龍王奇譚 第一章 龍王覚醒
10月猫っこ
序
それは、空恐ろしいほどに深く虚ろな闇に覆われた穴。
壁を穿つようにして出来上がった巨大な『穴』は、全ての音も光も飲み込んでしまうという言葉がぴたりと当てはまるように、何もかもを消し去ってしまうかの如き闇が広がっている。
そのためだろうか。
そこあるのは『絶望』。
そんな思いを視る者全てに、この『穴』は植え付けるだけではなく呼び起こさせた。
だが、この場所にいる男にとっては、この漆黒の『穴』こそが、全ての者達唯一の『希望』を産み出しているような思い起こさせて仕方が無かった。
それを見つめながら、ふと心に浮かんだ考えに失笑しそうになる。
おかしなものだと、我ながら思ってしまう。
自分の生命は、紛れもなく尽きようとしているというのに、その恐怖心すらもが意識の端に留まることは欠片どころか、全くないに等しいのだから。
それどころか、どこか安堵感と安心感、そして何よりも強い『達成感』が男の中で生まれ、それが全身をゆっくりと支配してい始めている。
当然と言えば、当然のことなのだろう。
自分は全てを彼らに託し、その生命を全う出来るのだから。
そんな感慨にふける男であったが、不意に全身の力が抜けたかと思うや、胸に灼熱の固まりが生じた。
くぐもった咳き込む音と共に、紅い、深紅の華が宙を舞う。
「王!」
男と同様に『穴』を見つめていた青年が、息をのんで男に駆け寄ろうとした。
白金色の髪と黄金の瞳を持つ青年に、男は近づくなと言うように片手をあげて見せた。
だがその間も激しく咳き込む男の唇からは、新たな鮮血が覆った掌から滴り落ち、床や身に纏う甲冑を朱に染め上げていく。
「すまんな……刻が残されておらぬようだ」
口調の中に、僅かな苦笑がこもる。
思っていた以上に、自分の力はこの場に作り上げた『穴』に引きずり出されてしまったらしい。
これ以上、無為な時間を過ごすわけにはいかないと悟り、男は青年へとしっかりとした口調で話しかけた。
「早くここから去るがよい。
今ならば、彼奴等とてお主の気を追うことはかなわぬ」
「ですが!」
躊躇いと無念の色とが、青年の瞳の中で揺らぐ。
その感情は、男にも痛いほどに理解できた。
たとえ自分が下した命令とはいえ、青年は己の一族と故郷たるこの『世界』を全てを捨て去る事になるのだ。
誰であろうとも、それを受け入れることなど簡単に出来る事柄ではない。だがたとえそうであったとしても、今この場で強制的な言葉と力を持って、男は青年にそれを行わせようとしている。
こんな場合だからこそ、青年の迷いを無理矢理に断ち切らせ、何もかもを考える事を良しとしないのは、青年にとって十分すぎるほどに苦痛を伴う事でしかないだろう。それ位の事は、男とて十分に承知してはいる。
けれど、だからこそ、男はこの場にはそぐわしくない優しい笑みを浮かべてみせた。
何としても、自分の最後に命じた行動を取らせるために。
たったそれだけのことだというのに、目の前の青年は何も言うべき言葉が見いだせ無くなってしまう。ただただそこに立ち尽くし、青年は己の唇を強く噛みしめながら、きつく拳を握りしめた。
その場に立ち尽くす以外の術が見いだせず、青年は自身の中の感情を何とか押し殺して男を見つめる。
そんな青年をまっすぐに捉えながら、男は青年に対して心の中で謝罪していた。
自分が今から口にする言葉は、これから先青年にとっては疵痕にしかならないと知っている。だが、それでも忘れては欲しくないのだ。ここで散っていった者達のためにも。
数秒ほど緊迫した沈黙が降りた後、男は幾分か穏やかな口調で青年に語りかけた。
「あの者達は『道』を通り、無事にかの界へと転生する。
刻来るまでは、あの世界の者と変わらぬ成長をしよう。だが……器である肉体から『神力』が溢れ出れば、彼奴等とて容易に察知し殺しに来るは必定。
それをさせぬ為にも、お主には行ってもらわねばならぬのだ」
表情を綺麗に消し去った青年は、男の言葉をただ沈黙を持って聞き入っていた。
青年の行動に、男は微かな笑みを浮かべる。
自分が最後にかける言葉は、青年にとっては苦痛以外の何物でもないだろう。
自分を侮蔑、憎悪してもかまわない。だが、それでも、これから先の、未来で起きる事柄は目の前の青年にしか出来ないことなのだ。
