エロ本おじさん
疲れた。
まだ太陽すら出てこない早朝である。ようやく白み始めた東の空が目に痛いほどにまぶしい。先ほどまで、点々と続く薄暗い照明に照らされた4号線をひたすらに北上していたからだ。
ハイビームにしても見えない前方車、対向車線に時折現れる大型トラック。
いつもの風景である。
積み荷を小売店に卸して、近くのコンビニでいつも通り缶コーヒーを買おう。缶コーヒーでさえも、時給を考えると高すぎるくらいだ。助手席にぞんざいに投げられたおにぎりは、一合をまるまるラップにくるんだ質素なもので、混ぜご飯用のふりかけをまぶしたものには海苔も貼っていない。
単純に、貧乏だった。
朝夕の二度の配送を受け持って、ようやく人としての生活がギリギリ送れる。それでも家に帰ることなどほとんどできず、配送車の中に住んでいるようなものだった。朝と夕の間が自由時間になっているとはいえ、それは要するに給料が出ない時間だということだ。夕方の配送が一七時に終わって、それから家に帰ったとして、午前一時には再び仕事に向かわなければならない。配送場所が市場から遠くなればなるほど、通勤時間が増えていく。通勤時間が給料になる会社などない。
俺は疲れていた。
ハンドルを握る俺の手は、もはや恋人と手をつなぐことさえ望むべくもない。
車の運転ですっかり鈍った下腹はぽっこりと膨れ、髭は生え散らかし、髪はボサボサ、今日もコンビニのアルバイトと顔を合わせてしかめ面をされる始末。
そりゃあ、コンビニのアルバイトだって辛いだろう。俺のような臭い奴を相手にすることもあれば、イキったヤンキーを相手にしたり、文句だけが達者な足腰の弱った老人を相手にすることもある。酔っ払いがその場でゲロをしても文句ひとつ言わずに対処しなければならないし、深夜の品出しの途中で暴走族が一斉にやって来たら、罵詈雑言の嵐に見舞われる。
なんでこの国はこんなに生きづらくなったんだろうか。
誰かの苦労を思う気持ちを失ってしまったのは、その国が貧乏だからだろうか。人々に余裕がないからだろうか。ハンドルを握るその手を大きく左右に振って、死んでしまった方がいくらか楽なのではないだろうか。
何度思ったことだろう。
助手席のシートの下には、栄養ドリンクや缶コーヒーの空ボトルがごろごろ転がっている。これらの商品も、俺みたいな恋人を望むべくもない人種によって運ばれたものなのだろうか。
コンビニの駐車場に掲げられた看板が「駐車中はエンジンをお切りください」と赤字でアピールしてくる。最近はそうでもないが、冬場など、何度その看板をチェーンソーでズタズタにしてやりたかったか分からない。
金を寄越せ。時間を寄越せ。
俺は現代の奴隷だ。
しかし奴隷の仕事は目につかない。丑三つ時、誰そ彼時に商品を運搬しては、その瞬間を生きる程度の金を貰うだけだ。
今日は、コンビニの店員がいつもの奴ではなかった。
いつもの奴は、常に生気を失ったゾンビのような男で、店に客が現れてもろくに挨拶もせず、ルーチンワークのように品出しをするような奴だった。俺がこのコンビニを使い始めた頃には既にベテランの雰囲気を醸していたので、ずっとそこで働いているフリーターなのだろう。あるいは、フランチャイズオーナーの親族なのかもしれない。
しかし今日はそのゾンビではなく、小太りのピエロのような男が店員をしていた。初めて見る奴で、丁寧に仕事をこなしている様子は新人なのだろうことがうかがえた。若くはないが老人でもなく、ただ異様に頭髪が薄く、首の辺りに酷い掻き傷を拵えていた。
もしかしたら、別の仕事で精神を病んだのかも知れない。
しかしそんなことを考えていても仕方ない。これからずっとこのコンビニで働くのか、それともすぐに辞めてしまうのかは分からないが、あのゾンビでないことは重要なことだ。
