8.暗雲



 謹慎もようやく終わり、宴会に参加した者が隊務に復帰した。


 それから間もなく、伊東が部下を数人連れて西へと旅立った。

 表向きは、長州の視察。

 近藤や土方は、それを了承し行かせたものの、やっと尻尾を出し始めたとふんで山崎に後をつけさせた。

 伊東は、薩摩との繋がりを持とうとしている。


 そんなことは知る由もないはずの賄い方が、いよいよかと溜め息をついたのは、近藤や土方でさえ知らない。


 悲しいけど、あたしが何をしようが、歴史なんだからしょうがない。


 例えば伊東の動きを阻止したとして、その先にどんなことが待ち受けているのか。

 あくまで幕府に追従する近藤らと、幕府に不信感を抱く伊東。琉菜が一人で伊東の”行動だけ”を止めたところで、深まっていく両者の溝が埋まるとは思えなかった。



 だから、琉菜はただ、賄いの仕事に精を出す。




 そんなある日、屯所に幕府御典医である松本良順が現れた。

 新選組の医療担当である山崎が京都を離れている間、松本がこうして隊士の検診に来ることになっていたのだ。以前、近藤が江戸に帰った際に松本と懇意になり、それから何かと新選組の面倒を見てもらっている。初めて松本が新選組で検診を行った時、あまりにも不衛生な環境で、体調を崩す隊士が続出していた。最近は状況が改善され元気を取り戻す隊士も増えていたが、それでも松本は新選組を心配し、暇を見つけては検診の機会を設けてくれていた。これは松本が近藤の人柄を見込んだことによるものも大きい。

 

 だが、その近藤・松本の計らいだというのに乗り気でない者がいた。


「検診なんてめんどくさいですねぇ」


 診察室に向かいながら、沖田が退屈そうに言った。もっとも、沖田だけでなく大多数の隊士がそんな風にぶつくさ言いながら松本のいる部屋に向かったのだが。


「しょうがないじゃないですか。それに最近沖田さんよく咳してるし」琉菜は文句を垂れる沖田に正論で返した。実際嫌な予感はしていたので、医療の進んでいないこの時代の医者とはいえ早く診て欲しかった。


「ただの風邪ですよ……ゴホッゴホッ」

「ほら、言ってるそばから!」


 琉菜は「ちゃんと見てもらってくださいよ!」と沖田の背中を押して診察室の前に並ばせた。





 検診が終わったころ、琉菜の部屋に井上がやってきた。

 井上は、今や琉菜の直属の上司だった。賄い方の当番シフトを決めたり、必要な道具や食材があれば、勘定方に話を通してくれる。

 琉菜は数少ない賄い方の専任要員だったため、井上と仕事のことでやり取りする機会は増えていた。だがそうは言っても井上の方がわざわざ琉菜の部屋にやってくるのは比較的珍しい。



「琉菜さん、松本先生がお呼びです」

「あたしですか?」思わぬことだったので、琉菜は聞き返した。

「琉菜さんと私です。とにかく、行きましょう」


 井上の面もちは暗い。

 よくない知らせを予感しているようだった。琉菜は、ほぼ確信していた。




「ああ、どうもすみません」


 琉菜と井上が診察室に入ると、松本はそう言ってから、座るように促した。


「お呼びしたのは、賄い方のお二人に、お願いがあるからです」松本は少し神妙な面持ちで言った。

「単刀直入に申し上げます。今日の検診ではっきりしました。隊士の中に、労咳の患者がいます」


 その場に重い空気が流れた。


 やっぱ、とうとう来たか……。


「労咳というのはこれをすれば治る、と断言できる治療法はありません。しかし、療養と精のつく食事で進行を遅らせることはできる。ですから今よりももっと、滋養のある食事を作っていただきたいのです。それで、こうしてお二人に話を……」

