第4章-後半 ハッカー”児玉孝一”
2時間ほど静かな時が流れ、時刻は16時の少し前。
「動作が・・・なんか不自然だ」
孝一が呟いた。
セキュリティチェック契約は17社。その内11社に不可解な動作がみえる。孝一は定期的なセキュリティチェックで、詳細な動作を記録している。その記録と比較しても微かな違いでしかないのだが・・・。
「孝一。どうしたの?」
「契約企業のウェブサイトの動作が妙なんだ。なんていうか、前回チェックした時と微妙に異なるんだよ」
「仕変があったんじゃないかな? それか、設定値の変更があったとか・・・」
仕変とは仕様変更。仕様とは、ソフトウェアの動作やコンピュータースペックなどの事である。仕様を決定し、その通りに製造するのだ。特にソフトウェアは頻繁に改善改修や改良、改造をするため、動作の仕様が変更される。
またソフトウェアには動作を制御するための各種設定値がある。ソフトウェア毎にある設定機能を使用するか、統合パラメーター管理ソフトウェアを使用する方法がある。統合パラメーター管理ソフトウェアは設定値の変更、追加、削除を各ソフトウェアに反映させるのと、それらの履歴を管理もしている。
「仕変があったら連絡が来んじゃん。それに契約企業の対象サイトのソフトウェアなら、何が使用されているか把握している。だから設定値に変更があっても、ある程度どういう動作をするか推測できんだよ。そういう動作じゃなくて、リクエストした内容に対してレスポンスの際、不要なパケットが送受信されてんだよなぁー」
「AIで処理してるからじゃないの?」
「まあFAQサイトは、専用のAIを使用しているけど、機械学習によって回答が洗練されていくだけじゃん。それに不要なパケットの中にさ、どう見ても学習に不必要なアドレスにパケットが送信されてんだよ。しかも1ヶ所じゃなく、調査した限りでは5万を越えてる」
「ということは?」
ため息と共に綾が尋ねてきた。
「ハッキングされたんだよ」
「そうじゃなくって! これからどうするかを知りたいんだよねっ」
中学2年と高校1年で同じクラスになり、付き合ってから8ヶ月、アルバイトを頼んでから6ヶ月が過ぎた。いい加減、綾の考え方も把握できてきた。
綾は、仕事よりも自分との時間を優先して考えている。
だから、ため息と共に訊かれれば、これからの作業内容を知りたいというのは推察できる。
でも仕事の話をしている時に、その思考の切り替え方はダメじゃないか?
話の流れがブツ切れになってんじゃん。
色々ツッコミたい衝動に駆られたが、他人事のような口調で答えることにした。
「徹夜だろうなぁ」
「分かった・・・。私6時半には帰るから、そのぐらいでまでに出来そうな仕事をする方針で良い?」
「ありがとう、綾。それじゃあ、早速頼みたいことがある。リストに記載した契約先企業からサーバーのIDとパスワードを、使い捨て時間制限付きで、いつもの様に提供してもらってくれ」
契約でセキュリティチェックの為の攻撃とネットワークログの参照は、いつ実施しても構わないとなっている。しかし、いつでも公開サイトのサーバーの中にアクセスできるようしておくのは、お互いリスクが大きい。そのため、一時的にしか使用できないIDとパスワードに、アクセス権を必要な範囲で必要な時間だけ付与してもらっている。
「権限は参照のみで良いよね? その他にはある?」
綾は曲面ディスプレイの共有部分に表示されたリストに目を走らせながら、孝一に企業への要求事項を確認した。
「一応、仕変があったかどうかも確認して欲しい。ただし、仕変があったとしても検証はするからID/パスワードの提供は必須で」
「了解、社長」
「社長は止めろって」
孝一の苦情を綾は聞き流し、早速作業に取りかかっていた。
