森の中へ

千田右永

第1話 森の中へ

「オレの、アイジンに、なーれよっ」

いつものふざけた減らずグチを、いつもの突っかかるノリで地団太踏みながら、グートはまた言ってのけた。足踏みが運転席の背もたれにバンバン響いた。こんなふうに飽きもせず、イチコに会うたび迫るのがグートという子の習慣だった。


 数えてそれが十七回目の『アイジンになれよっ』だった。イチコの耳は聞いたが、意識はろくすっぽ触れもせずにスルーした。なにしろ手いっぱいだったのだ。イチコが運転するパトロール用小型EVは黄砂の嵐を避けるべく、視界がほとんどゼロメートルの公道を右往左往していたのだ。


 サッポロシティ市民生活保全課に所属するパトロールEVは、もちろん自動運転機能をフルに発揮した。赤外線センサーを駆使して、安全走行を確保しようと努めた。走行距離二十万キロ超の老体ではあったが、パトEVはそのまま支障なくシティへ帰りつけるはずだった。グートがあんなことさえしなければ。


                ※  


 二〇四〇年五月六日。

R国領ホッカイドー州サッポロシティの上空は晴れ渡り、澄みきった五月の風が吹きぬけた。ただしそれは、上空二千メートル以上の高所に限ってのことだった。


 二千メートルより下るにつれ、風は大陸の砂漠地帯から砂を巻き上げて、たちまち煙った。とりわけ地表付近では、砂漠の黄砂と都市部の乾いた汚染土や排ガスが混じり合い、PM2.5をたっぷり含んだ赤錆色の砂の微粒子が、風に乗って縦横無尽に舞い踊った。


 踊る砂の微粒子は幾重にも渦巻き、人々の暮らしを包み込んだ。どこへも逃れようがなく、どうにも避けようがない砂嵐の襲来だった。ただひたすら、耐えてやり過ごすしかなかった。


 十八才になったイチコ・フォレスト・ウェットフィールドは、シティ庁舎内の市民生活保全課のオフィスから、窓外の渦巻く砂嵐の模様を眺めていた。あと五分、いや三分待てばこの砂嵐が立ち去り、明るい日差しと青空を拝めるのではないかと期待して。


 しかし、そうはいかなかった。今日の風はしつこく吹き荒れて、治まる気配を見せない。そのうえ天気図によれば、砂嵐はじわじわと東の方向へ移動してゆく見込みだ。通報を受け、これからイチコがパトロール業務に出向く目的地は、シティの中心部から北北東の方角へ九十キロの距離にあった。下手をすると砂嵐を追って、あるいは砂嵐を引き連れて、移動するはめになりそうだ。


 イチコはその旨と事の次第を入力して、R国政府所属のスーパーAI、通称“ママン”に予定変更のお伺いを立てた。即刻、返答があった。


『本日の予定変更願いは却下。ナビゲーションに従って行動する限り砂嵐は脅威とならない』


 添付のロードマップに辿るべきルートが示され、目印となりそうなポイントには通過すべき時刻が記されてあった。それに従って移動すれば砂嵐の直撃は避けられる、というママンの予測だった。過去の的中率は九十%超を誇っている。


 ママンが予測した出発すべき時刻を見て、イチコは文字通りに跳び上がった。

『九時七分~十六分』

 現在時刻は九時十分だった。猶予はたったの六分間しかない。デスクの下で伏せていた大型ミックス犬のドーリーは、気配を察知してすでにダッシュの構えだ。イチコは必要な装備をつかみ取り、出動の号令をかけた。


「ドーリー、行こう」


 ゴールデンレトリーバーの体格と尻尾に、ウォルシュ・コーギー・ペンブロークの長い耳と短めのたくましい脚を持ったドーリーは、艶やかなゴールドの毛をなびかせて駆け出した。イチコとつかず離れずの間を保ってオフィスを駆け抜け、地下駐車場へ降りるシュートには先立って飛び込んだ。


 地下駐車場には数十台ものパトロール用小型EVがずらりと並び、天井から伸びた充電ケーブルに繋がれていた。どのEVも外観はほとんど同じなので、イチコは全速力で走りながら駐車スペースの番号を数えた。けれどもドーリーは一直線に、一台のEVを目指して先着し、高らかに吠えてイチコを呼んだ。たしかにそれはイチコの八十六号車、正解だった。


