第2章.消えたクラスメイト
2-1.
「知識が増えるほど世界が限定化されていくって、何か皮肉だよな」
月曜日。始業前。後ろの奥田の開口一番。
雑然とし始める教室。独白は続く。
「見える世界を広げるためにみんな勉強してるのに、そんなこと言ったら勉強するほど実際は世界が狭まってるみたいで、何かモチベ下がんね?」
国語の授業の内容の話をしているらしい。先週の教師の解説を、この土日で奥田なりに解釈してきたのだろう。意外と勤勉なようである。
「世界が狭まるってことは、その分手の届く範囲が増えるってことだろ? 余裕でモチベ上がるだろバカかお前」
俺は机に突っ伏せたまま答えた。昨日一昨日と十分な睡眠を取れなかったおかげで先週分の疲労もめでたく持ち越し。抜群の倦怠感だ。鬼教官ミヅキの指導はすこぶる体に良くない。
「あっ、そうか。確かに」と、後ろで奥田が納得した気配がした。
「ていうかそもそも、この話ってそんな意味じゃなくね? 世界が限定化されるってのは世界の見方に偏りができるってだけで、別に必ずしも狭くなるわけじゃねえだろ。要領良くない奴にとっては実質的に狭くなるってか削り取られていくようなものかもしれないけど、知識ってのは要するに物の見方だろ。色んな知識を獲得するそれすなわち色んな角度から物が見られるようになるってことで、頭の巡りの良い奴なら色んな見方を組み合わせたり応用したりして新たな世界を構築することだってできる。天才ってのはつまり、ゼロから新しい見方を生み出せるやつのことを言うんだろうよ。どうだ、奥田。お前は賢者の部類か、それともただの杓子定規か?」
「ちょっと一週間くらい待ってもらってもいいか? お前が今言ったことを理解するのにそれくらいかかりそうだ」
少なくとも、奥田に優れた閃きを期待するのは、無理そうだった。
「世界が狭くなるのは、どっちかって言うとグローバル化の話だよね」
スルッと、スバルが割り込んでくる。
「時間的空間的短縮が図られることで地球が狭くなる。どこにでもすぐに行けるし、何でもすぐに手に入るようになる。それが人類の文明にどんな結果をもたらすかっていうのは果てしない議論になりそうだから置いておくとしても、これって江戸君の言った通り、直感的には世界が狭くなったようだけれど、移動できる距離、獲得できる情報量が昔とは比較にならないほど増えたってことは、それだけ私たちの世界が広がったっていう見方もできるよね。それこそ、この事実をどう捉え、どう理解して、どう応用できるかが普通の人とそうでない人の違いじゃない? 将来出世の道を辿れるか否か、ここが分かれ目かもしれないよ、二人とも!」
「スバル、悪い。俺も一週間ほどタンマさせてくれ」
早々に降参しておく。寝不足の頭でスバルと本気で話すのは少々負荷が大きすぎる
漏れなく凡人ルートを辿りそうな男子二人に対しても、あはは、と笑いかけてくれる人のいいスバルだった。出世の道を辿るのは、こういう奴なんだろうなと、俺はちらりと思ったのだった。
「そうそう。世界の見方って話をすればなんだけど、」
難しい話をしたくなさそうオーラをプンプン出している俺と成績の良くない奥田に気を使ってくれたのか、スバルは話題を切り替えて、
「塾の問題集の設問に出てきた文章が面白くてさ。ちょっと変わった人が書いた哲学の話なんだけど、簡単にまとめると、人間誰もが違う世界に住んでる、人の数だけ違う世界が存在する、っていう内容だったんだ」
「ほう」
気を使ってくれたのだとしたら、逆効果でしかない堅苦しさだ。何が面白いのかわからない。
しかし続けるスバルはあくまで本当に楽しいと思っているかのようで。
「シンプルに言っちゃえば、人それぞれ物の見方が違うんだってそれだけの話なんだけどね。でも筆者さんはその考え方を追求して、だからもう見方の違う人が見てる世界は全くの別物だって、異世界と言ってもいいくらいなんだって。ていうかもう普通に異世界ってワード出してたしね。例えば、極端な例だと、都会に住むふたりの人がいたとして、片方は根っからの人間嫌い。もう他人を見るだけで悪寒がするって人と、もう片方はその全く逆。トレンドが大好きで、最先端の流行が集う都会の街が大大だーい好き。最初の方の人にとって都会の街は、有象無象にまみれた地獄絵図のようでしかないけど、もう一人の人にとってはキラキラ輝く希望の街のになるでしょ? ほら、これって同じ街でも、それぞれの人にとっては全く違う場所じゃん。第三者が見比べることができるとしたら、ふたつの世界は全くの別世界のようにしか見えないよね。つまり、この二人はそれぞれ違う世界に住む人たち。二人にとって、お互いは異世界人なんだって、それが筆者の人の考え方」
「ファンタジーかよ」
奥田が尤もなことを言った。
そんな感じだよね、とスバルは朗らかに笑いつつ、