半円形曲面ディスプレイの中央に、連絡のあった企業のIDとパスワードが次々と表示されていく。
「綾。契約先毎に取得して欲しい実行ファイル一覧を作成したから、取得手続き進めてくれ」
孝一は実行ファイル一覧を、曲面ティスプレイの共有スペースに表示させた。
綾は共有スペースへと腕を延ばし、実行ファイル一覧へと手の平を向けた。表示されている実行ファイル一覧を手掴みする動作をし、自分の目の前へと移動させる。
「うわぁー、すごい数だね」
「どれが当たりか分かんないし・・・いくつも当たりがあるかも知れないじゃん。疑わしいファイルは、全部貰っておくことにしたんだよ」
それから綾は各契約企業と連絡をとり、19時までかけて孝一が指示した実行ファイルを入手したのだ。
「明日は何時ぐらいに来れば良いの?」
綾はダイニングで、楽な部屋着から制服に着替えながら孝一に尋ねてきた。
「夏期講習が終わってからでいいよ。温かい食事付きで来て欲しいかなー」
「それは遠回しに、私の手料理が食べたいっていうこと?」
綾は自分の作業が一段落したので、家への帰り支度をしていたのだが、手を止め真顔になっていた。その表情を見ず、作業をしながら答えていたのが良くなかったようで、孝一は本音を漏らしてしまう。
「今の言葉は見逃して欲しいんだけど・・・」
「どういう意味? 孝一は、彼女の手料理が食べたくないっていうのっ?」
積極的には食べたくない。
超優等生の綾だが、料理の腕は、通っている高校の女子の平均ぐらいだと言っていた。料理の実習がないため、完全自己申告によるものだ。
しかも通っている高校は県内トップクラス。入学試験の偏差値こそトップ高に及ばないが、理系としての授業内容は間違いなく県内トップである。毎年、深く考えず志望校を1ランク落として受験し、入学する生徒がいる。その生徒たちは例外なく、成績が最底辺を漂うことになる。
男子も女子も理系脳の生徒が、日々授業以外の時間も勉強しているのだ。
料理の腕前を上げる為に時間避ける女子生徒は、料理研究会に入っている極々一部に限られる。そして超優等生の綾は、趣味のイラストとピアノ。その時間以外は、勉強の予習復習に余念がない。
「いやぁー、夜はディナーでも、と考えていたんだよ? 18時までには完了させてみせる」
玄関へと足を運び、綾を見送る。
「明日は、12時は過ぎると思う」
そういうと、綾が玄関で抱きついてきた。しばし別れを惜しんでいると、綾が少し顔を離して口を開く。
「ねぇ、先生に聞かれたら、どう言えばいい?」
首を傾げて可愛く聞いてくる綾に、孝一は完全に気を許していた。
「そうだなぁー、親しい知り合いが不幸な事故に遭い、父親は仕事もあり対応できないので、母親と2人揃って奮闘している、とでもメールしとくよ。もし訊かれたら、そんな感じで・・・」
親しい知り合いとは契約企業であり、不幸な事故とはサイトがハッキングされたことである。奮闘する2人は自分と綾なのだが、自分と母親だろうと推測するよう誘導している。
このような言葉遊びに近い言い訳は、孝一の性格が歪んでいるとか、人の悪さによって編み出したもので・・・はない。
企業との付き合いと、父親のアドバイスにより身に付けたのだ。
それが、何時でも誰にでも通用するなんて、自分はそんなお気楽なこと考えていない。仕方なく、マジ仕方なく使っている・・・つもりだった。
綾の質問の奇妙な点に、ようやく孝一は気が付く。
「んん? なんで綾が訊かれんだ?」
「1月の20連休が拙かったんじゃない? 孝一が休むと、先生に訊かれるよ。サボりじゃないかって」
高校の先生には、通用しなくなってきたらしい。