だからこそ、青年には強く理解して欲しいと思う。
もはや、時間はないのだから……。
この世界は、死滅する以外の道は残されてはいない。
『彼奴等』は情け容赦なく、女、子供、老人、それこそ戦う術を知らぬ者達すらもためらいなく殺してきた。今この城外で戦っている者達も、圧倒的な兵力差の前では時間を稼ぐ以外の意味しか残ってはいないといえる。
その状況を甘んじて兵士達が受け入れたのは、ひとえに希望を託すためだけと言っても良いだろう。
そう考えながら男はゆっくりと立ち上がり、覚束ない足取りながらも玉座へと近づいていくと、身体を投げ出すようにしてそこに腰を下ろした。
黒鉄色の鎧に包まれた見事な体躯と、紅色をした瞳には今は穏やかな色合いが漂っている。
だが、それとは正反対に、少しずつ白さを増す顔色と、額の中央に位置する第三の眼が緩やかに濁り始めており、すでに死期は間近に迫っていることを知らしめていた。
ゆっくりと、男は言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「私の命数は、すでに尽きた」
「王」
「かの界に通ずる道も、この命果てると同時に閉ざされる。その前に」
「王!」
青年の叫びが、男の声を遮断した。
それ以上の言葉は、何も聞きたくはないのだと言うように、青年の顔は悲痛なほどに歪められている。
唇を開きかけた青年を押さえ込むよう、男はヒタリと視線を青年に据えると幾分か強い口調で語りかけた。
「お主には、辛い役目を背負わせることとなったな、すまぬ。
そして……あれにも、父親としての責は果たせぬままだった」
「……そのようなことは、あ奴も私も思ってはおりませぬ」
「だとよいのだがな」
どこか苦笑を秘めた声に、青年は辛そうに眼を細める。
それを視界に納め、男はゆっくりと唇を開いた。
「守ってくれ。
あの者達を」
願いは、それだけ。
祈りにもにたそれは、ここに生きてきた者達全ての『意志』が込められた、重すぎるたった一つの『希望』なのだ。
一瞬だけ顔を歪めた青年ではあったが、すぐにそれを消し去ると、しっかりと男の瞳を見つめて唇を開く。
「御意。
必ずや、我らはその意をはたしてみせましょう」
膝を折り曲げ、これが最後となる男の姿をその瞳に焼き付ける青年に、男はゆっくりと頷いてみせた。
彼らが、再びここに戻れるかどうかも分からない。そして、この世界に戻った所で、彼らを出迎える者達は誰もいない。
その事実が、彼らを絶望の淵に立たせるだろう。
彼らが残酷な現実にさらされるであろう事は、容易く想像できる事柄と言える。けれども、この世界に生きる者達全てが彼らに託したのだ。
それは、彼らにとって、大きな負担になるであろう。
この世界にいる誰もが、彼らに預けた『希望』と言う未来は。
だから……。
「行くがよい」
それに押されるようにして青年は素早く立ち上がり、最後の礼のために頭を下げると踵を返してその場から走り出した。
遠くなる背中を見つめながら、男は全てを吐き出すように深々と息を吐き出す。
「……生き延びてくれ」
呟きを口にした途端、男の身体が苦痛に負けたかのように折り曲がり、再び大量の血が床へと広がった。
むせかえるような己の血の匂いが強く鼻をつき、ふと近づきつつある剣戟の音に男は耳を澄ませた。
時間を稼ぐためとはいえ、皆よく戦ってくれている。
城内に彼等の進入を許した以上は、この玉座の間に入り込み自分の喉元に剣を突きつけるのも時間の問題だ。
けれど、彼等は自分の生きた姿を見ることは出来ない。
もはや自分にはそれだけの時間は、残されていないのだから。
「……宿命ならば、この世界が滅ぶのも仕方があるまい」
それは、この戦いが始まってから決められたこと。
否、己の意思を決めた時から、それは定められた道だったのだ。
「だが、分かっているのか。
これしきの事で、真の意味での『歪み』は消えはせぬという事を」
虚空を見つめ、かつては友であった者に対して男はそう語りかける。
もしも彼の意を是として受け入れていれば、この世界は今の現状に陥ることはなかっただろう。
けれど、自らの心と誇りを偽り続け、安穏とした安住の地を手に入れることを、この世界に生きる者達は諾として受け取ることは出来なかった。
