黒い雨に赤く滴り

衣谷一

1.アクソネの鍛冶屋

1.1 黒い雨

 まわりの音が聞こえないほどの豪雨が、アストヴァイシャ王国の王都アクソネに降った。地面にしかれた石畳を、あたかも親に叩かれる子供の尻のように、雨粒が、言葉通り、叩いている。ある女はあわてて洗濯物を取り込んで、親の目を盗んだ子供たちは外にでて、びしょぬれになってはしゃぎだしていた。叱られながらも家の中へ引きずりこまれてゆく光景のその奥では、水をおとす空を、窓から顔を出してのぞくひと組の男女がいた。



 そんな通りを小走りに脚を進める男がいた。男は剣を腰にたずさえ、だからといって重たそうな鎧をつけているわけでもない、彼が身につけているのは、オスェンという、立襟の服だった。立襟にはホックがついておらず、彼が歩くたびに、襟と襟との間に顎がめりこんだ。色は赤で、銀色の刺繍が入っている。男の視線のさきには王宮を守る騎士が立っていた。その騎士が着ている革の鎧は雨を通さないのだろう、とうらやましく思えたが、同時に、きっと小走りするにもひと苦労だし、何よりまわりが見えないのだろう、そう思ってうらやましくなくなった。トゥエンというその男が、それから十字路を右手に曲がった。



 トゥエンは雨のなか、とある建物を前にして立っていた。建物のドアには「営業中」の札がかかっているけれど、ドアの横にある木の窓は閉まっていた。彼は空を見上げる。上の灰色と同じぐらいこの店の中に不気味さを感じるが、このまま雨のなかでぬれているよりも、暗い店に入るが得策だった。



 チリリンと鈴が鳴って、カウンターのなかにいる店主と目が合う。黒いチュニックを着ているその人は、一瞬きょとんした目となって、それから、いらっしゃいませ、と声がかかった。



 中は平べったい材木をいくつも組み合わせてったテーブルが六つあり、同じように木材を組み合わせた角イスがそれぞれ六つあった。テーブル席が簡素なりであったのに対し、カウンターはたいそう立派だった。天板にはきれいな一枚板が使われていて、その下も、細い材木を張ったようになっていて、見た目はとてもよく、その向こうの、壁に埋めこまれたタルは圧巻だった。



 トゥエンはカウンター席の、その人の前に席をとった。



「いかがなさいますか?」



「ああ、はじめてくるので、何をおいてあるのか全く見てなかったもので」



「お酒を提供しています、それとお酒にあう料理をいくつか」



「では、お酒を一杯、マーター店主がおすすめのやつで」



 かしこまりました、と店主は背をむけた。男にしては高い声だったが、だが男にもたまに見かける声の感じだった。トゥエンはその背中をじっと眺めた。



 マーターがグラスを差し出した。黄色い色をした酒で、細かなアワが底からふらふら浮きあがっていった。アワが消えて、鼻をくすぐるのはハチミツの香り。トゥエンはすぐさまそれがハチミツ酒であることを見抜いた。けれども、ハチミツ酒が麦酒のように泡をたてるはずはないのだ。マーターにたずねた。



「エルボーの甘口のハチミツ酒に、メルヒェンドの水、ここからはちょっと離れたところにありますが、メルヒェンドという山でとれるポプタープ・ファルタ泡のでる水でわったものです」



「泡がでる水とは、そんなものがあるのですね」



「ええ、わたしもウワサをたよりに探しまわってようやく見つけられた逸品です。エルボーのハチミツ酒も、いまの時期は上等品です」



「色あい、香り、なかなかです。その色あいのなかをくぐりぬけるこまやかな泡も」



 お気に召したでしょうか、との問いかけに、トゥエンは答えないでひと口、口に含んだ。口の中に広がる、やさしい甘みの広がり。その味を適度に抑えるこまやかなアワが舌のうえで舞い踊る。泡がはじけるたびに鼻へ香りがとびこんでくるのだ。



「ええ、かなり」



 トゥエンはグラスを揺らしてこがね色が揺れるのを夢心地な目で眺めた。大きなうねりからはじまり、次第に波がぶつかりあって、そこに気泡がとびこんで、小さくなってゆく。面がおちついた頃合いになって、グラスをカウンターにおいた。