「仕事だよ、仕事。サボってなんかない。大体の企業は土日休みなんだから、打ち合わせが平日になるのは仕方ないじゃん」
打ち合わせはネットワーク越しのみと、契約書にも明記している。相手と直接会わなくても、ビデオ通話で、まったく不自由はない。ネットから企業サイトのサイバーセキュリティ検査の請負なので実際に会う必要性を感じない。
「アルバイトは禁止でしょ」
「アルバイトじゃないしぃーーー」
綾がイラっとした表情をみせる。
仕事だから、自分は仕方ないと思うんだけど・・・。
「それじゃあーさぁーあっ、先生に言ってみる? 起業して社長やってますって」
厳しい口調で、可愛く凄まれた。
「すみませんでしたぁー。先生には宜しく言っておいてください」
「それとね。先生たちの間では、孝一のことを最初は、怠惰な天才って少し好意的に言ってたらしいんだけど。最近は天才がとれて、否定的な感じで怠惰って孝一のこと呼んでるらしいんだよね」
怠惰ねー。天才ねー。見えている面でしか、しかも学校の勉強でしか評価してないじゃん。
頭が良いといっても、まだまだ孝一は少年。貶されたり批判されたりすると、どうしても反発してしまう。それ故、学校は教育機関であり、生徒の学力をテストなどで評価する場であると理解しているのに、頭の中から抜け落ちていたのだった。
「それじゃあ、頑張ってねぇー」
翌日の12時半少し前に、自分のリクエスト通り、綾が温かい食事を持ってマンションにやってきた。
冷凍食品やレトルト食品も美味しくなっているが、料理人が調理した出来立ての食事には敵わない。綾の今日のチョイスは、中華料理店”一蘭”のランチと点心だった。
2人で昼食をとると、徹夜しても思うように成果が上がらず疲弊した精神と、栄養を求めていた脳が生き返る。だが心と体は、急速に休息を要求している。
綾に報告書の内容を説明し、契約企業の11社に提出するよう依頼した。そして孝一は、リビングルームのソファーベッドに倒れこみ、深い眠りへ一瞬で落ちる。
17時までの4時間半の睡眠で、ようやく孝一の心と体が復活し、気力が回復していた。浴室で湯船に浸かり、軽く頭と身体を洗ってから冷水シャワーを浴びた。リフレッシュした孝一は、上半身裸でリビングに戻ってきた。
「ねぇ、孝一。リバースエンジニアリングで中身を確認し、実行ファイルが入れ替えられていたことが判明、と報告書にあったけど・・・」
ソファーで報告書を熟読していた綾は、疑問点を口にした。
「実行ファイルを最適化して、空いた隙間に別の処理を入れたんだよ」
質問に答え、綾の淹れてくれたコーヒーに口をつける。
「実行ファイルはバイト単位まで一緒、作成日時、更新日時も一緒だよね。どうして?」
綾に接触する程近く、孝一はソファーに腰を下ろす。すると綾は、孝一に寄りかかるように体を寄せる。
いつもの光景なのだが、孝一の反応は鈍かった。
数か月間アルバイトしてもらっていて、言いたいことは大体推察できるようになっていた。しかしリフレッシュはしたが、脳が覚醒してなかったらしい。綾の言葉の意図を、自分は全く理解できてなかったのだ。
「何が?」
「どうして気がついたの? だって隙間に別の処理を入れて、コンパイルして作成した実行ファイルのバイト数まで同じなんて・・・」
「凄いスキルだよな。それとも、何年もかけて準備したのか・・・。報告書にも記載したけどさ。誰が、何のために、ハッキングしたのか推測つかない」
孝一の言葉に、綾は違和感で一杯になる。
「ふーん、推測つかないんだぁ? でも、良く気づけたよね」
綾は、とってつけたような台詞と半目で、半信半疑を表明した。
「昨日も言ったけど、動作が不可解だったんだよ」
綾の中で、半信半疑から疑惑に変わる。
「そうなんだぁ。そこは分かったんだぁあー」
