1.2 寄り道

 雨粒が去って、彼はよいもてなしとかわいたオスェンとひきかえに、いわれたよりもおおい額を酒場において、一直線の通りをひたすら歩いていた。さも問題なく道を歩いているが、普通だったらまっくらにみえるぐらいの闇夜だった。薄暗い店のなかにいた彼は全くこの暗さに気づいていなかった。大雨が降ったあとは、あたりはたいがい黒くなる。どこの誰が言いだしたのかは知らないが、その大雨のことをベルクタープ・ギーエン黒くする雨とよぶ人がおおい。



 雨音が激しい中、人のどなり声が聞こえた。路地に目をやると、男の罵声が何かをとりかこんでいた。近づいてみれば、人がけられていた。モチつきのようにとだえることなくけられ、なぐられて。トゥエンが剣を抜いて連中に近づいていったところ、とあるひとりが一緒になってけっている人たちの肩を叩き、全員がぎろりトゥエンを見るやいなや、散り散りに逃げ出してしまった。けられていた人はまだ地面に倒れていた。



 トゥエンに殺されると思ったのか、その人は地面をはうようにしてトゥエンから離れようとしていた。その人の耳には毛がびっしりと生えていた。人間とは違う人。獣人とよばれている人だった。



 トゥエンは剣をおさめた。あたりを見まわすとフードが雨水を吸っていた。それを拾いあげ、水を絞ってその人に差し出す。何が起きたのか分かってない様子の彼に、



「街の中心を通るのは獣人には危ないからできるだけまわり道をするのだ」



と声をかける。よけいに混乱しているようだったが、トゥエンは気にせずその場を立ち去った。



 トゥエンがめざしている建物は彼の仕事場兼家――鍛冶場だった。酒場で彼は剣術を教えていることを口にしていたが、本来の仕事は金属いじりだった。常日頃使う金物を鍛えたり直したり、剣を産み出すのである。



 鍛冶場は、トゥエンが視界を失うほどに黒い世界となっていた。彼はそこで入り口近くにおいてあるはずの火うち石と火うち金とを、手さぐりでまず探さなければならなかった。石と金属片とを右手に見つけると、今度はしゃがんで、石たちを左手にもちかえ、床においてある袋から綿と木ぎれを取りだした。



 火うち石のへりに綿をおいて親指で押さえ、そのへりめがけて火うち金を打った。火花がとんで綿にもとびかかる。何度かくりかえすと綿に火がつき、すかさず木ぎれをかざした。息を殺して、木ぎれに燃えうつった火をろうそくへ。



 ろうそくを燭台に立ててもち、部屋のすみっこにあるテーブルに座った。丸いテーブルの真ん中に燭台をおいて、次にトゥエンがイスに座った。前腕をテーブルに横たえて、ゆれる橙色をぼうっと見つめた。



 トゥエンはほんのちょっと風を炎に送った。ロウソクのしっぽは弱々しく縮みあがってふるふると揺れて、ぶれながらも真上に戻った。トゥエンは炎にむけてほほえみかけた。そのさまの気味の悪さといったら、暗い室内では余計鮮明だった。



 トゥエンには、橙色が魚の上にかかっていた柑橘のあんかけと重なり、その向こうがわに給仕の姿を思いうかべたのだ。手や口もとの美しさにやられてしまったのだ。深々とかぶったフードの中の、見えなかったところをそのときになって見ようとしているのだ。あんなに白くてきれいな腕をしているのだから、さぞ心のきれいな方なのだろう、と、あの人と話をしたい、と、思いは小さいままの炎とは比べものにならないほど膨らんだ。頭の中で彼女の姿が胸から形づくられてゆく。作りあげられてゆくとはいえども、胸から下はほとんど作られることはなく、腕や頭のみがまたたく間に作られていった。それでもやはり顔をおがむことはできず、想像の世界でもフードをぬがせることができなかった。



「ああ、どうしてこんなにも」



 トゥエンはテーブルに肘をついたまま頭をかかえ、わずかな風圧でゆれるしっぽを見て、口元がフニャフニャにゆるんだ。右腕をまたテーブルに戻して、左腕で頬づえをかくと、またにやけた。

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