2 有害城
●●の歴史は、『ふがす郷土誌』にある程度は記述されている。
これによると、鎌倉時代の
よりにもよって有害城である。要害城の誤植ではないかとも思ったが、郷土誌の複数の箇所にそう表記されていたので、たぶん合っているのだろう。いかにもダメそうな名前であるが、●●に城があったこと自体にも驚いた。
さらに、有害城の歴代城主が戦に出た記録も同誌には記されていた。
まず、初代城主の義明が、
いわゆる
ただ、この時期に有害城が落城したという記録はない。また、これら歴代の城主が討死したという記述も見られないことから、少なくとも室町時代前期の時点では、禁忌の原因となるような事実は発生していなかったことになる。
そこで資料を読み進めてみると、有害城は
ということは、●●地域の二つの禁忌のうち、少なくとも一つはこの時の落城に起因しているのではないか。私の胸は高鳴った。
しかしよくよく考えてみれば、『ふがす郷土誌』の記述から明らかなのは、有害城が落城して四郎が所領を没収されたという事実だけである。落城=城主の討死ではないのだから、それだけでは彼が禁忌の原因になったとは言えない。
それどころか、有害城の落城後に「四郎が所領を没収された」という書きっぷりからすると、四郎は落城時に敗死していないと見る方が正しかろう。
したがって、応仁の乱における有害城の落城エピソードは、残念ながら禁忌とは関係がない。
そうなると、禁忌の由来となる有害城の落城&城主の討死の時期は、応仁の乱よりもあとの出来事ということになる。
ところが、『ふがす郷土誌』を読み進んでも、応仁の乱以降の有害城については記述がない。●●一族のその後についても同様である。
これはやばいと思ってざっと確認したところ、同誌の引用する出雲地方の諸文献においても、応仁の乱以降の有害城および●●一族の記述は、ほぼ皆無に等しいことが判明した。
記述がないということは、1470年の時点で有害城は
──だったら、いつどこの城が落城して誰が討たれたというのか?
この点、禁忌伝承の由来ごときに整合性を求めるのもどうかと我ながら思わないでもないのだが、かと言って落城と城主の討死自体がフィクションであるとはどうしても思えない。
たとえば、先述した宮崎県の例にしても、福永丹後守が討たれたのはれっきとした事実なのだ。ただ、彼が南瓜の蔓に足を取られたかどうかは
●●の場合も同様で、『城主』が実際に門に阻まれたか黍殻に足を取られたかはともかくとして、居城を落とされて討死したというのは、きっと事実である。
そうでなければ、最初から城主などと言わないで、適当に神様の逸話でもデッチ上げておけばよかったではないか!!
……と、いささか強引に自らの心を奮い立たせて再度『ふがす郷土誌』を読み込んでいたところ、応仁の乱以降の有害城について記された箇所が存在した。ありました。
村の歴史ではなく、第十章第三節『名勝旧跡』の有害城跡の説明のところで、「鳶巣城落城の際に、有害城も落城せる」との『
ただ、そうなると問題なのは、《鳶巣城》とはなんじゃいということである。トビスなのかトビノスなのか、それともほかに読み方があるのか、それすらもまったくわからないのである。
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