「普段からスキルアップを怠らず、契約企業のサイトを、こまめにチェックしていたからこそじゃん」
綾の疑惑が確信に変わる。
「報告書で推測もつかない・・・ということは、その後に考えたんでしょ。それで?」
孝一が徹夜し、午前中一杯までかけたのは報告書作成の為でなく、自分の探求心を満たす為だった。そう、夏期講習をサボったのは仕事の所為ではなく、完全に興味本位からだった。それを綾は完璧に看破した。
優等生は優等生でも柔軟な思考の綾は、孝一が学生の本分を蔑ろにしていることを怒ったりしない。請け負った仕事の方が重要だと理解している。しかし、敢えて危険地帯へ踏み込むことは好しとしない。そして危険地帯の散策が孝一の趣味だと、綾は充分に知っている・・・というより知り尽くしている。
「憶測の域は出ないんだけど・・・AIが関係してんだろうなと考えてる。規模が巨大すぎるし、緻密で精確、技術者が何人集まっても最適化できるとは思えない。昨日のリストに載せた実行ファイルは、全て置き換えられてた。それらのファイルがスムーズに連携して、幾つかの機能を実現してる。しかもリストにある実行ファイルだけで、パケットを偽装して5万以上の外部アドレスと通信してるんだ。だけど、実行ファイルに少しずつのコードを埋め込むだけだと、通信はできても機能を実装できないじゃん。ウィルスの侵食は、サーバー全体に広がってんじゃないかなぁあ」
孝一は正直に答えた。一部分を・・・。
セキュリティサイトやハッキングサイトに書き込んで、技術情報を交換しようとしても、すぐに削除されてしまう。ネット上の人脈を駆使しようとしても、連絡が取れない状況になっていた。
軽い口調で、綾に続きを話す。
「思ったより重大なセキュリティインシデントで、いつ帰れるか目途が立たないんだよ。とても残念ながら、明日以降も夏期講習は休むしかない」
考えていた以上の大事なのかもしれない・・・。
国家レベルの組織でも関わっているのか?
だが、表がダメなら裏がある。
本当の意味で通信の秘密を護れるサイト、ダークウェブ。それと管理が行き届いてなく機械学習の内容が偏った闇落ちAI・・・通称”ダークAI”。
そこを利用して、今回のセキュリティインシデントを徹底的に暴いてやる。3頭脳のダークAIをすでに支配下に置いた。多少危険でもやってやる。
決意を新たにし、気合入れ直しているところで、綾の言葉が自分を日常に引き戻す。
「今日、やっぱり先生に訊かれたよ。怠惰はどうしたって?」
綾の口振りから、どうやら自分の狙い通り、重大は重大でも随分小さい規模だと勘違いしてくれたようだ。
「正義のハッカーをやってるでイイじゃん」
正義のため、ネットの平和のため、原因を究明する・・・のではない。隠し事を暴きたいというハッカーの本能と、ダークウェブ、ダークAIを攻撃して自分のスキルを遠慮なく試す。
「ウソだよね?」
「何言ってんだ、綾。大義名分は、とっても重要なんだよ」
大義名分があるから、闇サイトを存分にハッキングできる・・・はず。
どのサイバーセキュリティ企業よりも早く原因究明して、契約企業に再発防止策まで提供する。それが出来れば、技術力の誇示と、功名心を満足させられる。
これは、またとない機会だった。
それに何処よりも早く解決策を提供できれば、契約延長の際、値上げ交渉ができる。
逆に値下げ交渉をしてきたら、その企業との取引を即座にやめる。
実は契約企業を増やそうと思えば、いつでも幾らでも増やせるからだ。今も沢山のオファーがある。しかし17社で手一杯なので、他は断っているのが現状なのだ。
「それにさ、時間が自由に取れないから事業を拡大できないじゃん。ならば収益力を高めるべきなんだよ」
