もう立ち上がってた。不審者を威嚇圧倒する目をした荒川が、電光石火のスピードでもう目の前にいた。


 「……ってあれ、江戸君?」


 不審者の正体に気が付いた彼女は、拍子抜けしたような声を出し、


 「あたしの自転車盗もうとしてる奴がいると思ったら、何だ、江戸君だったのか……。良かった、ホントにドロボーだったら崖から突き落とすところだった」


 久しぶりに会って早々、目覚めた直後で平然と物騒なことを言ってくる。再開の挨拶すらなかった――まあ、状況が状況ではあったのだけれど。


 「俺の方こそ驚いたよ。散歩中に良い自転車が置いてあると思って見てみたら、まさか荒川、お前のだったとはな。こんな場所で会うなんて奇遇としか言いようがない」


 とりあえず偶然の出会いを装ってみたものの、荒川には頭のおかしい奴を見るような目を向けられ、


 「つまらない冗談はいいから。こんなトコで何してんの?」


 こんなトコで何してんの?


 ――そう言ってきた。まるでこちらの方が常識から外れた行動を取っていると言わんばかりに、そう言ってきた。


 でも、な、荒川。いくらお前がいつもみたいに蔑みを微量に含んだ眼差しを向けてきたとしても、その言葉には、百点差をつけて後半残り一分に突入したサッカーの試合の優勢チームのキャプテンよりも遥かに絶大な自信を持ってして言い返すことができるぜ――それはこっちのセリフだよ!!!


 「お前の方こそ、今までこんな所で何してたんだよ。どうしちまったのかってみんな心配してたんだぞ?」


 「あたしはただ、気晴らしって言うか、ちょっと出かけてただけ」


 と、荒川は本当に何事でもないかのように言う。


 「ちょっと出かけるにしては学校サボりまでして随分と大掛かりな遠出だな」

「別にこれくらい、あたしにとっては遠出にならないから。ふと気が向いた時によく来るトコなの」


 ぷいと背を向け、大きなあくびと一緒に伸びをした荒川は、何だかとても面倒臭そうに、


 「あー、でも確かにちょっと長居し過ぎたかな。学校何日行かなかったんだっけ? 遅れ取り戻すの大変そうだなー。でもさすがにもう、帰らないと」


 秘密の隠れ家まで追ってきた俺のことなんて意に介していないかのように帰り支度を始めてしまう。靴(自転車競技専用のシューズ。ペダルに足を固定するタイプのもの。脱いでベンチの脇に揃えてあった)を履き、登下校時と同じように髪を後ろで結び、ヘルメット(これも自転車競技用。流線型の半ヘルで、正直あまりヘルメットっぽくない)を被り、サングラスをかけ――ようとしたところで俺は彼女を呼び止める。


 いやこんなすぐに帰られたらここまで来た意味がわからないし――ひとつだけ、どうしても言いたいこともあった。


 「何?」


 こちらを向いた荒川は、相手のことなんて棒人間程度にしか思っていなそうな冷ややかな目をしていた――最近は比較的よく笑っていて温かな表情の多かった荒川だから、こんな気分にさせられるのは久しぶりのような気もする。


 しかし、もはやそんなことでめげるような俺ではなかった。どんな風に思われようと毅然と立ち向かい、例え嫌われることになろうとそんなことは恐れるに足らない――大切なのは彼女の気持ちだ。それを一番に考え、自分のことは顧みず誠意を込めて対応すべく、まっすぐに彼女を見つめながら、俺は答えた。


 「お前、めっちゃいいスタイルしてんな」


 「……はああっ?」


 荒川の顔に感情が戻った。一発でキレた。心無いか、少しだけ、頬が赤らんだ。


 「この期に及んでそんなフザけたこと言う? 何考えてんの? 言うにしても何かしら他のことがあるんじゃないの? ホントに大丈夫なの、とか、思ってることはホントにそれだけなの、とか、聞くことなんて他にいっぱいあるでしょ! 少しはあたしの身を案じてくれてるのかと思ったら、何それ。バカにしてるとしか思えない!」


 本心がだだ漏れだった。


 俺はやはり毅然とした構えを崩さず、


 「いや、バカになんてしてないぞ。フザけてなんて死んでもない。俺はいつも通り大真面目だぜ」


 「だとしたらほんッッッとに最低なんだけど」


 「最低なんかじゃない。むしろ最高だよ。これ以上ないくらいのクオリティだ」


 「何が?」


 「特にその脚だな。スラリと長い脚に勝るものなんてないし、クッキリとしたくびれも見ててたまらん。主張しすぎないその胸もお前の身体にはちょうどいいサイズだし、ハッキリ言って非の打ちどころのない完璧なスタイルだ」


 「……セクハラで訴えるよ」


 「裁判は時間かかって面倒だからせめて殴る蹴るの暴行くらいで済ませてくれるとありがたいんだけどな――」


 本当に殴りかかってくるかと思いきや、荒川は罰が悪そうに顔を背けるのみだ――案外素直だった。普段の彼女なら、これしきのことで引き下がるわけがないと思うのだけれど――


 「――でもどちらにしろ、できればあんま無駄なことに時間を取られたくはないな。戻ってから、に時間を割けなくなるし」


 「……部活、やめたいんじゃないの?」


 途端に、荒川の表情が暗くなる――部活、というワードを出したのは賭けのようなものだった。これまで俺たちは月曜日の出来事を気に病んで荒川が失踪したという前提を設けて動いてきたのだけれど、元も子もないことを言ってしまえばそれはあくまで残った側の人間の予想でしかない。


 もしかしたら荒川は本当に突如全てを投げ出したくなるほどのブルー状態に陥って気晴らしに出かけたのかもしれないし、はたまた何か全然別の理由があったのかもしれない。その真相を確かめに俺たちはここまで来たのだけれど――もしも当初の予想が合っていたのなら、荒川は部活というワードには相当センシティブになっているはずだった。


 そして今、荒川は明らかに反応を見せた――その本心やいかに。


 「ん? 俺、そんなこと言ったっけか?」


 「言った。忘れたなんて言わせないよ。ていうかそんなこと言ったら、今度の今度こそはあたし、本気で怒るからね」


 本気(マジ)モードに入った荒川――今まで以上の怒りがあるのかと内心ビクつきながらも俺は果敢に、


 「ああ、そうだったか、そういえばそうだったかもな。でもな、確かにやめたいとは言ったけど――別にそれ以上のことは言ってないぞ」


 「それ以上? どういう意味よ」


 「やめたいとは言ったけど、本当にやめるとは言ってないだろ。それに、やめたいって言ったのだって実は口から出まかせで、実際はそんなこと思ってなかったりもするかもしれない」


 「何そのとんちみたいなの。別にいいんだよ、思ってることハッキリと言ってくれて。やめたいのならやめたいで、それでいいじゃん。あたしはもう止めるつもりないから」


 「……本当に止めないのか? お前らしくもないじゃんかよ」


 「別に。あたしも気が付いたの――本当に興味がない人を無理に誘っても、無駄なだけだって。だから、いいの……もういいから。わざわざ心配してくれてありがと。じゃ、あたしもう帰るから」


 そして、荒川は独り去っていってしまった。


 追いかけたくても追いかけられない。彼女の背中は、そこにあるのにまるで遥か遠くの空に浮かんでいるような、そんな果てしない距離を感じさせる雰囲気に包まれていたのだった。


 もう二度と、彼女には会えないかもしれない。


 何故かそんな気さえした。


 俺は彼女を、止めることができなかった。

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