「わかりました」琉菜は淡々と答えた。


 誰なのかはわかっていた。

 改めて告げられると、涙が出そうだった。

 だが、ここで泣くわけにはいかない。

 感情を殺して、ただまっすぐに松本を見た。


「後日、具体的に役立ちそうな食材や献立について記してお持ちします」松本も、抑揚のない調子で言った。

「ありがとうございます」井上が頭を下げた。それから、おそるおそる切り出した。

「それで……誰、なんですか?」


 松本は口をつぐんだ。

 言おうかどうか、迷っているのは明らかだ。


「本人に先ほど病名を告げたところ、心配をかけたくないから誰にも言うなと」

「そうですか……」


 井上は表情を曇らせただけで、それ以上は追求しなかった。

 琉菜は唇をぎゅっとかみ締めてその会話を聞いていた。





 話が済み、二人で廊下を歩いている時に、ふと井上が言った。


「琉菜さんは、もしかして知ってるんですか?」


 琉菜はハッと井上を見た。

 しばらく迷ってから、「はい」と答えた。


「そうですか。でも教えてはくれないですよね」

「はい。すみません……」


 はっきりと病名を宣告されたことももちろんだが、井上の質問に答えられないのも同じくらいつらかった。


「いいんですよ。いつかわかることですから」


 井上は巡察があるから、と足早にその場を去った。



 琉菜から見えなくなったところで、井上はぴたりと立ち止まった。


「総司……」


 ポツリとつぶやき、ため息をついた。

 暗い知らせとは裏腹に、空は晴れ渡っていた。




 同じころ、琉菜も大きく溜め息をついていた。


 沖田さん……

 本当に、結核にかかっちゃったんだ……

 手遅れだった。もし、罹る前に来れてたら、何かもっとできたかもしれないのに……


 一人になれば涙は止まる理由もなく。次々と、溢れてきた。琉菜はひとしきり泣いた。もうこれ以上は泣けないくらい、泣いた。


 やがて、琉菜は自室へ戻った。

 行李を開けると、中には現代から持ち込んだ大量の薬。

 咳止め、頭痛解熱薬。効き目は怪しいがないよりはマシかと思い、以前風邪を引いた時に処方された抗生物質も持ってきた。


 それを見て、琉菜はよし、と気を取り直した。


 歴史は変えられない。

 そうかもしれない。

 でも、もしかしたら少しでも沖田さんの寿命が延びるかもしれない。

 少なくとも、咳や熱で苦しんだりするのを軽くできるかもしれない。


 やってやる。

 沖田さんを、結核なんかに負けさせない!





 次の日、琉菜は朝早く目が覚めたので、道場で稽古をすることにした。


「沖田さん」


 琉菜は一人で素振りをしている沖田を見て、声をかけた。

 しかし、沖田は気づく素振りを見せない。よほど集中しているのだろう。


 結核ですって言われた直後なのに。

 あんなに激しく稽古したら体がもたないよ……。


 琉菜はひとまず自分も稽古することにした。

 木刀を持ち、素振りを始めた瞬間、沖田が琉菜に気づいたようだ。


「琉菜さん」

「あ、沖田さん、気づいてもらえました?」


 琉菜は手を止めて沖田の近くに行った。


「今日は早めに起きちゃったんで、体動かそうと思って」

「そうなんですか」沖田の声は明るかったが、表情はどこか作り笑いのようであった。

「沖田さん、大丈夫なんですか?昨日あんなに咳してたのに」

「平気ですよ。ただの風邪ですから……ゴホッゴホッ」

「沖田さん!あんまり無理しないでください」


 琉菜は沖田の背中をさすった。

 沖田は苦しそうに息をついた。


「琉菜さん……」


 沖田は急に何か思いついたような顔をした。


「お手合わせ願えますか」


 琉菜は突然そう言われ、一瞬言葉を失った。


「でも、そんな体じゃ……」

「いいから。木刀を、持ってください」


 本当なら、そんなことをせずに、療養してもらいたかった。

 断るべきなのはわかっていた。

 それでも、琉菜は沖田の頑とした目に逆らうことはできなかった。


 なぜ沖田はそんなことを頼むのか。琉菜には到底わからなかった。




「いきます」

「ええ。どこからでもかかってきなさい」


 暗く、静かな道場の中で、琉菜の足音がダダッと響いた。

 速い動きは琉菜の十八番だ。

 しかし、沖田はそれ以上に素早い動きで、顔色一つ変えずに、さっさっと琉菜の攻撃をかわしていく。


「やあっ!」


 琉菜は左袈裟を狙い、沖田に向かった。

 しかし、琉菜の渾身の一撃も、避けられ全く効果がなかった。


 よし、それなら。


 琉菜はバッと飛び上がった。


 走って追い付けないなら、一足飛びで、沖田さんの間合いギリギリのところまで行く!


「っと!」沖田は初めて困惑の色を浮かべた。と、琉菜は思った。


 もちろん、それでやられる沖田ではない。

 琉菜の木刀を鍔元で受け止めると、グッと押し戻した。


「ひゃっ!」


 琉菜は反動で転んでしまった。

 その琉菜の眼前に、沖田の木刀の切っ先が突きつけられた。


「私の勝ち、ですね」沖田の顔はにんまりと、うれしそうだった。

「あはは。当たり前ですよ。沖田さんに勝てたらあたし自分が怖くなっちゃう」

「でも、随分強くなったんですね」

「ありがとうございます」


 琉菜が立ち上がると、沖田は突然激しく咳き込んだ。


「沖田さん!」琉菜は沖田に近寄って、背中をさすった。

「だ、大丈夫です……」そういう沖田の顔は、大丈夫そうには見えなかった。

「やっぱり、無理はよくないです。ちゃんと休んでください。悪化したら大変ですから」

「休むもんですか。新選組の一番隊組長が、こんなことでいちいち休んでられませんよ」



 そう言って笑う沖田が、琉菜には儚く見えて仕方がなかった。


 やっぱり、ダメなのかな……


 薬があれば、とは思ったが、実際に目の前で咳き込み、顔色も悪い沖田を見ると、琉菜は弱気になった。


 それでも…


「沖田さん、勝ちましょう」

「勝ちましょう?誰にです?」


 きょとんとした顔で文字通りに答える沖田に、琉菜は言いよどんだ。


「誰にもです、何にもです」


 我ながら意味不明なことを言う、と琉菜は思ったが、


「あははっ、やっぱり琉菜さんは面白い人ですねぇ」


 と沖田が笑ってくれたので、琉菜も思わず笑みをこぼした。


 

 この笑顔を、少しでも長く見ていたい。



 琉菜は、ただそれだけを願った。








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