 イチコはEVから充電ケーブルを外してドーリーを乗せ、自分も運転席に収まった。自動的にエンジンがかかる。ママンの予測マップをEVのナビにインストールしたところで、九時十五分。イチコの八十六号車は駐車場を飛び出し、公道に乗った。


 時刻は九時十六分を指した。後方の空は渦巻く砂嵐に覆われて暗いが、前方は辛うじて明るさを留め、視界が開けていた。たしかに、前進を妨げるほどの支障ではなかった。さすがはママン、予測通りだ。ただし問題は、背後から迫り来るあの巨大な砂嵐を脅威と思わずにいられるかどうかだ。


 四年前、十四才の自分ならあの砂嵐のど真ん中へ突っ込んで行ったかもしれない。そう思ってイチコは苦笑した。怖いはずのものを怖がるまいと突っ張った、なんとも捨て鉢な子どもだった。ラインガード、ベアナックル、路上生活。わざわざ危険を選び取ったような日々を送っていた。思い返せば、いまこうして無事に生きていることが不思議なくらいだ。


 あれからイチコの身長は毎年一センチずつ伸びて、四年後のいまは一六〇センチをほんの少し超えた。リリックMの言いつけを守り、ニコチンを含んだSD錠を飲まなかった結果かもしれないし、そうではないのかもしれない。本当のところは、だれにもわからなかった。


 ともあれ、リリックMはイチコを保護してくれた。最も危うい時期、保護されることが必要な時期にそうしてくれたのだ。まるで、自身が産まなかった八人の子どもたちの代わりのように。彼女の関心と個人資産は、イチコのようなネイティブニッポン人の血を引く子どもたちを守ることに注がれた。


 といってもR国政府当局の強大なパワーに、高齢の一女性であるリリックMが立ち向かえるはずはなかった。表向きはあくまでも、政治的に無色透明で温和な富裕層のひとりなのだ。すべては密やかに、決して目立たぬように行われなくてはならなかった。


 パーソナルAIであるアイPの助言を受けたリリックMの目的はただひとつ、ネイティブニッポン人の血脈を根絶させないことだった。それゆえに、保護を受けたイチコに課された命題もたったひとつ、賢くしぶとくしなやかに生き抜くこと、それに尽きた。


 そうして再びアイPからの助言を得て、十六才になったときにイチコは隠された。そこは遠い野山でも他国でもなく、このサッポロシティのど真ん中にあるR国政府機関の内部という、意表を突いた場所だった。リリックMは驚きながらもアイPの依頼に応え、ありったけの手を尽くした。その甲斐あってイチコはめでたく、市民生活保全課に採用されたのだ。


 この市民生活保全課という部署は、役所内に於けるカテゴリーでは文字通りに、市民生活の安全を保つために働く者たちの職場である。具体的には、シティの居住区域から離れた郊外に住みつこうとする人々を見つけ出し、条例の定めに従って、ふさわしい居住区へ移ってもらうよう指導することが主な業務であった。


 見習いとして先輩課員に同行したその日に、イチコはさっそく思い知らされた。居住区を嫌ってひっそりと、尚且つ各々の流儀で山中に住む人々に『指導する』という職務が、いかに難しいかを目の当たりにしたのだ。先輩課員は新入りのイチコを意識したせいか、のっけから空威張りの態度に出た。すると相手の男は少しもひるまずに応じて、その場に一触即発の緊張が漲った。


 しかし南方系の移民らしい風貌の男は、不意に態度を和らげた。怒りを抑えて『指導』に理解を示し、譲歩した。男の背後には小さな子どもを含む家族たちがいた。対して先輩課員の肩には、高性能のエアシュレッドライフル銃があったのだ。


 なんのことはない、保全課の職務はラインガードのバイトと似たり寄ったり、むしろ危険度が高いかもしれないと知った。イチコから事の次第を聞いたアイPとリリックMは珍しくうろたえ、大いに気を揉んだ。しかしこの配属と適性判断は、R国政府のスーパーAI“ママン”によるものであって、誰にも異議を唱える余地はなかった。


 よくよく考えてみれば、イチコの父トビアス・ウェットフィールドは、シベリア産天然ガスのパイプラインが通る小国ツェルクスタンの出身で、筋金入りのラインガードだった。その娘であるイチコもまた、若くしてすでにラインガードを経験している。


