#93 Her Name
「桜……」
「新たな門出を祝う春の季節には、やはり桜が欠かせないでしょう」
淀みのない言葉がすっと心の中に染み渡る。
私はとんでもない勘違いをしていた。もし清川を殺した人間が目の前の彼女なのだとしたら、私はきっとその儚げな表情を見て竦み上がっていただろう。春は桜、そんな当たり前のことに気が付かない私がひどく愚鈍だと――彼女の言葉が教えてくれた。
「さっきの……、魔女の格好をした女性は何というお方ですか?」
「杏子さんですか?」
私は頷いた。
「そう、その杏子さんです」
「どうしてそんなことを聞くんですか?」
「やらなければいけないことがあるからです」
「……その血の付いた錐と何か関係が?」
彼女は再び錐に目を落とした。
「関係あります」
私は柄を強く握り締めた。
「教えてください。もう時間がないんです」
その杏子さんが拳銃を片手に伊谷さんと千紗を追って行った。彼女の様子からして二人を始末しようとしていることは分かった。この旅行を裏側から操っていた彼らの会話を聞くに、そもそもこの洋館から逃走者を出すことは彼ら自身の立場を危ぶめることになる。二人の命の灯がこの血塗られた洋館の中でぞんざいに吹き消されてしまう――それだけは必ず阻止しなければ。これから人を殺そうという
「教えてください。これから私は――」
「殺すんですか?」
「――!」
「杏子さんを殺したいんですか?」
「それは……」
「言いたくないことなら言わなくて結構です。ここで私が貴方を止めなければ殺人幇助になりますからね」
何だって? 私は眉間に皺を寄せた。
「殺人幇助も何も貴方さっき私達の目の前で正臣さんを殺したじゃないですか。あれが罪に問われないとでも思っているんですか? 確かに彼に向かって撃ったんですよ?」
勇んで前に出た拍子に自分の額を固い棒状の物が叩いた。
それは床の上を跳ねると、カラカラと音を立てて転がっていった。
「……痛っ」
見るとそれはこの旅行の間に何度も目にした魔法の杖だった。
椿さんの方――杖が飛んできた方だ――を恐る恐る見ると彼女の顔が憤怒に染まっていた。
「出鱈目を言わないでください」
「デタラメ? いや、貴方は確かに――」
「何を言っているんですか? 私は人に向かって拳銃を撃ったことなどありませんし、ましてや人を殺したことなどありません」
「で、でも実際に――」
「証拠はあるんですか?」
私は言葉に詰まった。
確かに、彼女は天井に向かって発砲したが、それが正臣さんに被弾して死に至らしめたという証拠はない。私達はただ何かがくずおれる音を聞いただけだ。彼の死をこの目で確認できた訳ではない。
しかし、彼女が殺害の事実を否定する理由は罪を逃れたいわけではなく、別にありそうだった。
「先輩の前で滅多な事を口にしないでください」
そう……、彼女は拳銃を使う時、あの別府さんという男性の視界を一時的に遮った。まるで可愛い我が子に不埒な物を見せまいとする母親のように。彼女にとって人を殺すことは容易く、人目に憚られることではない。しかし、彼には見せたくなかった。あの男に見せたくない理由があったのだ――。
「先輩、あれは魔法です」
椿さんは徐に別府さんの頭を抱き寄せ、愛おしそうに髪を撫でる。
「なにも怖いことなんてないんですよ。この世は愛で溢れているんです。ねえ? 私と約束したでしょ? 痛みも、悩みも、寂しさも、ぜんぶ魔法が解決してくれます。だからそんな悲しい顔をしないで、先輩」
顔を寄せて彼の耳元で呟く。
「
目を瞑る別府さんの顔が安らかな表情へと移り変わる。
「先輩も分かるでしょう? 正臣さんは悪い人間だったんです。悪者を魔法でやっつけただけです。先輩のような心の清き人間は魔法に救済されるんです。だから怖がらないで、今からここで何が起ころうとも――いいですか?」
椿さんはそう言うと私に投げつけた魔法の杖を床から拾い上げ、ゆっくりとした足取りで参加者一人一人の脇を通り過ぎ、最後にかつて魔女が座っていた奥の席に着いた。そして「WAVE」の声と共に掲げた杖を振り下ろす。ぞくぞくと不快な寒気がした。瞬きをする。角膜が膨らむ。そこに映るこの世の地獄。長短様々な肢体がうねうねと動き始める。体をくねらせ、激しく痙攣し、次々に身を悶えさせる参加者たち――彼女の一振りで悲鳴が飛び、彼女の一振りで誰かの息絶える声がした。阿鼻叫喚の地獄絵図が、目を閉じても瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
彼女はなぜこんなことを――?