 ハチミツ酒を体に入れたせいなのだろう、体が温かくなって、肩が冷たく感じられるようになった。どこか火のある温かいところで乾かせないかと思い立ち、あらためて部屋を見回した。貧しげなテーブルとイスがあるばかりで、しかし暖となりそうなものはなかった。



「どうしましたか?」



「あ、いや、上着が乾かせるようなところはないかと思ったのですが、テーブルにひっかけておくぐらいしかなさそうですね」



「でしたら、奥に暖炉がありますので、そちらで乾かしておきましょう」



「ぜひともおねがいします」



 トゥエンはボタンを外して、たてにふたつ折りにして、マーターにわたした。両手でだくようにしてうけとったマーターは、カウンターからすべりでて、隅っこにある扉をぬけていった。開いてから閉まるまでのわずかな間だけ、奥の部屋で飾られている大きな絵画の一部が見えた。



 ひとりだけとなったトゥエン――上は無地のシャツをきていて、そのせいか、ようやくスラックスの仕立てのよさがひきたった――は、ハチミツ酒をひと口のみ、それからカウンターを離れた。窓際へと歩いてゆく足音が、コム、コム、コム、とあたかも木の打楽器をうっているような甲高い音で、心地よいものだった。



 出入り口横にある木の窓を、少しだけ開けた。まだ大雨はつづいていた。木の窓と窓枠の間から見える中で――その頃窓ガラスは庶民の手に届くものではなかった――木窓を開けている様子はなかった。はしゃぐ子供の姿をみつけることはできず、また、はしゃぎ声も聞こえなかった。せいいっぱい拒絶したいほどに、この雨はうっとうしかった。現にトゥエンも、空から身をなげる彼らのせいで雨宿りしているのだ。



 地面の石畳で雨粒がくだけちる様子を見ながら、ハチミツ酒ののこりを飲み干した。グラスにくっついて黄金色にしている酒を見下ろしながらも、胃の中から膨れ上がってくるあったかさに息をもらした。



 人のけはいがして振りかえったら、マーターがいつしかカウンターに戻っていた。



「火はなかなか強かったので、乾くのに時間はかからないでしょう」



「そうですか。ならばもう一杯、同じものをいただきましょう。ああ、せっかくだから、何か料理をひとつおねがいできますか、おすすめのもので」



 マーターの受け答えをきくまえにトゥエンは窓を離れた。こがねの膜がとれたグラスを、へその上ぐらいの高さに保って、テーブルの間をすり抜けていった。彼がカウンターを前に立つまでに、マーターは先ほど入った部屋に入って、それから戻ってきて、ハチミツ酒のポプタープ・ファルタ割りを置いた。だが、トゥエンの中にある酒よりも、色がうすく、たくさん泡がグラスにはりついていた。



「今らせているので少々お待ちください。あと、食事にあわせるため、ハチミツ酒はエルボーのものではなくボブネの辛口にしてあります」



「おきづかいありがとうございます」



 トゥエンがそう答えたところで、間をおかずに、ところで、とマーターが手を一回うちならした。わずかな時間の共有しかないのにもかかわらず、それこそ髪一本いれるすきまもないほどに、話すことでもあるのかと考えた。まさか服を燃やしたかと頭によぎったけれども、マーターの目には、慌てふためていて目を泳がせているような様子などみじんもなかった。



「失礼ながらお尋ねしますが、あのオスェンは銀の刺繍といい、布地といい、かなりよいもののようですが、どこかお出かけになっていたのですか?」



「仕事で、町のはずれにいっていました」



「町のはずれで仕事ですか、となると、その剣で悪モノ退治を?」



「そんな大層なことではありませんよ。剣士を鍛えてたんです」



「ほう、剣術の指導ですか。若いころにはよく乞うたものです。やるたびに生傷をって、そりゃあもう痛かったですね。痛かったことしか覚えてませんよ」



 トゥエンはマーターの話に微笑みをこぼしながら、ボブネのハチミツ酒に手を出した。エルボーがこがね色だったのに対し、すっかり色をうしなっていた。口に含んでみると、またたく間にその味が広がっていった――辛口と聞いて、単に辛い甘いのさじを思いうかべてのだが、そんなところはなかった。甘みはかすかで、鼻にまとわる甘ったるさはなかった。そのかわり、アワがエルボーのときよりも強く刺激した。トゥエンはあっさりとした味わいと泡の心地よさに、またニカーッと笑んだ。