しかめ面をされるのはゾンビでもピエロでも変わらなかったが、俺はそっとトイレ近くの雑誌コーナーに足を運ぶ。
成人誌コーナー。
恋人を望むべくもない俺の、唯一の女体との接点だ。
いや、女体との接点を求めるのなら風俗でもなんでもあるのかも知れない。男以上に仕事にあぶれた女は多いとは聞く。夜の仕事も最近では供給過多で稼げないらしい。夜の街に行けば供給過多な女が二束三文で相手をしてくれる場合もあるだろうが、大抵の場合は俺の給料ではとても足りないし、足りたとしても性病にかかって通院すれば足りない給料以上の足が出る。
それに、女は怖い。
大学生時代にこっぴどく女に降られた俺は、それ以降生身の女に対面して性的興奮を得ることができなくなった。同時に就活を失敗し、こうして奴隷の生活に転落している。月三万円の奨学金返済は完全に借金返済と同義だ。
スマホから見るアダルト動画は、画面があまりに小さい。人形劇である。
だから、たまにどうしようもなく辛い時には、ささやかな楽しみとしてコンビニで成人誌を買って用を済ませることがあった。本当に、一般人から見たら泣けるくらいにささやかな楽しみだろう。しかし奴隷の俺にはそれ以上のことは望むべくもないのだ。
成人誌コーナーを見ると、そのコンビニを利用する大人の性的嗜好が見てとれる。この場所はどうやら未亡人が人気らしい。俺の嗜好ではない。ガサゴソとあれでもないこれでもないしていると、一冊だけ、大学生くらいの女が表紙の成人誌が見つかった。
俺はそれと、レジ近くのホットコーヒーを持ってレジへと並ぶ。ピエロは小走りでレジに入る。
「お会計、九四八円になります」
俺は、ズボンのポケットから小銭をじゃらじゃらとつかみ取り、レジに並べた。
「九五八円のお預かりです」
「あ、四〇円あった」
「あっ、えっ……はい。あー、その、九四八円お預かりします」
ピエロはドギマギしながらレジを打つ。やめてくれ、悲しくなるからやめてくれ、確かに後出しした俺が悪かった、お前のような奴隷をドギマギさせるためじゃないんだ。
ただポケットを軽くしたいがためだけに、俺は気分を悪くさせる。いや、全ては未熟なピエロが悪い。こいつさえ支払いに達者であれば何も問題はなかったんだ。そう思うと、妙な怒りが湧いてくる。同時に腹の底から悲しみも湧いてくる。
「レシートの表示が違うのですが、九四八円ちょうどのお預かりです、レシートお返しします」
俺はレシートと共に商品もふんだくるように受け取った。
「ありがとうございました」
消え入るようなピエロの声を背にすぐさまコンビニを去ると、俺は自宅のような配送者へ戻った。
そのまま配送車を闇雲に走らせる。白み始めた空は、もうすぐ老人たちを起こすだろう。そうすれば何をするでもない、朝の空気を吸うためだけに老人たちが外に出てきてしまう。
俺は逃げるように人気のない幹線道路の脇の脇、路面のアスファルトが度重なる補修によってボコボコになってなおも放置されているような道へと迷い込む。
フェンスは壊れ、新幹線の高架は老朽化のためか、接着部分にわずかに出来た亀裂から雨水が漏れてカビが苔のように生えている。かつて文明の最先端を走っていた新幹線でさえ、今ではまともな補修さえもままならない高架の上を走っている。緩くなった足場で何とか保たれた社会というのは、あまりにも皮肉が効きすぎている。
明日、関東平野に隕石が落ちてこないとも限らない。
しかしそんなことは誰も考えない。確率論で言えば、次の二〇年以内に関東に大地震が起こる確率は九割近くあるという話をどこかで聞いた。しかし俺たちはそんなことに震えて生きてはいない。常に明日も同じ生活があると、無意識下で信じて生活している。