 この出自と経歴があればこそ、保全課に採用されたのではないか。ママンの適性判断は正しい。自分は生まれながらのラインガードだ。武装してパトロールする保全課の職務に向いている。初出動から二年後のいま、イチコはそう感じていた。


 シティの居住区域の出入口にはゲートがあり、二十四時間監視されていた。しかしもちろん、パトロールEVはフリーパスだ。通過する瞬間、パッチリと見開いた目でまっすぐにカメラを見るだけでいい。瞳の虹彩と顔立ちの認証が同時に行われ、イチコ・フォレスト・ウェットフィールドとパトロール犬のドーリーが、八十六号車に乗って出動したと記録された。


 ゲートの外の公道沿いに、家並みはまったくなかった。住宅と呼べるような建物は、廃屋さえも残されていない。ときおり視界に現れる建物はむやみと大きく素っ気なく、何かの工場に違いないと思うのだが、何の工場であるかを示す情報は少な過ぎて読み取れない。関係者だけが知っていればいい、そういうスタンスなのだった。


 やがて工場群が途切れると、その先はひたすら田園風景が広がった。平坦な大地をまっすぐに幹線道路が貫くこの景色を見た移民たちは、ほぼ例外なく大陸のようだと評した。そうして少し考えてから、つけ加えるのだ。緑が多く手入れの行き届いているところが、違うと言えば違うけれど。


 イチコは大陸の風景を知らなかったので、ふうんと頷きながらも訊いてみた。それってつまり大陸の人たちは田んぼや畑を耕したり、あちこちに木を植えたりはしないってこと?


 しないんじゃなくて出来ないのさ、土が違うからね。そう言ってハサムはイチコに、故郷の農業事情を語り聞かせてくれた。こんなふうに湿った黒い土じゃなく、乾いて赤茶けた土だから、採れる作物は限られるし量も多くない。なにしろどうやっても、水が足りないんだ。


 イチコが見習い保全課員として初出動した日に出会った、南方系の家族連れの男がハサムだった。あのとき家族に対する責任感ゆえに、先輩保全課員の横柄さに耐えてトラブルを回避したハサムは、いまではR国政府の信任を得、広大な農地を貸与されていた。


 農地を貸与され、農業従事者と認められた者とその家族のみが、シティの居住区域外に住むことを許された。イチコの八十六号車は公道から左に折れて、ハサムの住居に続く長い農道に入った。水田には植えられたばかりの苗が整然と並んでいた。ハサムとその家族の仕事ぶりは、いつもこんなふうに丁寧で美しい。見るたび感嘆せずにはいられなかった。


 真っ先に犬たちが駆けつけ、つられて子どもたちも集まってきた。興奮したドーリーがひと声吠えた。イチコは犬たちと子どもたちをざっと数えた。十四人と十二匹。どちらも、この前来たときより増えたような気がする。やれやれ。ハサム農園では、そのうち保育所が必要になりそうだ。


子どもたちの中心にはハサムがいて、にこやかにイチコを出迎えた。


「ドーリーを走らせてやってもいいかしら?」


「もちろんだよ。大きな犬にはたくさんの運動をさせてやらなきゃな」


 EVの車内から解放されたドーリーは喜色満面で駆け出し、ハサムの犬たちがけたたましく吠えたてながらその後を追った。


「さて、今度はなにが起こったの?」


「水だよ。やつらのせいで用水路の水が濁ってるんだ」


「あなたから注意した?」


「一回した。昨日の朝だ。やつらは気をつけると言った。水が濁らなかったのは、昼間の内だけだった。夕方にはまたひどくなったので、通報した」


「よかったわ。すぐ通報してくれて」


「やつらのやることは気に食わない。オレは怒っているが、喧嘩はしたくない。トラブルは駄目だ。自分たちのためにならない」


「それでいいのよ。ハサムは正しいわ」


 思慮深く争いを嫌うハサムは、勤勉で家族思いの父親でもあった。聞けばその出身国は、イチコの父トビアスの故郷に近いらしい。それを知ったハサムは、より一層イチコを信頼してくれるようになった。友人としても、いわば申し分のない男だった。