「学生だから、かなり自由な時間あるよね。それとね、学生の本分は勉強でしょ」
醒めた目つきに冷たい口調で、突かれたくないポイントを綾から攻められる。
「ウチは技術力で勝負しているんだ。値下げなんて一言でも口にしたら、絶対に契約延長しない。これは以前、執拗に値下げを要求してきた独立行政法人から得た教訓なんだよ」
「話がすり替わってるよね?」
「まあ、まず聞いてくれ。世の中には人の話を聞かず、自分の話だけを押し通そうとするヤツがいる。大人になっても、管理職になっても、なんだよ」
孝一は思い出したついでに、義務と責任を分かち合おう、というのではなく。当時の苦労を愚痴りたかっただけなのだ。
「聞かない選択肢は・・・ないのね」
綾の口調には諦観と共に優しさが混じっていた。
ただ、綾の優しさとは話の内容を理解するのではなく、相槌を打つだけの機械になるということだ。
そして孝一が話をしている間、2人揃ってソファーで密着して、ゆっくりできる。それが綾にとっての幸せな時間なのだ。
単に、2人の利害の一致しているだけの時間だともいえる・・・。
独立行政法人の窓口の担当者と6度に及ぶ契約交渉をしたが、すべて不調に終わっていた。7度目の契約交渉で、ついに元凶である新任の課長が登場してきた。
その時、打ち合わせにオフィスまで来いと言われた。
金を払う側が偉いと思っているような、あからさまにダメな大人だった。
もちろん突っ撥ねた。
8度目は、契約終了日の午後17時だった。
当然、相手のオフィスには出向かず、ビデオ通話にした。
「ざけんな。会社と会社の対等な取引をしてんだ。なんで、そんなに偉そうで、上から指示を出す」
『いいからっ! 早く見積もりを提供するんだ。このままでは話にならない」
話にならないのは、自己中心的な考え方のアンタだよ。
アホかという言葉を心の中で呟いてから、言い放ってやった。
「契約内容によって、全く金額が異なるに決まってんじゃん。だから契約書に金額も明記して、これでいいのかどうかを確認してんだよ」
『キミみたいな若造には分からないかもしれないが、法人には契約する際に、守るべき規則と手続きがある。まともな法人なら、そういう内部統制に則る必要があり、内部監査・外部監査が実施される。うちのようにまともな法人は、予算を計上し、見積もりを取得、その見積もりと共に稟議書で申請、承認を得てから、契約を締結する』
法人自体がまともだとしても、アンタはまともじゃない。
とてもじゃないが付き合い切れない。
「・・・分かりました。まともな対応をさせて頂きます。お見積書をすぐに提出します。先に提出した契約書は無効となります。いいでしょうか?」
『今日が契約終了日だ。早く!』
あばた面に渋い表情の所為で、醜悪な顔つきになっている。それでなくても、元々がブサイクな面構えだ。
孝一の感想は、的を射ていた。
彼の性根は歪みまくり、姑息な性格で、ズル賢く人生歩んできたのが、顔に刻まれているのだ。
「証跡を残したいんで、宣言してください」
『必要ない』
「まともな法人なら、打ち合わせを記録して、齟齬がないようにしますよね?」
揚げ足を取られたとでも考えているようで、新任課長は不機嫌そうな表情で黙る。
「見積もりの提出により、先に提出していた契約書は無効になります。その内容で良ければ、ハッキリと宣言してください」
丁寧な口調で、自分では好青年に見えると思い込んでる笑顔で追い込む。
ただ、孝一の笑顔の端々から、邪悪な雰囲気が漂っているのだが・・・。
『・・・・・・見積書が正式。・・・契約書は無効』
こんだけ揉めたのに、アンタと2回ディスプレイ越しで議論しただけ。それで、こっちが折れたと思えんのか?
真正のアホじゃん。
まともな交渉できんのか?
