#69 Fiore
『お兄さん達、お名前は?』
『僕は宮田と言います。こちらは先輩の清川さん』
後輩が俺の背中をそっと押す。
『ウチの店に来るのは初めてですか?』
『僕は二回目です。前に来たのはもう半年も前になるんですけど。でもその時お見掛けした杏子さんがとても綺麗で……、ずっといつか来たいと思っていました』
『あら、そうですか』
杏子は後輩の世辞を上手くいなしながら、俺の方に視線をやった。
『清川さんはこちらにいらしたのは初めて?』
『今日、突然こいつに誘われてな』
『お二人はどういう関係?』
『まあ、会社の同僚みたいなもんだ』
後輩がいまの劇団に入ってきたのは俺より一年早かったが、俺は東明の養成所に通っていた期間があり役者歴は奴より長い。そうした複雑な事情を抱えているが、奴が俺を先輩と呼び始めたので、俺も何となく後輩として扱うようになっていた。
『会社?』
『ああ』
『そういえば、さっき、稽古がどうとか……』
杏子は視線を斜め上にやって、何かを思い出そうとする素振りを見せた。
『清川さん、なんでちゃんと説明してあげないんですか。杏子さん、困ってるじゃないですか』
『別に言いふらすほどの事じゃないだろ』
それに、役者なんて線引きが曖昧で、『役者をしています』と言っても、『最近出演したドラマはなんですか?』と詰められるだけだ。事実、そういう経験を何度もしてきた。だから俺は次第に自分の仕事のことは口にしないことにした。
『杏子さん。僕たち、役者をしているんです』
『おい、お前……』
杏子の反応は思っていたほど大袈裟ではなかった。彼女ぐらいの年齢の女なら、目を見開いて甲高い嬌声を上げるものだが(説明の後、ガッカリした顔をする)、杏子は違った。驚いていない訳ではないようだったが、反応を見るに、〝役者〟そのものに驚いたというより、〝俺たち〟が役者をしていることに驚いていたようだった。
『なんだか、意外』
杏子の言葉がそれを示唆していた。
『意外?』
『ええ。宮田さんはいかにも役者って感じがする』
『え? 僕、そんな感じ出てます?』
『はい』
『どういうところが?』
『具体的にどうだとは言えないけど』
杏子は口をつぐむ。全てではないにしろ、彼女の言わんとするところはおおむね理解できた。後輩は場の空気を敏感に感じ取り、柔軟な対応が出来る。そういう人間だ。役者は共演者の演技や舞台の雰囲気を掴み、いつでも自分の感性にそれを取り込んでいかなくてはならない。後輩は確かに役者らしかった。でも俺たちのことを知らない杏子にはそれを上手く説明できないのだろう。せいぜい頭の中に浮かんだのは、軽そうな男、というくらいだろう。
『杏子さん、そこんところ、もっと詳しく!』
『おい宮田、いいじゃねえか。役者が役者らしいって言われてんだからよ』
『だってぇ~、なんか気になるじゃないですか』
泣きべそをかき、カウンターの上で組んだ腕の中に顔を埋めた。
『清川さんは……、失礼ですけど、役者らしくない』
『どういうことだ?』
『……黒』
杏子は当てはまる言葉を考えて、ようやくそれを絞り出した。
しかし、説明が少なすぎた。
『黒?』
『黒色ってどんな色を混ぜても黒色以外の色にはならないじゃないですか』
『そう、だな』
『だから、誰に何と言われようと我を押し通す、そういう気概を感じる』
『それは、つまり、監督に台詞を与えられて、その都度指導をされても、自分の演技プランに従って演じようとする。そういう人間ってことか』
『そうですね』
杏子に悪気はないようだった。いや、多少、貶意は含まれていたかもしれないが、今の俺はそれを好意的に受け止めていた。自己を顧み、俯瞰的に自己を見下ろすのは、役者として大事な素養の一つだ。
『それにしても、初対面の相手によくそこまで言えるもんだな』
『普段、酔ったおじさん達を相手にしてるから』
『お、杏子さん。大胆発言』
後輩がギムレットに口をつけて、にんまり笑みを浮かべた。
『お兄さん達みたいな、
『杏子さん、いくつ?』
『今年で二十八』
『じゃあ、俺たちとそんなに変わんないね。一応、年上ってことにはなるのか』
『そうね。じゃあ、思ってたより若いのね。清川さんなんて私より年上かと思ってた。髪型とか、すごく地味だし』
杏子のタガが外れ始めた。
同年代の異性と話せて、いつもより人に対して心を許しているのだろうか。
『舞台がなけりゃ、こんな髪型してねえよ』
俺は五ミリに刈り取った短い髪を撫でつける。
『役作り?』
『そういうこった』
『私、ちょっとアナタたちの舞台に興味あるかも。いつやるの?』
『来月』
『詳しい日程教えてよ。あ、ちょっと待って、いまスマホ持ってくるから連絡先交換してもいい?』
杏子の大きな瞳が、俺の回答を待っていた。
『いいよ』
俺は短く返答した。
杏子はすぐバックヤードに戻っていく。のれんがひらりとはためいた。
『清川さん、さすがっすね』
『何が』
『あんな美女の連絡先をいとも簡単にゲットしちゃうなんて』
『あれは俺だけじゃねえだろ。お前にも言ってたはずだ』
『いやあ、あれを自分の手柄にしたら、僕、相当惨めですよ。初めから、清川さんだから連絡先を交換したんです』
俺はどういう訳か女にモテる。それを公言すれば、イタい奴に見えるから、言わなかっただけだ。杏子は俺に気がある。彼女が俺と同じシャンディガフを持って俺の席の前に来た時から既に感じ取っていた。女が発する特有の怪電波という奴を。
『アイツ、桜見杏子っつったか』
『はい、桜見さんです』
桜、か。
そう思い立って、背中がゾクリとした。
いま思い返せば、十八の時に結婚した女は名を〝
梅、蘭、茜、藤……、どいつもこいつも花の名前が付いている。
そして、桜だ。
俺はきっとまたこいつと運命を共にするんだ。
そう考え始めたら、彼女の誘いを拒否する理由なんてなかった。
杏子と連絡先を交換した後、何気ない会話を交わし、何杯かカクテルに口を付け、俺たちは店を後にした。
『いやあ、楽しかったですね』
『そうだな』
『まさか杏子さんがあんなにノリの良い人だったなんて。僕、前よりずっと好きになっちゃいました』
『彼女はいいのか』
『いまその話するのはずるいッス』
後輩はにへらと笑みを浮かべて、振り返って店のネオン看板を眺めた。
『どうした?』
『清川さん、また来ましょうね』
『ああ』
『清川さん、一人で来るつもりでしょ?』
『ああ?』
『今日、終始、杏子さんとイイ感じだったからなあ。清川さん、通い詰めないとですね』
『お前なあ……』
『店の名前ちゃんと憶えといてくださいよ?』
ふらつく指で後輩はネオン看板の店名を読み上げた。
〝
『フィオーレ? どういう意味ですかね』
『さあな』
俺と後輩が首を傾げながらその場を去ろうとしたその時、ステンドグラスの扉が開いて、杏子が姿を現した。
『またのご来店、お待ちしております』
優しい笑みを浮かべて彼女は言った。
酔いに溺れて項垂れる後輩の肩を担いで、俺は答えた。
『また会いに来るよ』
酔いが回っていたのは俺の方だ。柄にもなく
俺は後にこのことを後悔するようになる。
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