「突き詰めれば、私たちはみんな、異世界の人たちと交流していることになるの。同じ空間にいながら違う世界を見てるって、何か映画の話みたいだけど、確かに一理あるなー、って読んでて思ったんだ。並外れて頭の良い人を見て、あの人は違う世界に生きてるとかってよく言うし、色んな世界を見て来い、とかともよく言うじゃん。こういう言葉って、ニュアンスは違うかもしれないけど、この考え方を如実に表してるよね。世界はひとつのように見えて、実はたくさん存在してる。人の数だけ、文化の数だけ、色んな世界が広がってる。そう思うと、何かワクワクしてこない?」
「全然しねー」
奥田があくびをしながら言う。嬉々としながら語ったクラスメイトに対してそんな感想はいささか不躾な気もしたのだけれど、まあ俺も同じ気持ちだったのは否めない。
「まあ私も、筆者の人の結論はちょっとどうかって思ったけどね。人はみんな異世界人なんだから、理解し合うことは根本的に無理なんだって。多大な労力を惜しんでまで他の人と関わろうとするより、自分の世界の中で、自分の見方で世界の隅々までを理解しようとするのが賢明な生き方なんだってまとめてあったけど、それはちょっと、ペシミズムが過ぎるんじゃないかなー、って。あはは」
進学率全国トップ校の成績上位者たちの会話みたいな話を聞いているうちに、早いことに時刻は授業開始五分前となっていた。半分寝ていたのでスバルの話は完全に理解はできなかったものの、俺は彼女の話した内容をピタリと言い表すような現実が身近にあることに気が付いていた。
身近というか、すぐ隣。近すぎて、逆にそれを思い当たらない方がおかしいくらいの距離に、それはあった。
それと言うか、正しくはそいつ。未だ席替えが行われないので、いつまでの俺の右隣にい続ける災厄の種。
「それってつまりさ、」
俺は起き上がり、授業を受けるために気持ちを切り替えつつ言った。
「荒川のことを言ってるようなもんだろ。あいつほど違う世界に生きてる奴はそうそういねーよ」
噂をすれば、という風に。
俺がそちらを見たのと同じタイミングで、彼女はやっと教室にやってきた。
気分は上々、いつもよりちょっといい気分といったところか。
――いや。
ちょっとではなく、けっこう気分良さそうだ。ここに来るまでに何か良いことがあったのか、それとも何か楽しみにしていることがあるのか、そんな感じの雰囲気。教室に入ってきた彼女は自分の席に座ろうとせず、まっすぐ向かってきた先は俺の席、というか俺だった。
誰が口を開けるよりも早く、バンッ、と効果音が付きそうな勢いで荒川は俺の机の上に何かの冊子を置いた。早く見て見てと言わんばかりのニコニコ顔。このところこんな顔をすることが多い荒川だけれど、それでも裏で何か企んでいるのかと訝しんでしまうほどに、妙に嬉しそうなのだった。
果たしてその予想は的中して。
彼女が持ってきた冊子。目を向けるとまず、表紙に大々的に張られた自転車の写真が目に入った。それも、ママチャリではなくロードバイクだ。荒川が乗っているのと同じようなものが、何台か並んで載せられている。上部にある本のタイトルは、『ロードバイク・カタログ』だった。
「……これは?」
こんなの買ってみたの! 今日から一週間かけて精読するんだ!
と、言われるのを期待した。彼女なら、言う可能性がなくもないセリフだと思った。
しかし、つくづく現実というのは甘くないものだ――この際、はちみつをたっぷり入れたホワイトモカに生クリーム、いちごムースを添えてかつ練乳で仕上げをした特製甘い気分の時に飲みたいいちごたっぷりメロメロベリーモカ並みに糖分を含んでおいてくれてもいいのに……。
まあそんな現実があったら、誰もがとっくに糖尿病が重度に進行あまり溶けてなくなってしまっているわけで、実際の世界はカカオ百パーセントブラックモカ(無糖、特製苦みスパイス入り)なのである。この時もそんな現実に即して、ここぞとばかりに淡い期待は裏切られた。
荒川は顔面ニコニコ度を変化させないままに、教室の半分には聞かれたんじゃないだろうかというほどの声で、言い放つ。
「見たらわかるでしょ。ロードのカタログ! 部活の活動をどうするか、どんな合宿にするかってこの土日、家であたしなりにけっこう考えてたのよ。で、思ったのが、まずそもそも江戸君自転車持ってないじゃん? よくよく考えたら、中心メンバーの江戸君の自転車がないんじゃそもそものところで部活が成り立つわけない! ってことで、持ってきた。とりあえず江戸君も、自転車買ってよ。別にロードじゃなくても、クロスでもマウンテンバイクでもいいからさ。言ってくれれば他のカタログも持ってくるし。何かわかんないことあったら、あたしが教えてあげるから!」
週末明け早々、何やらただならぬ空気がこの世界を覆い尽くしていくかのようだった――もちろん、俺の世界の中での話だけれど。
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