「それでは契約センターに御見積書を送ります」
契約センターは、登記所と公証人役場の役割を引き継ぎ、電子定款認証に対応する指定公証人が配置されている。紙から電子文書へとの変革の波が、独立採算制である公証人を動かし、法務省に働きかけた。電磁的記録に関する公証事務への取り組みと合わせて、法務省は契約センターを設立したのだ。
公正証書と私署証書、各種登記簿の管理から始まり、ネットワーク上でもサービスを開始した。
法律で契約センターへの攻撃は、成人していれば最低でも懲役、成人未満でも少年院行きになる。それだけなく強固なセキュリティも実現していた。
第一次サイバー世界大戦でのサイバーアタックを完璧に防御し、データの流出や改竄がなかったのだ。その為、契約センターは確固たる地位を築きあげ、見積書や契約書の管理までするよう業態を変化させていった。
契約センターで管理されている文書は、裁判での証拠になる。逆に契約センターを介さないで契約を締結する会社は、信用されなくなった。
そして会社が利用する理由は、何より安価で済むからだった。
会社で紙の文書を管理する必要がなくなるため業務量を軽減でき、保管場所も必要なくなる。それだけでも経費をかなり軽減できる。何より印紙税納付の代行サービスまでして、契約センターからの請求金額は、見積金額や契約金額の100万分の1である。それを法人もしくは個人が年間の合計金額を支払う。
『何だ?』
ペーパーディスプレイを凝視しながら、険悪な口調で呟いた。
「ちょーっと、何が言いたいのか分からない。コミュニケーション能力がなさすぎだよ。マジ課長なのか? いや社会人か?」
社会人なら、後々問題にさせれないよう《ご検討をよろしくお願いいたします》とでも告げて、通信を切るのだろう。しかし、スキルが高くても高校生になったばかりの孝一は、少年らしい反抗心が強く自制心は程々しかない。ビジネス面は父親の助言を受けてるが、打ち合わせに同席することはない。
『何なんだ、これは?』
新任課長は、顔も上げずに吐き捨てた。
さあ、反撃だ。
仕掛けた罠に嵌り込み、退路がなくなった品性下劣な人間の屑に、遠慮する気はない。
「ぜーんぜん。まーったく。何を言いたいのか分からなーい」
『これは何だ?』
ようやく顔を上げ、ペーパーディスプレイに映した見積書をこちらに向けてくる。普通だったら、何を意図しているのか理解できないだろう。
しかし、孝一は理解していた。
自分で仕掛けた罠の位置を忘れるほど、愚かではない。だから、何を問題にしているのか充分に理解している。
「あれ、これ、それ、そんなんで相手に言いたいことが、考えてることが伝わると思ってんのか? それは契約センターを通して送った正式な見積もりだよね。見て分かんないのか? それとも、ボケてんのか?」
嬲るような口調で、孝一は惚けた返答をした。
『サービス内容が同じなら、毎年金額を下げるのが当然だ。なんで桁が上がっている』
「サイバーセキュリティは、年々検査内容が更新されていくんだって、何回も何回も何っ回も話したじゃんかよ。サービス内容と金額は、他社と比較してくんない? 自分とこ、常にサイバーセキュリティの最先端にいんだけど。それと今日で契約が終了するから、無料で検査しといてあげたよ。報告書送っておいたから」
契約終了の2週間前までに検査結果を送り、問題があればセキュリティ対策のコンサルティングをする。契約に、そう盛り込んであり、既に実施済みだった。
それにも関わらず、わざわざセキュリティ検査を実施し、報告書にして送った。
もちろん理由がある。
「アンタが言ったように見積書は出したんだ。文句ないだろ? 因みに見積書の要点だけ話してやんよ。いいか、見積もりの期限は今日まで。金額が3桁上がっているのは間違いじゃない。ウチはDDoSアタックのシミュレートが可能だから、サーバーに負荷はかけない。つまり、わざわざ別の環境を用意しなくても、本番環境でセキュリティ検査が可能なんだ。だけどさ、それって調整が面倒じゃん。だから、シミュレートはしない。現在の契約項目から外すと、見積書に明記してあるよ」