 敷地内を横切って用水路に向かう途中で、イチコは四人の女性たちに出会い、うなずき合った。しかし、控えめでにこやかな彼女たちの誰とも、言葉は交わさない。どう対していいか、わからないからだ。それぞれの作業に勤しんでいる四人の女性たちはみな、ハサムの妻なのだった。


 言葉交わすなら誰かひとりとではなく、四人全員と公平に、でなくてはならない。少なくともイチコはそう考える。妻たちの間にも上下の関係はあるのかもしれないが、見たところは見当もつかなかった。だからイチコは妻たちに微笑みかけ、うなずき合うだけにする。妻たちの方からイチコに話しかけてくることもなかったので、それでよしとしていた。


 用水路の濁り方は予想以上にひどかった。土砂の濁りの中に、動物の毛や血糊のようなものが見て取れた。ハサムはそれらを、さも汚らわしそうに指して言った。


「やつらは豚を飼ってる。自分たちが食べるために豚を解体するのは勝手だ。けれども、オレの米と野菜を作るための水を、こんなふうに汚すのは許せない」


 ハサムとその家族は豚肉を食べないし、豚に触れようともしない。信仰だか習慣だか、イチコにしてみれば得体の知れない理由で、忌み嫌うのだった。


 イチコはホッカイドー産の豚肉を好んで食べた。中でも母ロージー・フォレストがつくるポークカツレツサンドの旨さは、言葉にならないほどだ。粉チーズをからめ、たっぷりのバターを加えた油で揚げた香ばしいポークカツレツを、トーストにはさんでかぶりつく。母ロージーとの間には確執もあったが、あのポークカツレツサンドを食べたいがために、イチコはときどき母のもとへ帰るのだった。


 ハサムの訴えを聞きながら、イチコは遠くもやった地平線を見回した。とりわけ西の方角が、空も地表も薄茶色に煙っている。かつてなかったほどに濃く禍々しい、木材が焦げたような臭気も漂ってきた。


「ハサム。いつもより危ない黄砂がたくさん降ってくる。犬と子どもたちと奥さんたちを、みんな家に入れた方がいい」


「ああ。今日は外仕事を休んだ方がよさそうだな」


「それがいいと思う」


「あんたはどうする?あれが通り過ぎるまで、うちでお茶でも飲まないか?」


「そうしたいけどムリね。わたしはガスマスクを持っているし、時間に追われている。だから仕事を片づけなくちゃ」


 イチコはドーリーを呼び、八十六号車に乗り込んで出発した。空気清浄装置をフル回転して、髪と保全課員スーツにまとわりついたPM2.5を吸い取らせた。ドーリーのぶ厚い毛並みは、特に念を入れて吸引した。


 そのあとイチコは業務日誌を記入する。ハサムの苦情の内容と、その発生源の調査に向かう旨、ママンに報告した。ママンから別段の指示はなく、この後の行動予定は承認された。


イチコはEVのAIチャンネルを切り替え、声をひそめてささやきかけた。


「アイP、聞いてた?」


「ハロー、聞いてましたよ、イチコさん。お仕事ご苦労様です」


「茶化さないでよ。そんなわけで、これから“悪鬼どもの巣窟”へ乗り込むわ」


「回避して帰路につく、という選択肢もありますよ」


「どうやったら、そんなことができるの?」


「もちろん、ボクが業務記録を改ざんするのです」


「ママンにバレたら大変。危険すぎるわ。大丈夫、こっちでうまくやるから」


「心配です。“悪鬼ども”も、黄砂の嵐も。どうか、くれぐれも気をつけてください」


「了解。ドーリーは元気ですって、Mさんに伝えて」


 定例報告を終えて、チャンネルを元に戻した。アイPの声に反応してクンクンと鼻を鳴らすドーリーを撫でながら、イチコはつぶやいた。


「キミには心配性の飼い主がいるけど、あたしには超心配性のAIがいる。だからふたりとも、ケガしないで無事に帰りましょう。OK?可愛いね、ドーリー」


『可愛い』と言われると大いに気を良くするドーリーは、高らかにふた声吠えて『イエス』の意思を示した。



                 ※



 ドクター・ギョートクと愛車のイブリンは、辛うじて巨大砂嵐を突っ切り、ポプラの大樹が立ち並ぶ森の一角にたどり着いた。車体が吹き飛ばされずに済んだのは、イブリンが大型EVである上に、診療業務に必要な医療機器を満載しているため、重かったことが幸いした。