「いい味ですよ」



「目利きには、お客様を落胆させないぐらいの自信はあります」



「この町の酒場のなかではイチバンの腕でしょう」



「それはそれはありがとうございます」



 話が途切れるのを待っていたかのように、戸が開いた。まず目についたのが、白くて浅い皿にのった、焦げ目のついた白いかたまりだった。その上にかかっているのは、明るい橙色のタレだった。つけあわせらしい野菜が、白を取り囲んでいた。



 トゥエンは白いかたまりが白身魚だと勘づくと同時に、給仕の手がぶるぶるふるえていることに気づいた。どれほど緊張しているのかと、その人のあわい青のオスェンを上へと目をはわせ、ふかぶかとフードをかぶった人の目をみた。



 女らしかった。手の細さに体つき、フードからちらちらのぞいているほおが女であることをトゥエンに示した。口はきつく閉じられているようで、開くようには思えなかった。そして時折りちらちらと見える目は、薄暗くてよく見えないものの、トゥエンをとらえようとせず、マーターと魚ばかりに目くばせしているらしいことは分かった。肌の感じといい、目元や口元からすれば、かなり若い、もしかしたら二十歳になっていないぐらいではなかろうか。ただ、屋内の薄暗さのせいで細かいことは分からなかった。



「川魚と、えと、柑橘のあんかけ、です」



 女給仕はかたく閉ざされた口からかろうじて言葉をくりだし、すぐに背を向けて帰ろうとした。トゥエンは、彼女が顔を見せようとしないでそそくさと戻っていってしまうことが、とてももったいなく感じた。ちゃんと顔を見て、ほんのすこしでいいから話をしてみたかった。



 話しをしたいと語りかけるも、トゥエンの声は給仕にとどかなかった。すたすたと小走りでカウンターをまわり、扉のさきへとかけこんでしまった。



 マーターに目を向けたら、マーターは扉に目を向けた。トゥエンが見ているのに気づいたらしいマーターは、とたん目をトゥエンにやって、ちょっとだけきまりの悪そうな笑みを浮かべた。



「彼女、人見知りなところがありましてね、話しをしたいのならば、彼女から話しかけてくるのを待つしかありませんよ」



「そうですか」



「ここで働くと訪ねてきたときも、真っ赤な顔をして、それは緊張した面持ちでしたよ」



「よっぽどですね」



 ええ、とマーターが答えるが、すでにトゥエンの興味は『彼女が作った』料理だった。どちらかというと黄色に近い橙のあんが、白身魚を包みこんでいる。その色あいの美しさが給仕のあの人のようだと一瞬思ってしまった彼は、自身の妄想にため息をついてしまった。あまりにも自然な流れで、吐き出されてしまってからため息を吐いたことに気づいたほどだった。すかさずマーターを見て、小さく笑ってみて、食べはじめた。



 白身魚のあっさりとした味に、あんのさわやかな香りとやや強い酸味。どうやら蒸し焼きになっている身は、ふっくらとしていて、かむたびに味がはじけでて、あんとまじる。料理の味が残っているうちにボブネを飲んだ。酸味と酒の味がまざっていい塩梅となり、柑橘系の酸味が料理の味の中心じゃなくなって、一つの味にまとまった感じがでてきた。



「飲むまえの、酸味が強い味もよいものですし、酒の甘さとまざった味わいもなかなか、いい腕ですね」



「ええ、そこにはわたくしも感服するばかりです」



「ますます話がしたくなってきましたよ」



「話しかけてくるのがまちどおしいですね。しかし、そこまで彼女と話したがる人もそうはいませんよ。人肌が恋しいとかですか?」



「どうなんでしょうね、自分にもさっぱり分かりませんよ」



 トゥエンはフォークで切り身の崩れた部分をさらに崩して、あんとからめて口に入れた。すかさず酒をほんのちょっと、口に含めた。

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