2-3.


 ――。


 ―――――。



 

 「買ってよ!」


 「買わねえよ!」


 「うるさいいいから黙って買え!」


 「うるさくないし良くないから黙らん買わん!」


 男女の怒声がとめどなく響き渡る。互いに一歩も譲る気のない白熱のバトル。その壮絶さのあまり、取り囲む数十名は口も開けないほどだった。


 ――既に始業のチャイムが鳴り終わった後の一年一組の教室内。本来なら朝のホームルームが始まっていてる然るべき時刻。


 「何でさ! 自転車部なのに自転車持ってないなんてどう考えてもおかしいじゃん。 活動できないよ! どういうつもりなの?」


 「どうもこうもねーよ。俺は別に、自転車が欲しくて自転車部にいるわけじゃないからな。成り行きで入っちまっただけで、何なら今すぐにでもやめたいくらいだ。そんな奴が自転車買ったって意味ねえだろ」


 つい本音を漏らしてしまう俺。


 ヤベ、と思ったものの時既に遅し。すかさず荒川の目つきが変わる。


 「……何それ。すぐにでもやめたい? そんな風に思ってたの? みんなで部活を作っていこうって話してたところなのに。頑張ろうねって励まし合ってたところなのに。江戸君は、ずっとそんな風に思ってたの?」


 「逆に聞くけど、俺が乗り気でいるように見えたか? やる気満々、自転車部やりたくてタマンネーって雰囲気でいたか?」


 「……違うけど」


 視線を落とした荒川は、しかしまだ訴えるような目に力を込め、


 「違うけど……けど、だって、だって! あの時言ってくれたじゃん。気が変わったんだって。自転車に興味持ってくれたって――だから自転車部に入るんだって! あれは嘘だったの? 江戸君がそう言ってくれて、あたしすっごい嬉しかったのに……あれはただの、あたしを慰めるための嘘だったわけなの?」


 「嘘じゃねえよ、」


 俺はキッパリと、


 「自転車に興味を持ったってのは本当だよ。でも、自分も自転車が欲しいと思うほどではなかった、ってだけのことさ。お前のおかげで確かに、俺の自転車に対する見方は変わった。自転車ってただの面倒なだけの乗り物じゃないんだなって、思うようになったよ。でも、それだけのことだ――別に自分までもが、自転車を買って乗り回したい、とまでは思わない。それだけのことさ」


 荒川は怒鳴り返してきたりはしなかった――俺もさすがに学んで、不必要に自転車を貶すような言い方をしないよう心掛けた効果もあったか。


 代わりに荒川は、いつもの彼女らしくなく、悔しそうだった――悲しそうだった。さながら、憧れのヒトに告白してフラれた女子のような顔をして。けど拳を震えるほどに握りしめて。


 何が何でも俺を締め上げるつもりなのかと思っていたから、意外なことではあった。何故彼女は、こんなにも苦渋に満ちたような表情をしているのか――しかしこちらも、死活問題であるから心を揺らされている余裕などは全くない。


 「まあでも、乗りかかった船ではあるわけだしな……必要とされる限りは部活にいて、手伝ってやろうくらいの気持ちはあるよ」


 「……それだけなの?」


 先程の大音声に比べれば消え入りそうなくらい、荒川の声は小さい。


 「ホントに初めから、それだけの気持ちだったの? 活動に参加する気なんて、さらさらなかったわけ?」


 「違う、と言えば嘘になるのは否定できないな……まあ、そうだよ。その通りだよ。幽霊部員になる気満々だったんだ」


 「幽霊部員、か……」


 荒川はその言葉を反芻するように繰り返すと、


 「そっか。ま、確かにその方が、いかにも江戸君、って感じだよね。あたしが勝手に期待しすぎてたのか」


 納得したように、ふっと表情を緩めた。


 諦めがついて心が軽くなったのか、彼女の発していた重々しいオーラが一気に霧散する。拍子抜けするほどに、早い気変わりだった――いつもとことんしつこい彼女とは思えないほどに、あっけない変化だった。


 そうして荒川が次に口を開いた時には、さっきまでの剣幕が夢だったと言わんばかりにいつもの冗談話をするような口調になっていて、重々しい空気が垂れ込めていた教室内は台風通過後の青空のようにスッキリしてしまったのだった。


 「念のために確認しておくけど。江戸君さ、あたしが何と言おうと、自転車買うつもりない?」


 らしくない彼女に砂粒くらいの戸惑いは覚えつつも、俺は平然を保ちつつ答える。


 「ないな」


 「ブン殴る、って言っても?」


 「ない」


 「轢き殺すって言っても」


 「殺されたくはないから全力で逃げるとは思うけど、それでも自転車は買わないな」


 「そっか」


 「……」


 最後には心なしか、望み通りの回答を得たと言わんばかりに、満足げに見えた荒川だった。


 そしてやっと授業は始まり(ホームルームは時間の都合により割愛された)、それからは誰もが通常運行だった。荒川がふてくされて早退するなんてこともなく、今朝の内乱の記憶が全員の頭から消去されてしまったかのように、いつも通りの風景がこの日も広がっていた。


