#47 Aura

「―――――」


 清川ではない。


 長い黒髪を揺らして歩く、蒼白の美女。絹のようなつややかな輝きが髪を舐め、揺れ動くたびその反射光が形を変える。黒髪と白い柔肌のコントラストは女の私でも見ていてうっとりとしてしまう。身長は高くないが、女性の可愛らしさを象徴する嬌小ぶりは、その存在を実際の何倍にも大きく見せる。女の魅力はかく見せるべきやと黙して主張するかのようだ。

 

 彼女はゆっくりと歩を緩め、千紗の隣で足を止めた。


「……?」


 気づいた千紗が怪訝な表情で見上げる。


「車酔い、ですか?」

「あ、はい。さっきの揺れで酔ってしまったみたいデス」


 伊谷さんの背中をさすりながら千紗が答える。


「よければコレ、お使いください」


 そう言って黒髪の女性が差し出したのは個包装になった酔い止めの錠剤だった。彼女の親切に感謝するより、急な戸惑いが先に出てしまい、千紗はつい苦笑いをする。


「あ、ありがとうございます」

「いえ、お大事に」


 彼女は爽やかな笑みを残して、通路の奥へと去っていった。

 私は背もたれの影から片目を出して、彼女の姿が消えた座席を確認する。後ろから二列目、右側奥の席……か。前座席のネットにしまっておいた旅程冊子を取り出し、配席図をなぞっていく。


 ―――――椿つばき 結衣ゆい


 なんて綺麗な名前なんだろう。

 名前負けしていない所もまた素晴らしい。


「なんか雰囲気ある人だったネ」


 千紗が声を潜める。


「すごくオーラがある人……だね」

「そうそう。去年、熱海で見た女優さんがちょうどあんな感じだったよネ」

「言われてみればそうかも。綺麗な黒髪もよく似てるし―——」


 去年の夏、千紗と二人で熱海へ温泉旅行に行った。日本でも指折りの名湯と謳われる地元の秘湯で汗を流し、温泉街で老舗の甘味に舌鼓を打ち、湯冷ましに茜空の下を歩いて、旅館に戻ろうかというところだった。

 つづら折りになっている坂道の中腹辺りで、賑やかな人の集まりを見かけた。それは群衆というより、それぞれが意図を持って動く集団チームだった。彼らの見つめる先を、眩しいライトの熱線が照らしている。


 すぐに分かった、何かの撮影だと。演者は、今をときめく旬の俳優ばかりだった。のちに、それは今年公開される恋愛映画の撮影だと知ったが、私と千紗はつい色めきだってしまった。まさかこんな所で映画の撮影現場を見れるなんて。旅行の間だけ訪れるサプライズの神様が、私たちのために予期せぬプレゼントをくれたんだ。野次馬はよくないと思いつつも、かかとが浮いて、つま先がつつつと引き寄せられていく。


 その坂道はつづら折りになっていたおかげで、下から見上げるとちょうど彼らがステージに立っているように見えた。


 そのステージを形づくるのは全て現実に存在するモノなのに、彼らの演技がそれを別世界のモノにしていた。魂の叫びが、滲み出る哀愁の嘆きが、吹き荒れる風を、舞う木の葉を、木々のさざめきを、映画の世界に溶け込ませる。


 その中に、ひと際輝きを放つ女優がいた。

 真っ直ぐな黒髪が揺れるたび、目を奪われた。見た目の美しさだけではない。振りまけばキラキラと光り輝くような、気品を感じさせた。これが女優か。画面越しでは絶対に感じ得ない、オーラというものを私は初めて信じるようになった。


 確かに、椿さんという方は、あの時見た女優と重なるものがある。


「目がぱっちり二重でさ、すっごい妖艶な感じ。あのミステリアスな雰囲気とかそっくりだよネ」

「ミステリアスって、彼女が?」

「ミステリアスでしょ。だってフツーの一般人が酔い止め薬なんて出せる?」


 言われてみれば不思議だ。

 椿さんがバスに乗り合わせた時、当然、彼女は席に着いていなかったのだから、伊谷さんが車酔いしているかどうかは知る余地がなかった。それなのに彼女は伊谷さんが車酔いしていると知るや否や、瞬時に薬を差し出したのだ。


