2.9 トゥエンくん

 『くん』づけで名前をよばれたのは、そうやってひとりもんもんと考えこんでいるときだった。



「トゥエンくんは、わたしのこと、おぼえてる?」



「ええ、もちろん。暗い王宮のなかで、角でであいがしらにぶつかって、そこにあなたがいて、それがちょうど王宮にしのびこんだかえりで」



「えっと、なんの話してるの? それ誰のこと?」



「いや、でも、エグネさんとは」



 トゥエンと殺戮の女王とのであいは、彼はまちがいなくおぼえていて、それ以外のであいはないはずだった。世の中が戦争におおわれているなかで、殺戮の名が席巻しているときだった。獣人に味方する人間はいないものかと思っていたところでみたその人。記憶をたがえるわけがなかった。



 ああエグネ、とマーターは口にした。



「エグネは、母さんは死にました、三年前に、殺されて」



「母親? じゃあ、娘さん、でも」



「おぼえてないのか、そもそも分かってないだけかのかは知らないけれど」



「だから、誰ですか」



「リーシャよ、リーシャ」



 トゥエンの背筋がぴんとのびて、おもわずマーターの顔をみあげた。背筋の緊張に腕までもがびっくりして、グラスの中身を放ってしまった。



 トゥエンの中で、リーシャは死んでいた。惨殺死体を目の当たりにしたのだから、信じられなかった。まさかリーシャの亡霊か? トゥエンの目は騎士らしさをなくして、泳ぎまくって、マーターのいろんなところを見てまわった。



「死んだはずでは、その、オレは死体を見てるんですよ、この目でしっかり、なのに生きてるっていわれたって」



「本当にリーシャの死体?」



「だって、あの件のつぎの日のことだから」



「誰だか分からないぐらいにぐちゃぐちゃになってたはずよ、見た目だけじゃ、わたしかわたしじゃないかはわからない。ちがう?」



「そりゃあ、顔がつぶれてるぐらいだったし」



 トゥエンは冷静さをなくしていた。彼女がいっていることが本当かウソかを深く考える前に、目の前の存在がリーシャなのかニセモノなのかをみきわめるのにせいいっぱいだった。トゥエンは彼女の言葉の信憑性を考える余裕がなかった。



 マーターはカウンターから離れて、となりの席についた。クレシアがついさっきまで座っていた席だ。だがクレシアがしていたように、手元を見ることはしなかった。右手をトゥエンの肩におき、口を耳元に近づけた。



 ――リーシャのためなら、国を敵にまわしても、つぶしてもいい。そういったでしょ?



 彼女のささやきは、トゥエンの目をさますのにじゅうぶんすぎるものだった。トゥエンはこの言葉をはっきりおぼえている。リーシャにかけた友情と愛情とがごちゃまぜになった言葉でもあり、また、自身の立場をはっきりさせた最初の言葉でもあった。



 肩にのった手をとり、トゥエンは彼女とむかいあった。彼女の手をつつみこむようにして手を重ねて、手のだんごを見つめた。はさみこんだ手のあたたかさがにじんできて、トゥエンにしみこんでゆくにつれて、気持ちが穏やかになっていった。リーシャの顔色を見ると、わずかに赤らんでいて、トゥエンはとてつもない気分の高まりを感じていた。



「リーシャ、なんだね? リーシャ?」



「さっきからそういってるの」



「よかった、生きてたんだ」



「トゥエンくんには知らせたかったんだけれど、いろいろあって」



「じゃあ、あの死体はなんだったんだ?」



「わたしがやったんだ。それよりも、これからのことなんだけど」



 その言葉にトゥエンは首を横に振った。トゥエンはすっかり騎士としての自分をほうりなげてしまっていた。彼の心は情勢ではなく、彼女のことでいっぱいだった。クレシアのことをわすれてしまいそうなほどだった。



「リーシャのこと、いろんなことききたいな」



「でも今は――まあいいよ。一日ぐらいなら」



「どうしてここにオレがきたときからいってくれなかった? いってくれればよかったのに」



「どんな人でもうたがってかかるようになっちゃってね。誰が何してるかなんてわからないから。それに子供の頃のことだから、考え方が変わってるかもって、こわかったんだ。じゃあせっかくだからきくけど、どうしてトゥエンくんは気づいてくれなかったの? わたしはすぐにわかったよ、トゥエンくんだって」



「だって死んだって思ってたから想像もしてなかったよ。でも、なんとなくエグネっぽいかなって気はしてた。まあそれで、さぐりさぐりの会話になってたわけなんだけど」



「正直なところ、あんなにおもい通りの会話にならなかったのはトゥエンくんがひさびさ。すうするってすりぬけていっちゃうんだもん、わたしが考えている筋書を」



 トゥエンの相づちで話がわずかにとぎれて、対話がまたつづくかと思ったら、たがいにニコッと笑いかけた。彼女がトゥエンの名をよびながら腕を広げた。胸にとびこむようにして、トゥエンがだきしめる。首もとのにおいをすいこみ、ささやきかけるようにして話をつづけた。