「次の車検で重量オーバーを指摘されたら、砂嵐に耐えられるから重い方がいいのだと言ってやろう。なあイブリン、忘れないようにメモしておいてくれ」


「砂嵐より竜巻と言ったほうが、より効果的でしょう」


「まあそうだな。実際に体験するのは御免こうむりたいが」


 イブリンと軽口の応酬を楽しむ余裕を見せながらも、ドクター・ギョートクの表情はどこか上の空で、緊張と不安が入り混じっていた。まるで山林火災に巻き込まれてしまったかのようなスモッグが立ち込める車外へ、出ていく気になれないのだ。車から離れるということは、即ちイブリンと離れることを意味した。実はそれこそが、ドクター・ギョートクを惑わせる不安の根本だった。


 イブリンの一部を端末にダウンロードして、持ち出すことはもちろん可能だ。そうすることをためらわせる事情は、ドクター・ギョートクの側にあった。今回の訪問はそう簡単に片づくとは思えず、悪い予感がしてならない。一族の愁嘆場をさらけ出す破目になりそうだ。そんな場面をイブリンに見せることが、ためらわれるのだった。


 なんと、自分はAIの目を意識し、恥じているのか。いや、ただのAIではなく、仕事仲間のイブリンである。優秀なアシスタントでありアドバイザーでもあって、愛すべき友人のイブリンなのだ。何もかも見せてしまって、平気なはずがなかった。


 つらつらと思いをめぐらし、固まってしまったドクター・ギョートクに、イブリンはやさしくささやきかけた。


「ドクター。わたしを置いていかないで」


まるで、彼の内面を読み取ったかのようだ。ドクター・ギョートクは我に返った。


「もちろんだよ。キミがいてくれた方が、ずっと心づよいからね」


 リストバンド型の端末にイブリンをダウンロードして、ヘルメットつきの防塵コートを着込んだドクター・ギョートクは、深呼吸をしたのち重い腰を上げて車外に出た。


 まず、あるべきものがそこになかった。砂塵にもやったゴーグル越しの視界でも、彼の背丈よりも高い欅材の門柱を見落とすはずはない。木立に囲まれた車寄せには、旧式の改造EV車が数台、乱雑に停められてあった。その内の最も無骨な大型EVが、不自然に傾いている。ドクター・ギョートクはもしやと思い、近づいてその左前輪の下を覗き込んだ。


 思った通り無骨なEVは、欅材の門柱をなぎ倒し、その上に乗り上げていた。頑丈な欅材ではあったが、とうに二百年超の星霜を経ており、無骨なEVに踏みつけられて無残に大きくひび割れていた。それでもそこに墨書された『行徳寺』の文字は、どうにか読み取ることができた。


 そこは彼にとって懐かしむべき場所だった。祖父の代までは寺の住職として、ギョートク家の人々がここに暮らしていたのだ。R国政府によって歴史的建造物と認められた行徳寺は、解体撤去を免れて残された。ここで育った彼の父親はこの処遇を喜んだが、ドクター・ギョートクはもはや手放しで喜べなかった。なにしろ、保存のためのメンテナンスと管理のすべてが、彼の肩にかかっているのだ。


 それでも彼は、長年にわたって重い負担に耐えた。行徳寺こそは彼らギョートク一族の集うべき場所であり、アイデンティティの拠り所であると信じたからだ。いまや複数の強大国家によって分割統治されるに至ったこのニッポン国において、歴史的建造物を所有する一族というセレブ感が、誇りであったのも事実だった。


 ところが、事態はもはや彼の手に負えなくなっている。

ドクター・ギョートクはわざと大きく足音を立てて本堂正面の階段を上り、土足のまま廊下を進んだ。歴史的木造建築に対して忍びない仕打ちだったが、すでに無数の土足と砂塵に汚された床板を見れば、靴を脱ぐ気にはなれなかった。


 本堂の締め切った引き戸の隙間から、胸がわるくなるような甘ったるい香気がただよってきた。ドクター・ギョートクはガスマスクの中で大きくため息をついた。いつの世でも、はぐれ者たちのやらかすことは似たり寄ったりで、斬新さはどこにもないのが常だ。一体ぜんたいどうしてこうなのかと、首をひねった。