能面のような無機質な笑み、彼女の嬉々としたその表情を見ながら、私はやがて自分が魔法の世界に沈みこんでゆくのを感じていた。この旅行は全て演者によって仕組まれた茶番劇だった。そのはずだった。それなのにここに来て私は彼女が、彼女こそが〝魔法使い〟なのではないかと思い始めていた。
母の言った〝人間〟になることとは〝愛し続ける試練の重圧に耐え、打ち克つ〟ことだった。そのためには過去を顧みず、他人の目を臆せず、ただひたすら愚直に突き進むことだった。道中に
ただ私に務まるだろうか。その責務を果たすことができるだろうか。いざ勇んでみたものの言いようのない不安が押し寄せ、私の心は今にもぐちゃぐちゃに潰されてしまいそうだった。彼女の姿を見ていると――私は不安になった。彼女はここまでのことをやってのけているのに、という底知れない不安。
椿さんは、別府さんのために、何をしたか。
肌を重ねること?……違う。
人を殺すこと?……違う。
魔法使いを演じる事?……それも、なんだか違う。
そうじゃない、彼女は〝魔法使い〟になった。
〝魔法使い〟になって、魔法を使う自分の姿を別府さんに見て欲しかった。大量殺人という血みどろの現実感を押し付けてでも、そこに〝魔法〟を見せることで、自ら没入する魔法の世界に彼を誘いたかった。真の意味で彼と一つになるために。彼と二人きりの世界を生きるために――。
私に出来るだろうか……?
杏子さんを殺し、彼女と清川の因縁を断ち切り、私の頭の中だけで生き続ける彼の姿を創造できるだろうか。
「……わ、私も」
呟く声に、椿さんが反応した。
参加者たちは既にみな息もせず、濁った瞳で天井を見上げていた。
「私も〝魔法使い〟になれるでしょうか……?」
「なれますよ」
彼女は微笑み、その手に持っていた杖を私の手に託した。
「それを貴方が望むのなら」
「いったいどうすればいいのでしょうか……?」
敬虔な信者のように、縋る思いで彼女の言葉を待った。
「――聞いたことがあるはずですよ。人を殺せば魔力を得られる。魔力を得なければ、魔法使いたり得ません。誰を殺すか――それはもう心積もりが出来ているはずです」
息を呑んでから、私はまた彼女に同じ問い掛けをした。
「杏子さんの名前を教えてください――私に、彼女を殺す勇気をください」
少し間が空いて背後の入り口から杏子さんが姿を現した。私はその気配に気づいていながらなおも椿さんを見つめたまま口を開いた。
「椿さん……、私は貴方のような〝魔法使い〟になりたい! だから私に勇気を! どうか私に……!」
「……」
「どうしたの、結衣? もしかしてようやく魔法の力を盲信する人間が現れたのかしら。……やったわね。これで彼女が証言台に立ってくれれば――」
杏子さんの顔がホッと緩み、
「彼女の名前は〝桜〟見杏子です」
痛烈な表情に変わった。
その答えを待っていた私が血の付いた錐を彼女の心臓に突き刺していた。
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