「いきててよかった」



「またあえてよかった」



「ここにきてエグネの娘だったなんてことははじめて知ったけれど」



「いってないからね」



「やっぱり、いろんなこと教わったの?」



「うん、話術とか潜入に必要なことから、暗殺まで」



「じゃあ、いまは」



「獣人たちの組織をまとめている。私が橋渡しというか、情報をきちんと共有できるようにしてる」



 二人はようやく抱擁をといた。そのあとさらに何かをすることもなく、なにごともなかったかのように、イスからたちあがって、カウンターの中に戻った。するとトゥエンのものよりも大きなグラスをもって、樽からなみなみとハチミツ酒をついだ。かとおもえばイッキのみした。



 トゥエンは彼女にまなざしをおくってばかりで、グラスをまだ飲もうとしなかった。彼女のイッキに呆然としているところもあったが、目のまえに死んだはずのリーシャがいて、それがまだ不思議だったからだ。まるで夢であるかのような、酒に酔いつぶれて寝てしまい、リーシャがマーターであるという夢を見ているのか。しかし、グラスのエルボー産ハチミツ酒は一滴も減っていなかった。首もとのにおいははっきりと鼻におぼえている。リーシャのにおい。子供の頃は何とも思っていなかったこのにおいが、どうして心を安らげるのか。



「組織でわたしがやりとげたいことは、たぶんトゥエンくんが思ってるのと、昔とかわってなければ、同じ」



「うん、人間と獣人の和平」



「だけれど、組織そのもので考えると、あまりおおくない。いまは、人間を殺せって考えてる人が大勢いるんだ」



「あの男もそのひとりってことか」



 トゥエンの言葉に、彼女はこくりとうなずいた。目はしかしトゥエンにむいているわけではなく、グラスにたらしたシーペだった。あの男、と口にしながら、『ボブネ』ときざまれている樽から酒をそそいだ。



「あの男が武力で訴えろといってる連中の一番にいるんだ。名前はキルゲス・イーレイ。幹部ではないけど、ほかの幹部よりも力があるかもしれない」



「邪魔なやつってことか」



「でも、獣人側が分裂しちゃったら、力がなくなっちゃう」



 トゥエンはようやく酒を口にした。グラスをつかんだままでいたために、酒はぬるくなっていた。だけれども温められていたおかげで、ハチミツ酒の香りがいきおいよく鼻の中に満ちた。あまいかおりのひろがりとともに、自分のすべきことを見いだした。



「最後の最後まで分裂しないようにして、さいごで出し抜くつもり?」



「わたしが意図的にどうこうできるような人間じゃないの。たしかに話術はわたしに勝てるわけがないけれど、誰のいうことも聞かないから。前の劇場のことだって、今は何もするなっていったのに、ああいうことになっちゃったし」



「あいつの側近は? そいつを利用して男を操れば」



「側近なんかいないよ。ひとりでなんでもやらかしちゃうから」



 トゥエンが考えていたのは、イーレイをみずから監視することだった。監視をして、徹底的にイーレイの前にでて邪魔をし、彼らの勢力から悪評をかちとる。それから誰も見ていない状況で暗殺をやりきれば、『人間がイーレイを殺した』となって、人間に対する反感がます。そうすれば、すくなくとも人間と獣人との対立という図式を保つことができる。分裂はなくなる。獣人と人間の対立が深まることはやむをえない。もし秘密裏の暗殺であれば、獣人が暗殺をしたと思われてしまうからだ。



 人間と獣人の対立を助長させるのはトゥエンの主義に反するが、ここで獣人勢力が内輪もめでもはじめようものなら人間の思うつぼだった。



 トゥエンは酒を口に含んだ。



「なら、オレが見張ろう。オレが人間ってことを分からせて、それでジャマして悪評をかって、最後に男を殺す。その段階で、男を殺した人間は国王からの剣客だとふりまけば、うまいことおさまる」



「そしたらトゥエンくんはどうなるの?」



「顔をかくしておけばオレだとはわからないだろう。大事なのは、男の邪魔をするのが人間であること」



「それでも、こっちに牙をむいてきたらどうする?」



「いっしょになって『相手』をたおせばいい」



 彼女は口元に笑みをうかべながらトゥエンの言葉をこばんだ。共通の悪役を作るとの分かりやすい方法を示したわけだが、彼女は首を横に振るのである。ならどうすればよいのか? リーシャと再開して興奮しているトゥエンに答えを用意するのは難しかった。



 トゥエンにしても危険性を感じていないわけではなかった。トゥエンとイーレイはすでに顔をあわせてしまっていた。そのため、顔をかくしたとしても、イーレイには分かってしまうおそれがあった。



「トゥエンくんの体つきをみると、女装させるには肩幅があるからだめ出し、あと、コリシュマーデを見られたらお終い。みすぼらしい服で包丁か斬撃剣かが武器ならなんとかなるかもしれないけどね、もしこれを口実にあっちが反旗をひるがえしでもしたら」



「このたくらみがリーシャたちの『でっちあげ』だと言い張るわけか」



「これを防ぐのはムリだとわたしは思うんだ。分裂することで何か、イーレイにとってじゃまなものができて、かつそれをイーレイが予測できる、そんな状況を作り出すんだから」



「分裂することによって相手に不利となる何か、かあ」



 それも致命的なものでなければならなかった。トゥエンが想像できないほどの、それも集団が一瞬でばらばらになるほどの強いものだ。せいぜいトゥエンが思いえがくことができたのは、イーレイに従う連中をリーシャのもとにひき抜くことだったが、あまりにも時間がかかり、その上、ひきぬきの勝算がたたない。それを極秘裏に。かなりに危険がともなうものだった。

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