自分のラボ最大のセールスポイントであり、技術力の高さを活かした検査を外してやったのだ。
しかも赤の太字で、目立つようにしておいてやった。
『もういい』
大人げなく言い捨て、通信を切りやがった。
社会人として失格なだけでなく、人としても失格じゃん。
孝一は、己自身の態度を棚にあげていた。
翌日、担当者から謝罪と、先の契約書での再契約を打診されたが、孝一は一蹴する。
「徹夜明けで辛いから、結論だけ・・・マジ、断る。以上」
契約終了の3日前。新しいハッキング方法がネット上で盛り上がっていた。
ここ4日の間、孝一はラボに泊まり込み、ネットで情報交換しながらセキュリティ対策の検討と検証をしていた。その成果が、ようやく形になり始めていた。
昨日までに間に合っていたら、担当者に対策案を示し、コンサルティングする予定でいた。幸か不幸か間に合わなかったので、サイトの検査結果と危険性を報告書として送っておいたのだ。
その報告書の内容を確認して担当者が慌てて連絡してきた訳だが、独立行政法人を助ける義務も義理もない。担当者からの連絡で、最後に一泡吹かせられたのを確認でき、溜飲が下がったので報告書を送った甲斐があった。
サイトの検査結果以外は、他の契約企業と同じ内容である。つまり手間暇は、ほぼ掛かってなかったのだ。
どうでも良いという口調で綾は生返事をする。
「ふーん。それで?」
「会社の運営には、義務と責任が発生すんだよ」
契約には義務が、仕事には責任が伴うのは分かるけど・・・。
学校を休まず通えるぐらいの仕事量にできないのかなぁ。絶対に契約を言い訳にして、趣味を優先してるんだよねぇ。
「それと、この会社の運営には、技術力がとても大切なんだよ。学校の夏期講習は、マジ残念だけど行けない」
やっぱりそうなるんだぁ・・・。夏期講習サボるんだぁ・・・。
「私は先生に何て言えばいい?」
「元気だった親しい知り合いが病に侵され、凄く気落ちした。この機会に人生とは、自分はどう生きるべきか、将来についてゆっくりと考える為に、1人旅にでたと・・・」
良くもまぁ。あんな現実に似せた、都合の良いストーリーが思いつくよねぇ。頭の回転の速さに感心すれば良いのか? それとも悪知恵に長けているとを呆れれば良いのか?
「そんなに可愛げがあって殊勝な心がけの生徒だとは、まっっったく思われてないって、知ってるの?」
「・・・綾、悲しい現実を教えてくれてありがとう・・・。それにしても先生は、もっと生徒の内面を慮るべきだ。生徒の自主性とヤル気を信じようとは思わないのかな。それよりさぁー、綾は彼女なんだから、もう少し優しく教えてくれてもイイじゃん」
「孝一流に言えば、優しく教えても現実は変わらないしぃーーー、でしょ。それに、生徒の内面を慮るのは賛成だけど、孝一の内面を慮る必要はないと私は思うんだよね」
心底理解できないと、孝一は顔つきで表明していた。
仕方なく綾は説明する。
「孝一の内面ということは、趣味と実益を兼ねたICT関連の事ばかり考えていて、学業は最後の最後。そんな事、先生に知られない方が良いよね。ただでさえ、怠惰な天才から怠惰に格下げされてるでしょ」
孝一はICT”インフォメーション アンド コミュニケーション テクノロジー”関連に、時間とお金を多く消費している。会社を設立する前は、消費というより浪費というに相応しい程だった。
「ICTは趣味でもあるけど、仕事じゃん。それよりさ。学業の優先度は低いけど、綾を最優先に考えてるよ」
綾の頬が、ほんのりと朱に染まる。
うぅ~・・・反則だよぉ。真顔で、私を最優先にしてるなんて台詞・・・。
「・・・綾?」
「仕方ないから、先生にはそう言っておくね。今日の夕飯は外食でしょ。その前に指輪買って貰うからね。早く準備して出かけよう。ねっ」
綾は照れ隠しから口早に言い、孝一を急き立てるように外出の準備を促したのだった。
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