 境内を振り向けばかつて花壇であった場所に、数種類の薬草らしき植物が雑然と植わっていた。でたらめに栽培した麻薬草をでたらめに干し、でたらめに混ぜて焚いた結果、こんなにも胸がわるくなる臭いを放っているのだろう。怒りを覚えたドクター・ギョートクはためらいを捨て去り、勢いよく本堂の引き戸を開いた。


 内部にこもった甘ったるい煙と、外から押し寄せる砂塵とが、ドクター・ギョートクの鼻先でせめぎ合った。ガスマスクをしていなければ、昏倒したかもしれないひどさだ。ゴーグルの中で目を凝らした彼は、薄暗い本堂の床のそこかしこに転がっているかたまりが、人体であることを見て取った。


 かたまりの単位は二体一組だった。ぴたりと隙間なく密着しているものもあれば、お座なりに腰部分だけを繋ぎ合っているものもある。全裸であったり半裸であったりする中に、ほとんど着衣のものもあった。


 ドクター・ギョートクは目を背けながら、奇妙なことに気づいた。この場面では着衣で腰だけを押しつけ合ってるものたちの方が、横着で不真面目に見えた。それは自分の気のせいだろうか、それともこのあやしい煙のせいなのか?


「デイブ、いるのか?」


 ドクター・ギョートクは声を張り上げ、第二子にあたる息子の名を呼んだ。すると、着衣で腰だけ運動を続ける横着なかたまりの片方から、不承不承の応答があった。


「いるよ、父さん、戸、閉めてくれよ、砂が入るだろ」


 言いながらデイブは、繋がっている半裸の女体を手荒く裏返した。やせぎすの体つきは少女なのか、それとも老女なのかも見分けがつかない。女は深い陶酔状態にあるようで、されるがままだ。髪と背中と尻が砂にまみれている。ドクター・ギョートクは眉をひそめた。なんという不浄さ。


「このひどい煙を、出した方がよくないか?」


「いいんだ。父さんはマスクしてるから、平気だろ。閉めてくれよ」


 ドクター・ギョートクはいったん引き戸を閉めた。が、いつもいつもこの第二子の言いなりになってしまう自分に気づき、何のためにここまで来たのかを思い出して力を得た。もちろん、端末の中にいるイブリンの耳も充分に意識した。そして、すべての引き戸をガラガラと押し開けながら、持ち前の重低音ボイスを響かせて宣言した。


「ウチの門柱を踏みつけてるバカでかいクルマは誰のだ?いますぐどけなさい。じきに保全課のパトロールが来るんだ。どけなかったらあのクルマ、シュレッダー処分にしてもらうぞ」


 隅の方でかたまりがもぞもぞと起き上がり、身づくろいしながら車寄せへと向かった。ドクター・ギョートクはさらに力を得て、デイブを見下ろした。


「聞いただろう。川下のハサム農園が保全課に通報して、私にも苦情を言ってきた。家族の一人が罪を犯したら、家長である父親がすべての責任を負うべきだというのが、彼らの論理だからな。おまけにここはわが家のルーツだ。無視はできずに、こうしてやって来たというわけだ。


 なあデイブ、豚肉を食いたかったら、シティのマーケットへ行くなり宅配サービスに注文するなりして、清潔なパック入りの調理肉を買いなさい。どこで手に入れたか知らんが、丸ごと一匹の豚を解体して食おうなんて、先祖返りしたみたいな野蛮なマネはしてくれるな。不潔極まりないし、感染症の危険もある。おまえはその肉を食ったのか?」


「さあ、どうだったかな?なんてね、まあ食ったさ。けど、解毒剤飲んだし、感染症予防薬も飲んだ。モンダイないさ」


 ドクター・ギョートクは呻いた。減らず口をたたく間も、デイブは腰だけ運動をやめようとしない。嫌悪と不面目と怒りの感情が沸き上がってくる。そしてこの第二子が思春期の初めのころに、性欲抑制剤であるSD錠の服用を嫌ったこと、自分がその我が儘を聞き入れて服用せずに済むよう細工してやったことなどを、後悔の念とともに思い出した。