「椿さんも車酔いしてたんじゃない?」

「椿さん?」 

「あ、ごめん。さっきの人の名前。座席表で見たの」

「え? なんか文乃、ストーカーみたい……」

「は? なんで?」

「フツーすれ違ったくらいの人の名前、確認する?」


 これから一泊二日を共にする仲間なんだから、名前くらい確認してもいいじゃないか。おあつらえ向きに、座席表まで用意されてるんだから。


「人の名前覚えるのって大事だよ。千紗、出世しないタイプね」

「あ! それ安江ママ言いそう!」

「やめて。お母さんの名前は出さないで」


 ケラケラと笑う千紗。

 隣でゴホゴホとせき込む伊谷さん。


「―――――あ、伊谷さん、ごめんネ。薬貰ったのすっかり忘れてた。文乃、水取って」


 私はペットホルダーから千紗の水筒を抜き出し、それを手渡す。


「はい、酔い止め。伊谷さん、飲める? 上向いて?」


 千紗の手厚い「介護」によりなんとか錠剤を喉の奥へ流し込むと、伊谷さんは顔を上げ、げっそりとした表情で作り笑いをした。


「あ、ありがとう……」


 すっかり青ざめた顔色は元々の肌の色も相まってとても不健康に見える。だが不思議なことに、彼はそれがとても様になっている。不運で、不憫で、不幸せ、そういう『フ』の感情が似合ってしまうのだ。

 

「伊谷さんは芸能人向きじゃないネ。オーラがまるでないもん」


 千紗の鋭い言葉に、私は失笑し、伊谷さんが咳込んで返事をする。

 

「ゴホッゴホッ……! 藤森さん、キツイこと言うなあ。いや、申し訳ない。何も言い返せない私も私なんだけど」

「まあ、とりあえず安静にしててヨ。私、隣についてるから吐きそうになったら言って」


 ポンポンと肩を叩く千紗。

 ホッとした伊谷さんは、そのまま深い眠りにつくようにそっと目を閉じた。


 その様子を見届け、私も安心して座席に腰を預ける。


 そうだ……、私たち、いま旅行に来てるんだ。魔法を使うという不思議体験ばかりが頭をチラついて、旅行の本分を忘れていた。使い古されているが『トラベルにはトラブルが付き物』という金言がある。旅行先では必ず思わぬようなアクシデントに見舞われるということである。

 伊谷さんが急に具合を悪くしたように、マジカル・ジャーニーでもいずれ病人や怪我人は出てくるだろう。例え今回でなくとも、いつかはそういう日がやってくる。その時、魔女はどうする? 運営側はどうする? そのハプニングをも魔法で解決できるのだろうか? いや、解決できなければ私たちは途端に現実に連れ戻される。警察や救急車を呼んだ後で、では気を取り直して……とはいかないだろう。これもマジカル・ジャーニーの潜在的な問題だ。普通の旅行ではあり得ない、この旅行ならではの問題だ。やはりまだまだ粗削りで、磨き上げの余地がある旅行なんだ。


(……ってなんで私、こんな使命感に燃えてるんだろ)


 心の内で嘆いた時だった。


 あの男の声がして、心臓が跳ねる。



「おい。お前どこ座ってんだ」


 来たか、清川……!


「すいません」


 厳めしく千紗を見下ろす清川の前に、すかさず私が割って入る。

 

「伊谷さんの具合が悪いというので、私の友人が介抱してあげているんです。もし良ければ少しの間、こちらの席に移っていただけませんか?」

「ああ?」


 清川は「なんでお前が話に入ってくるんだ」とヒリヒリするような視線を向けてくる。


「車酔い、だそうです」

「車酔い? そんなぐれぇのことで俺が移動しなきゃなんねえのか?」

「では、彼が盛大に吐瀉としゃした時、貴方はすぐに対処できますか?」

「なんで俺がやる前提なんだよ。てめえで片付ければいいだろうが」

「最悪、吐瀉物が貴方に掛かってしまうこともあると思います」

「はあ?」

「その時、貴方は冷静に対応できますか。今のように頭ごなしに怒るだけじゃないんですか。その時のために私の友人がついているんです。伊谷さんとも、そう約束しました」

「なに勝手なこと言ってやが……っ!」


 その時清川が見た伊谷さんはとても呼吸荒そうに、今にも吐き出しそうな様子だった。清川は舌打ちをして、歯噛みする。彼にも良心というものがあることが分かり、私は胸を撫で下ろす。


 それにしても、タイミングが良過ぎる。彼はさっきまで平然としていたのに、急に容態が悪くなったようだ。千紗が意味ありげな笑みを浮かべながら彼の様子を眺めているところを見ると、伊谷さん、あれは……、演技だな。さすが『フ』の感情が似合う男というだけあって、そういう演技は様になっている。命拾いしましたね、伊谷さん。


「おい……、この席でいいんだな?」


 しかし私と彼の間を流れるピリリとした空気は拭えない。


「チッ……、よりによってなんでお前の横なんだよ」

「仕方ないじゃないですか」

「おい、せめて窓側座らせろ」

「はい」

「ぁんだ? この席、酸っぱい匂いすんぞ? おめぇ何か食ったろ?」

「いえ」

「あぁ!なんたってこんなつまんねぇ堅物女が隣にっかねえ……!」


 こんな奴とこれからバスの中で小一時間を過ごすのか。

 あぁもう……、伊谷さんの身代わりになったかと思うと、全く『フ』に落ちない。


 

 






 


 

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