友のいる世界に住む者達よりも、生に対して貪欲であり、そして他者を排してでも己の誇りと強さに執着を抱く者の数が圧倒的に多い世界だ。
弱者はこの世界で生き抜いて行くには余りにもきつく、自然と強くなっていくことが当たり前として捉えられている世界。
戦うことの意義をよく知る者達で成り立つ世界には、平穏などという言葉は余りにも似つかわしくない言葉といえよう。
ふと、自らの考えを口にした時、まるで当然のようにこの世界に残る兵士達から返された言葉が思い出される。
『我らは王の意志に従います。我ら一人一人の考えも、全て王の意と同じこと。
故に、我らは我らの意思で王の元につくのです。たとえこの命を失おうとも、我らの中には後悔など生まれはしません』
それは、この世界全ての部族の総意であり、誓いでもあるのだと、はっきり断言された瞬間の事。
この世界の頂点に立ち、そして世界を滅びの道へと向かう苦渋の決断を下した男が、その意思を言葉にした時、それを耳にした兵士達は誰一人非難の言葉などあげずに、ただ力強い微笑みを浮かべ、自分を支えるのだと頷きあってくれた。
それどころか、自分の勝手な判断だというのに、最後まで自分を慕い続け、そして散る事を覚悟している者達は、渋る彼らを『希望』なのだと言って最後まで説得し続けてくれたのだ。
振り返れば、自分の歩んできた道は幸福と言えよう。
滅びへの道を選んだ男を、誰も責める事など無く、己が意志で付き従ってくれたのだから。
後悔は、無い。
ただ、心残りな事は一つだけある。
『希望』として送り出したが、彼らがそれを受け入れることが出来ずに、進むべき道を迷ってしまわないだろうかと、それだけが男の心配だ。
「己が眼で確かめ、そして、信じた道を進んでくれ……」
男の唇が僅かに動き、掠れた呟きが室内にこぼれていく。
それが最後の力であったかのよう、まるで眠るように男の瞼がゆっくりと閉ざされ、力なく玉座から腕が落ちる。
生命の欠片の無くなったそこは、少しばかりの間静謐感の漂う空気が流れる。
だが、剣戟の音が重厚な扉のすぐ側から聞こえたかと思うや、がん、と乱暴な音と共に扉が砕け散った。
むせ返るような血と炎を含んだ風が、男の眠りについていた空間を支配する。
そんな中を、悠然とした歩調で室内に入り込んだのは、漆黒の髪と瞳にそれと同色の鎧を纏ったまだ年若い男だ。
青年と言って過言ではない容姿だが、纏う空気は一つの大隊の将としての雰囲気を作り上げ、その動きには全くの無駄など無いだけではなく、動作一つ一つに力強さを感じさせている。だが、その表情は勝ち戦を率いているはずだというのに、ひどく苛立たしさと何かに急き立てられているかのような顔をしていた。
室内に全く生命の気配がないことに眼を細めつつも、その歩みは迷うことなく中央を進んでいる。
かつん、と、硬質な音とともに足を止めると、青年は壇上に据えられている玉座に視線を移した。
すでに男の命がこの世にない事を認め、唇から小さく息を吐き出すと、青年は幾分か複雑な色をその瞳に宿す。
「亡くなられていたか」
呟くと同時に、青年は軽く男に対して頭を下げて敬意を示した。
世界が違うとはいえ、この男もまた一つの世界の王だ。男の生命がある内に、もう一度言葉を交わし、その真意を問いたいと思ってはいた。
だが、この世界を滅ぼした自分がかけるべき言葉とはいったい何であったのかと、つい苦々しい思いが心の内で生まれる。
それを振り払うよう軽く目を閉じた青年が、近づいてくる配下の将に冷静な口調で命を下した。
「首級を取り次第、帰還する。
他の者にもそう伝達せよ」
「御意」
息を切らせつつ青年の後から部屋へと飛び込んだ将達が、慌てて片膝をついてその言葉を聞きとどけると、その命を果たすべく素早い動きでその場から走り出した。
それを視界の端に入れた後、青年は再び男へと視線を転じた。
勝利したというのに、それに対する喜びは一つも生じない。
勝ちどきの声を上げる配下の声を聞きながら、青年の唇は固く結ばれるだけだ。
自分達は、本当の意味での勝利を手にしたわけではない。
この世界が実質的な滅びを向かえたことを意味する時は、男の意を受けた者達との『戦い』を終えた後なのだと青年は理解しているために。
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