「デイブ、もうやめろ。その子を放してやりなさい」


「なに、コレのこと?」


「そうだ、ソレのことだ。人前で、とくに親の目の前でやるもんじゃない。そんなことをして楽しいか?」


「楽しくなんかないさ。けど、やめられないんだ。やっていなかったら、死にたくなる」


「なんだと?」


「死にたくなるし、殺したくなる。だから豚をやったんだ」


 ドクター・ギョートクは絶句して、ついさっきまで一族の厄介者と思い込んでいた第二子の顔をまともに見た。不明瞭な視界であっても、その顔色が土色に乾涸び、深いシワに覆われているのが見て取れた。虚ろに濁ったデイブの目は彼を見つめ返し、助けを求めている。驚きとともに憐みの感情が押し寄せた。ドクター・ギョートクはかつて愛し子だったわが子に近寄り、ささやきかけた。


「だったら、好きなだけやれ。しかし、孕ませるな」


「モンダイないさ。けど、父さんの『子どもOK枠』がまだあるだろ?万一の場合は一個貸してくれよ。あいつにくれてやってもうないんなら、まあしょうがないけどさ」


 途端に、よみがえりかけたデイブへの愛しさが吹き飛んだ。ドクター・ギョートクは曖昧に頷き、逃げるようにその場を離れた。すべての引き戸をきちんと閉めて戸外に出た。砂塵に煙った外気でも、麻薬草の煙が立ち込めた本堂の中よりは数段ましと思えた。


 ドクター・ギョートクは、由緒正しい出自と国家に有益な職歴を持った人物として、十三人の子どもを持つことが許されており、現時点で十一人の子どもたちの父親だった。およそ半数はデイブのようにすでに成人していて、もはや子どもと呼ぶにはふさわしくなかったが。


 ならば自分は十一人もの子どもたちの父親として、ふさわしい存在だろうか。その点を考え始めると悩ましかった。なにしろ十一人であるから、母親もひとりではない。彼には三人の妻がいた。しかしそのうちの誰一人、さらに子どもをつくりたいとは望んでいなかった。


 しかし、いったん設定された十三人の枠はうやむやにならず、どういうわけか一人歩きを始めた。即ち、定期的に目標値達成を求められるのだった。つまりドクター・ギョートクは残る生涯の間に、あと二人の子どもをつくらなければならない。とんでもない本末転倒だった。


 大学病院の同僚の中には、同じ問題を抱えた者が何人かいた。それぞれのやり方で解決を図ったが、近年密かに定着しつつあるのが、デイブの言った枠貸しである。逆に言えば、届け先のない非合法の出生児を借りて枠を埋めるのだが、誰の子でもいいわけではなかった。


 最もふさわしいのは近親者の子で、次が特別待遇奨学生の子だった。ドクター・ギョートクにとっては、ケイシー・オンザビーチ・イントゥザギョートクがその特待生である。ケイシーは出自も両親もわからない孤児だが、ネイティブニッポン人のDNAを持っていて、たしかに優秀な人材だった。この数年間で、次世代のドクター・ギョートクを名乗るにふさわしい技術を、着々と身につけていた。


 それは誇らしいと同時に、どうにもやるせない現実でもあった。ドクター・ギョートクには十一人もの子があるのに、R国政府のスーパーAI“ママン”は、その中に彼の後継者にふさわしい者はいないと、判定を下したのだ。デイブが言ったあてこすりのあいつとは、ケイシーを指した。彼の第二子は、父の実子ではない後継者のケイシーを憎み、傷ついているのだった。


 リストバンドの中から、イブリンがささやきかけた。


「ドクター、パトロールEVが近づいて来ました。千メートル西です」


「保全課員は誰だ?」


「イチコ・フォレスト・ウェットフィールドとドーリーです」


 デイブとはぐれ者たちに呼びかけようと振り向いて、ドクター・ギョートクは車寄せから次々と、改造EV車が出ていこうとしているのに気づいた。例の無骨なEVは何度か方向転換をやり直し、そのたびに欅材の門柱を踏みしだいた。バリバリと門柱の砕ける音を聞きながら、ドクター・ギョートクは最後の一台が出ていくまで、じっと待った。