 荒川はふてくされてはいなかった――けれど、どこか変だった。まるで彼女自身が今朝の出来事を忘れてしまったかのように――何となく、そんな彼女を見ていた俺は妙な心地だった。態度を急変させて、以来自転車のこと、部活のことを一切話さなくなったからというのもある――でもそれ以上に、違和感があった。何と言うか、パッと浮かんだ言葉を使うなら、なったようだった。いつものように話し、笑う――ん? 


 違う。違和感の正体はこれか――自転車のこと、部活のことを一切話さなくなったということは、ほぼイコールで、何も話さなくなったということになる。何故なら、俺は荒川と基本的にそのことしか話さないんだからな。授業中や休み時間中のちょっとした会話くらいは普通にあった。でも、それだけ――こちらから話しかけたとしても、何だか妙によそよそしい。しかし、それがいかなる理由によるものなのかは、結局わからなかった。


 荒川はこの日、授業が終わった後すぐに帰った。部室にはいつも通り宮と三人で赴いたものの――


 「ごめん。今日ちょっと用事あるから、先に帰るね」


 とだけ言い残し、そそくさと出て行ってしまったのだ。


 数日ぶりに彼女に会えて喜んでいるアリスさんがいるにも関わらず、まるで人を避けるかのような去り方だった。残された俺たちはそれぞれ、アリスさんは自主室内トレーニング、宮は課題・読書・部屋の掃除等、俺は宮の行動の模倣に勤しみ、荒川のいない放課後の時間を過ごしたのだった。



 

 その翌日、誰も荒川と連絡が取れないことが判明。とは言っても、一応体調不良とは聞いているし、そうじゃなくても一日連絡が取れないだけで恐慌に陥ったりするのは一般的に考えてもよほどの携帯中毒なわけで――取り立てて騒ぎ立てることでもないというのが共通認識だったのか、この日は誰もが楽観的だった。


 放課後は部室に集まり、やはりアリスさんはトレーニング、宮と俺はのんびりダラダラの時間を過ごす(ちなみに荒川がいなければ俺は帰ることもできたのだけれど、『部室まで一緒に行こ!』と顔に書いた宮にやって来られれば拒否するのも気が進まない)。下校時刻になっても荒川から連絡が来ることはなく、まあそのうち返信が来るだろうし気楽に構えていこうやって感じでこの日は帰宅した。


 

 ちなみに、余談ではあるけれど。こう見えてプロチーム所属の自転車レーサーであるアリスさん。


 彼女は本来ならば授業後はチームの方のトレーニングに参加しなければならないはずなのだけれど、部室に室内用練習機材を持ち込んでからこの一週間、この前の金曜を除いては毎日こちらに顔を出している。本人曰く、「一生に一回しかない高校生活なんだから、できる限り学校にいたいじゃない~」とのこと。チームよりも部活を優先するつもりらしい。


 聞いているだけで首が切り落とされそうな回転音を立てながらエアロバイクをしているアリスさんは、相変わらずいつもシルクの布のように柔らかな笑顔だ――練習強度を上げ、身体的にはかなり辛そうな時ほど、その顔の和み方も増している気がする。何だか危なそうなので俺は一生懸命見て見ぬフリをして、代わりに身体のラインにピッタリ沿うサイクルウェアによってあらわとなる彼女の美ボディを堪能するのだった。


 並のモデルなんて軽く凌駕してるぜ、この人。




 そして水曜。荒川来ず。連絡もなし。しかしそうは言え、経ったのはまだ二日だけ。


 親の方から担任テラサキに連絡はあるみたいだし、俺たち自転車部員はもう少し気長に待ってみようという意思を確認し合う。毎日所属チームの送り迎え付きのアリスさんが先に帰り(と言ってもまっすぐ家に帰ったのかはわからない。その後もトレーニングを続けているような気配もある)、駅で宮との別れ際。


 もし明日も音信不通の状態が続いたら自宅に見舞いに行こうと誘われた。いつの間にやら荒川が住んでいる場所を聞いていたらしい。俺は教えてもらってないのに――なんて不満は別になく、俺は曖昧にだけ返事をしたのだった。宮の誘いだ、むやみに断ってがっかりさせたくもなかったのだけれど――でも、荒川の家って、けっこう遠いとこにあるみたいだったからな……。


 関係あるかはわからないけれど――荒川がいないこの三日間、ツーは現れなかった。




 ――――。


 ――。

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