俺たちは常に明日を信じる共同幻想の上に生活している。無謬に支えられて生きていると信じているから、高架が新幹線の起こす震動で崩れることを想定しないし、トンネルが崩落することを予期しないし、東京駅の自販機は常に飲料が売られていると信じているし、奴隷のように働く人間はいないと確信している。
違う。
高架は刻一刻と老朽し、トンネルは崩落の危険性を孕み、残業を拒否すれば東京駅の自販機は売切だらけで、奴隷は人の見えないところで死ぬ。手慰みのパチンコで耳を傷め、ワンカップと競馬新聞を片手に馬に檄を飛ばし、匿名掲示板は呪いの言葉で溢れ、エロ本は用済みになったら高架下に捨てられる。
ああ、俺は悲しいエロ本おじさんになったものだ。
遠くから鶏の鳴き声が聞こえる。電車が遠くを走っていく。遠くの市道に一台、また一台と自動車が走り始める。風が強く吹いて、林の木々を軋ませる。
雑多なダッシュボードからティッシュの箱を取って綺麗にすると、コンビニのビニール袋にティッシュを入れた。別の日にコンビニに寄ったついでにでも捨てなければ、と思いつつ、用済みになったエロ本をどうするか頭を巡らせる。
ふと、子どもの頃を思い出した。
高架下や、砂利道に隣接した林には、必ずエロ本が落ちていた。あの時は、ただ落ちていたエロ本を隠し持ち帰っては、女体の神秘と、それをひた隠しするモザイクとの格闘とでいっぱいだった。
「あー……、エロ本おじさんは悲しいなぁ……」
そのエロ本が誰かの捨てたものであったとして、子どもの俺らはそれを無邪気に拾って宝物のように後生大事にしていた。
「きっと、今時のガキはわざわざエロ本を拾うようなこともしねぇんだろうな」
ワンタップ圏内にアダルトな動画があるのならば、わざわざエロ本を探す必要もない。今の子どもは恵まれている。
とも言い切れないか。昔はテレビ番組にもいかがわしい内容のものはあったし、大体日付が変わってからの番組なんかはおっぱいが普通に映っている番組もあった。バカ殿やドラマの一部にもそういうお色気シーンはあったが、今は委縮と規制にかまびすしい。
「まあ、そんなことを考えていても、捨てるもんは捨てるんだ」
換気ついでに窓を開ける。夜明け時の凛とした空気が俺の首筋を撫でていく。さあ、帰る時間だ。夕方の配送のためにもう一度市場に戻らなければならない。四号線が込み始める前に動き出さなければ。
俺は極めてぞんざいにエロ本を高架下に投げ捨てた。
手のひらを服にこすりつけ、キーを回し、ギアを入れて車を走らせる。
バックミラーにわずかに映るエロ本は、誰か子どもに拾われるのだろうか。拾った子どもにとって、後ろ暗い宝物になるだろうか。
いや、そんなことはどうでもいい。期待するだけ無駄というものだ。俺がやった行為は単なる己のエゴに過ぎない。普通にゴミとして捨てるのが恥ずかしいから、遠い昔の思い出にかこつけて正当化させているだけだ。
定年退職して雀の涙ほどの年金に生活が立ち行かない老人の、わずかな飯の種としてのゴミ拾いの最中に拾われて、燃えるゴミに出されるだけのことだ。
「迷惑な大人そのものじゃないか」
わざと声に出して、それから俺は目を瞠る。
市道に出ると往来は既にそれなりの車通りがあった。自分が迷惑な大人になっているという自覚が、俺にその道路への一歩を踏み出せずにいさせる。
「アッハハハハ!」
見計らってアクセルを踏み、車体を道路へと滑り込ませた。俺はずっと笑っていた。贅肉がブルブル震えるほどに笑っていた。
「エロ本おじさんは悲しいなァ!」
久々にラジオでも聞きながら四号線を上っていこう。
天気予報によると、今夜は雨が降るらしい。
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