5.8 想いつめれば

 酒場にいって、リーシャを正面にしながらもボブネのハチミツ酒を口に含んだ。騎士服を着たクレシアを見たリーシャは目を輝かせていたのだが、当のクレシアはというとそそくさと部屋にもどってしまった。自主練習するとのことだった。



 エルボーの情勢はよくないらしくて、エルボー産のハチミツ酒は入ってきていないとリーシャがこぼした。襲撃がある前にはきているはずなのに来なくて、不審だとリーシャはいった。どうして教えてくれなかったのかとやさしい調子でトゥエンがたずねれば、タルを運んでくれる獣人が一向にやって来ないからずっと待ってみた、と答えた。



「エルボーからここまではまる一日ぐらいかかる距離だから、もしかしたらまだ途中なのかもしれないって。不確かな情報だもの、とてもじゃないけれど信用できない情報」



「不確かなものでも構わないよ、いまはあらゆる情報が欲しい」



「あしたまでに来なかったら、確実にもうエルボーの甘口は飲めなくなるだろうね」



「エルボーがよく分からない勢力にのっとられるってわけだ」



 トゥエンはサッパリとした味わいのボブネを半分ほど口に流しこんだ。甘みにさえぎられないアルコールの刺激が意識をはっきりとさせる。酔いにとぎすまされた頭が次に考えはじめたのは、シモフの言葉だった。



 さえた頭をもってしても意味がわからなかった。貴族が主催するパーティには正装を、騎士ならば騎士服に剣をさげるのが常識である。いわなくたってわかっていることにもかかわらず、シモフは口にした。わざわざ力加減ができない左手でコリシュマーデをとれるようにしろとまで忠告してきた。



 トゥエンがグラスを見下ろしたまま急に固まって驚いたのか、リーシャが、トゥエンくん、と声をかけた。グラスに張る薄いコハク色が揺れて、トゥエンが顔をあげた。パーティのことを伝えて、気になっているあのセリフも教えた。



「ずっと思ってたんだけど、トゥエンくんは左利きだよね? 右で持てるように剣をさげてるのはどうして?」



「左だと力加減できなくて、鍛錬どころじゃないんだ。だから力加減のできる右でもつようにしてる。だからいまは両利き」



「じゃあ、全力を出さなきゃいけないってことをいいたいんじゃないの?」



「問題はそこから先。何に対してなのか、そもそもどうしてそんなことをオレに伝えなきゃいけなかったのか」



 シモフはパーティの席で剣をふるわなければならない事情があるといいたいのだろうか? しかしそんな危険なパーティにわざわざトゥエンを誘った理由はなんだ? あたかも大立ち回りを期待しているかのようだ。シモフはトゥエンの左手を知っている数少ないひとりだから、本気の左手でそのようなことをしたらどうなるかぐらい分かっているはずである。



 あるいは、パーティでシモフの父親を楽しませるための余興として本気の決闘でもするつもりなのだろうか。全くシモフらしいといえばその通りだ。としても、トゥエンといい勝負をする自信があるのだろうか、と考えがヘンなところにくいこんでしまうのだった。脱線した頭。トゥエンは首を激しく振ってずれをもどそうとした。むちうちになりそうなほど振ってから、グラスののこりを一気にながしこんだ。



 トゥエンがカウンターにグラスをおくなり、リーシャは空のグラスを手にとって、タルから酒をそそいだ。



「どうしたの?」



「いや、ちょっと考えが逸れちゃって」



「きっと疲れてるんだよ。トゥエンくんのことだから、ずっと考えごとしてるんじゃないの? いろいろあるし、これから何があるのか分からないことも分かるけれど」



「ぜんぶ終われば好きなだけ休める。いま考えなくちゃいけないことがわんさかなんだ」



「でもさ、せめて一日に一時間みたいに時間を決めるとか、私といる間とかは難しいことを考えないようにしようよ。頭を休めてさ、もっとさえるように」



 ハチミツ酒で満たされたグラスがカウンターに戻された。ありがとう、と声をかけると同時にグラスをつかむトゥエン。また一気にそのかさを減らすのかとおもいきや、鼻に近づけて香りをかぐだけだった。



 リーシャのいう通り、トゥエンはずいぶんと頭を休めていない。頭を休めたのがいつだったのかさえも思いだせなかった。はていつだったろうかと、思いかえしているうちにまた頭を使っていることに気づいた。ため息をついて、ハチミツ酒に口にした。