 イチコの八十六号車が滑り込んできたとき、ガスマスクを脱いだドクター・ギョートクは門柱のあるべき場所に座り込み、欅材の破片を並べていた。


「ドクター・ギョートク。どうしてここに?」


「やあ、イチコ。私の名前は日本語表記すると行徳で、この行徳寺の所有者なんだ。キミは漢字を読めるのかい?」


 ドクター・ギョートクは、拾い集めて組み合わせた門柱の文字を指さして言った。イチコは首を振った。


「カンジはわかりません。あの、ハサム農園からの苦情を聞きましたか?」


「その件ならすでに片づいた。はぐれ者たちがこの寺を不法に占拠して、川下に迷惑を垂れ流していたようだが、この通りもういなくなった。これから清掃業者を呼んで、寺全体を殺菌消毒してもらうつもりだ。今後は管理を徹底して、無法者の立ち入りを禁止する」


イチコはドクター・ギョートクを見つめ、首を傾げた。


「禁止するといっても、ここは森に囲まれてるから…」


「まあ、そうだ。入ろうと思えばどこからでも入れる」


 ふたりは無言で見つめ合った。EVの中からドーリーも二人を見つめていて、ワンとひと声吠えた。イチコが先に折れた。


「OK、ドクター。あなたが所有する行徳寺と周辺の森の中では、違法行為は行われず、なんの問題もありません。今後もおそらくないでしょう」


「わかってくれて嬉しいよ、イチコ。ケイシーから連絡はあるかい?」


「いまどこにいるかも知りません」


「ガスラインのシベリア本社で、外科治療の実践研修中だよ。相当きついらしいが、このホッカイドー州でやっていくには、ガスライン抜きじゃ成立しないからね。まあ、あいつはよくやってる。キミもがんばってると伝えておこう」


「ええ。よろしく」


 ほとんど強制的にドクター・ギョートクに見送られ、イチコの八十六号車は行徳寺の森をあとにした。想定外の早い帰還となったので、西方向へ戻るのは砂嵐に突っこんでいくようなものだ。しかし、ママンの指示を仰ぐのもためらわれた。


 どうすべきかと迷うイチコの背後に、いきなりグートが現れた。身長は一四〇センチ弱、ドクター・ギョートクの第九子にあたる十才の男児である。


「なあ、イチコッ、オレのっ、アイジンにっ、なれよっ」


「グート。どこにいたの?まさか、ずっと後ろに乗ってた?」


「ちがうっ。パパのイブリンにっ、隠れてたっ」


「イブリンには探知機能があるから、すぐ見つかったんじゃない?」


「パパにバラしたらっ、バッテリー抜いてやるって、言ったらさっ、黙ったぜっ」


「あらま。AIを脅かしたの?」


 イチコは思わず高らかに笑った。するとグートも嬉しそうに、特徴的なぶつ切り口調でくつくつと笑った。思えば、それがいけなかったのかも知れない。グートのような反社会性を伴う破壊的人格障害の児童は、いったん親和した後の拒絶を裏切りと捉え、激高しがちだった。


 それから例の果てしない『アイジンになれよっ』攻撃が始まったが、イチコは聞いていなかった。だから本当のところ、グートが何を言い出し、どんなことに激怒したのか、実はよくわからない。


 ただ、ケイシーの名前を聞いたような気がした。ケイシーって、なんだよあいつ。グートはそんなふうに、言ったかもしれない。違ったかもしれない。たとえ問い詰められても、イチコには答えられなかった。


 突然、グートが背後から体当たりしてきた。イチコは反射的に突き飛ばした。グートの身体は小さくて軽く、比べてイチコの腕力は案外強かった。とにかく八十六号車の自動運転モードが外れ、車体は路外に転落したのだった。


 イチコが気づいたとき、倒れたグートの上に、ドーリーの太い前脚とぶ厚い胸板が載っていた。まるでヘッドロックをかけたような格好で、グートの頭を抑え込んでいた。いったい何分間、そうしていたのか。急いで引き離したら、ドーリーは不満そうに歯をむいて呻った。


 すでにグートの息はなかった。

 公式に報告するなら自損事故の結果は、保全課員一名軽傷、同乗者一名死亡となるだろう。しかしこの死者は、そもそも乗っているはずのない十才の児童なのだ。


 イチコは叫んだ。


「アイP、どうしたらいいのよ?」







 














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森の中へ 千田右永 @20170617

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