第2話 今日は聖なる日

「あ、リリノスケさんの飼い主さんですか」

 寒い寒い二月の朝、いつものようにしょぼくれた顔で大学に向かっていると、背後から声がした。若い女の子の声だったのでどぎまぎしながら振り向くと、……そこにいたのは一匹の白猫だった。がっかりした。

「リリノスケさんの飼い主さん、ですよね」

 俺のがっかり顔を見て自信がなくなったのだろう。白猫は美しいエメラルド色の目をぱちくりしておれを見た。

「そうですが」

 見知らぬ猫なので敬語を使ってみた。白猫はぱっと顔を輝かせ、

「これ、リリノスケさんに渡してくださいっ」

 と電柱の陰から何かをくわえて来た。よだれでべっとりのそれを見ると、チョコレート……を想起させる色の鰹節だった。

「じゃっ」

 白猫は慌てた様子で、「きゃー渡しちゃった」みたいな足取りで、去った。

 おれは鰹節を脇に抱えて歩き出す。すると横の塀の上から、もうこれは確実に猫だと思うが、声がした。

「すみません、リリノスケさんの」

「飼い主ですが」

 驚いた様子の三毛猫は、やはり何かをくわえていた。やはり鰹節。

「よろしくお願いいたします」

 大和撫子風のその猫は、しずしずと歩いて去って行った。

 猫サイズの鰹節の塊が二つになった。おれは教科書類が仕舞われたバッグからエコバッグを出した。母のものをがめてきたのだ。そう、今日は、今日こそはおれにモテ期がやってきて大量のチョコレートが渡されるはずだと思っていた。このエコバッグはそのためのものだ。これさえあれば持ち帰りやすいじゃないか。

 しかし実際に中に入ったのは大量の鰹節だった。

 大学に着き、大教室に入った。いつものように後ろのほうでイケてない連中が携帯ゲーム機で遊んだりぼそぼそアニメの話をしたりしているグループに混ざる。一人が目敏くエコバッグを見た。

「太郎、それは?」

 五人が一斉にしんと静まり返る。まさかこいつ抜け駆けしておれたちに相応しくないあの茶色い菓子を大量に手に入れたんじゃないだろうなという視線がおれをちくちく刺した。

「は、母親に買い物頼まれて」

 やむにやまれず嘘の説明をした。五人は信じない。尚もおれを見つめている。しかし「奴がモテモテかもしれない」という想像に耐えきれなくなったのだろう。一人、また一人とゲーム機へ、アニメの話へ、身を投じていった。こいつら、逃避が過ぎるぞ……。

 内容の理解はできかねるが講義を終え、家に帰った。ゴロゴロ日和である。こたつで寝たら最高に気持ちがよかろうと急ぎ足になった。外は寒いのだ。

「あの……」

 美しく大きな血統書つきっぽい栗色の猫がうちの前に座っていた。寒いのに、ずっと待っていたのだろう。体は震えていた。

「リリノスケですか?」

「ええ」

 鈴の鳴るような声だった。猫は横に置いていた大きな鰹節をくわえて立ち上がる。おれは慌てて受け取る。鰹節が大きすぎて彼女の口では支えきれそうになかったからだ。

 猫はおれに近づいてささやく。

「あの方にお伝えください。愛しています、と」

 おれが「愛しています」の一言に口をぱくぱくさせていると、猫は去った。結局、エコバッグは鰹節でいっぱいになってしまった。

 家に帰ったらこたつに奴がいた。両手を万歳にして仰向けに寝ている。相変わらず不細工な顔だ。

「リリー」

 目が開いた。万歳のままおれを見る。

「何だ」

「何だじゃないだろ」

 リリーはおれの持ったエコバッグをちらりと見る。

「また大量だなあ」

 迷惑そうな顔だ。おれは目を見開く。

「猫又化する以前から毎年もらってるんだよ。いらねーって言ってるのに」

 何だと……。このバレンタインチョコレート的な鰹節をいらない、だと……。

「お前もチョコレートを大量にもらったら困るだろ。それと同じだ。まあありえん例えだがな」

 リリーがあくびをした。また寝そうな顔だ。

「リリー」

「何だ」

「お前の本名、リリーってばらしていいか」

「そしたら殺すから、いいよ」

 おれはうなずいた。白猫や三毛猫の嬉しそうな様子、最後の猫の寒そうな様子を思い出し、決意した。

 殺されたくないから黙ってる。

 そんなバレンタインデーの正午。

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