「オレに考えるのをやめるなんてムリ。何かにつけて考えちゃう」



「じゃあさ、最後に頭を休めたのはいつ?」



「さあ、覚えてないよ。それを思いだそうとして頭を使っちゃうんだよ」



「トゥエンくんの頭ってまるで胸の中にあるものみたいだね。ドクドクずっととまらない」



「じゃあ考えなかったらオレは死ぬってことじゃないか」



「だったら、考えてくれたほうがいいかな。私のことをさ」



「そうすることもいいかな」



「いまやってみてよ。その間に何か軽いの作るから。しばらく待っててね」



 リーシャが厨房への扉を閉める。扉で飛ばされた厨房の熱気が、近くで燃えさかっているろうそくの炎をいくつか揺らし、うち一本を消してしまった。とくにトゥエンが座っているあたりはかなり暗かった。足もとに視線を落とせば、まるで川底のような暗さだった。川の冷たさとは程遠い扉のむこうの熱気はトゥエンのほおにまだ残っていた。



 酒をひと口、胃に流しこむ。トゥエンは目をとじた。まぶたにうつるのはリーシャがそばにいるさまざまな動画だった。リーシャがトゥエンに対して告白したときから、リーシャと遊んで、いっしょにご飯を食べて、学校のかえりに手をつないでかえって、勉強して。最後は、あざだらけの顔で見た校庭の変死体。



 トゥエンの印象的な記憶には全てリーシャがいた。リーシャのいないときの記憶は逆にあまりなかった。剣の修業をしていたころにシモフと張り合っていたことはおぼえているが、ほかの同期や弟弟子、兄弟子のことは全然おぼえていなかった。にもかかわらず、小さなことはおぼえている――ひとり物思いにふけっているときは、かたわらにリーシャの顔があった。



 トゥエンにとって、リーシャはとても大きなものだった。どんなときもトゥエンを支えて、励ましていた。たとえ『いない』としても、である。いないリーシャのために、トゥエンはいままで生きてきたのかもしれなかった。そして、これからも。



 扉が開いて、大皿の湯気のむこうにリーシャの顔があった。にんまりとした表情はいい塩梅にできたと思っている証拠だろう。できたよ、という声はあかるく、右手の指であんかけのようなものをすくって味見した。



「野菜と魚をいためてみたよ。それを卵でからめてみたんだ。クレシアの作る料理にくらべればぜんぜんおいしそうでもないしおもしろみもないけれど、私のできるだけ」



 トゥエンは答えることができなかった。まぎれもなくリーシャが目の前にいて、料理を作ってくれた。たったそれだけのことだと思っていた自身がどこかに消えてしまっていた。リーシャがいることそのものがすごいこと、料理を作ってくれることもすごいこと、笑顔を見せてくれることもすごいことなのだ。ああなんと愛しいリーシャであるか! リーシャが、トゥエンにとってはなくてはならない存在だった。ああ大事なリーシャ!



 すっかり固まったトゥエンの横にリーシャが腰かけた。皿をカウンターにおき、いためものにフォークを一本刺した。トゥエンに持つところがむけられていた。リーシャはすでにフォークを手中におさめていて、トゥエンがフォークを持つのを待っていた。だが、彼女へのきもちでいっぱいのトゥエンには、食事に手をつけられる余裕がなかった。



「トゥエンくん、ほら、食べようよ」



 トゥエンの思いでギリギリになっていた心の器が、リーシャの声で突如こわれた。リーシャ、とつぶやいてその顔を見た。トゥエンの目じりが溢れ出した気持ちでテカテカとぬれそぼっていた。名前をまたつぶやく。もう一度、つぶやくよりも大きな声で名前をよび、襲うようにしてだきしめた。床におちるフォークの音。トゥエンは何度もリーシャの名前を口にして、顔の横をリーシャにすりよせた。体をすりよせる子猫のようだった。



 リーシャは目をまん丸にしてトゥエンのとびつきを受けとめた。子供のような調子の声を聞いているうちに、リーシャの表情は次第にいつくしみを帯びた。また、トゥエンの腰に腕を巻きつけていった。トゥエンの抱きつく力よりも腕に力をこめた。私のことを考えてくれたの? と尋ねたら、トゥエンは、そう、とだけ。答えるのもままならない状態となっていた。いつしかトゥエンは泣いていた。



「私のことはトゥエンくんが助けてくれるんでしょ? トゥエンくんにだって私がいる、私をたよっていいんだよ」



 トゥエンは背中の服をわしづかみにした。リーシャを抱きしめる力を一層強くして言葉に答えた。するとトゥエンをつつむ力も強くなった。大事なリーシャとまちがいなくだきしめあっている。うんと幸せな気持ちになって、涙はおちつくどころか、激しくなった。リーシャへの言葉を口にしようとしても言葉にできない。でてくるのは子供じみた泣き声だけだった。その隣ではリーシャも冷静ではいられず、涙目になっていた。



「ねえ、今日は泊まっていって。今日は離れたくない、一緒にいたい」

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